第5話 もうお終い

文字数 1,444文字

客に暴行を働こうとした俺は、当然のことながら出勤停止、自宅待機処分となった。梶原が、戻ってきた店主に強い口調で文句を言ったためだ。
俺は、今度こそ本当にもうお(しま)いかも知れない。これでバイト先や劇団まで失った。

「あの時きみのこと、つい呼び捨てにしちゃってごめん」
ジーンズ姿で店を出る俺に、無為が後追いし話しかけてきた。
「きみも僕のこと、無為って呼び捨てにしてほしいんだ。別に敬語も使わなくっていい。僕はきみと友達になりたいと思っているんだ」
そうだな。この男はどうせもう客ではなくなるし、そうなればたぶん会うことだってなくなる。気を遣って話す必要などないのかも知れない。階段を下りて一緒にビルから出た時、無為が言った。
「もし良かったら、僕のマンションここから歩いてすぐだから、これから一緒に飲まないか。一度二人だけで、ゆっくり話をしてみたいと思っていたんだよ」

警戒して距離を置くつもりでいたのに、今夜は無為のこの提案が嬉しかった。このまま一人自宅に帰っても、ひたすら気落ちし後悔と自己嫌悪に苦しむだけで、辛いのがわかりきっていた。誰でもいい。そばにいて気を紛らわしてほしかったのだ。

無為の住むマンションは、まだ築浅の瀟洒(しょうしゃ)な十五階建てマンションだった。デザイナーズマンションというのか、エントランスなど壁が白い菱形模様で装飾され、凝ったデザインになっている。
八階にある部屋も壁やドア、天井などは白だがフローリングの色、ソファー、カーペットなどインテリアは灰色で統一され、センスの良さを感じさせた。同じワンルームでもまとまりがなく雑然とした俺の部屋とは大違いだと思った。

「ビールかワインしかないんだけど、どっちにする?」
勝手にベランダに出て夜景を眺めていた俺に、無為は尋ねた。高いビルが乱立し車や人の多い道路に面しているが、意外に緑も見える。
「どっちも」
振り返り答えると、無為は少し笑って小さな冷蔵庫から二つとも取りだした。俺が窓際の三人掛けソファーに座ると、酒とグラスを目の前のテーブルに置く。そして一人掛けソファーに座り向かい合った。

「最近、店には顔を出していなかったね。毎晩のように来ていたのに、どうしたのかと気になっていた」
無為の言葉に甘えて、敬語を使わず俺は聞いた。そして缶ビールに直接口をつけて少し飲んだ。無為は、弱々しく微笑んだ。
「また少し体調が悪くなってしまってね。これでもだいぶ回復したほうで、様子見してたんだけど昨晩…」
「昨晩?」
「きみがあの男に殴りかかろうとする夢を見てしまって」
俺は缶ビールを手に持ったまま、動きを止めた。
「神威、僕はね、夢で近未来に起きることを察知することが多いんだ。夢の世界は霊界と繋がっているんだよ。寝ているあいだ魂が霊界と交わるというか。数日後、数年先の未来も予知することが出来るし、地震や津波など災害もわかる時がある。だから気になって、あの店を覗きに行ったんだ」
そう言うと、白ワインを瓶からグラスに注いでくれた。

「俺はもうお終いだな」
缶からグラスに持ち替えると、心に仕舞っておいた弱音を吐いた。
「神威、僕にはわかる。意外に思えるかも知れないけれど、あの男は実は悪人ではない。ちゃんと「自分も悪かった」と反省出来る男なんだ。単にきみがいい男なのが気に入らないだけだ。店のマスターも、大らかな人だよ。きちんと反省しているところを見せれば、ちゃんと理解してくれるんだ」
無為の言葉に、少し救われた気分になった。口に含んだワインが、丁度いい甘さに感じられる。

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