蒼木青子③

文字数 2,443文字

鬼束雪見宅への訪問は二度目だった。前回と同じように、居間に通されたら飲み物は何にすると聞かれた。今度は無難にお茶にした。馴染みのある味でほっとした。
今日こそ前に聞きそびれた最後の作品について色々聞きたいと思った。しかしその話を切り出す前に心の準備が必要だった。なのでお茶を飲む間に雑談から始まった。
「先生はずっと一人暮らしですか。彼女とかいないの?」
「彼女か……」
感慨深い顔になって、鬼束先生は何かを思い出したように遠い目で虚空を見ていた。出出(でだ)しに躓いたと、青子は思った。
「すみません。失礼なことを聞いて」
「いええ。彼女はいたよ。ここじゃない所に二人で暮らしていた。ここへ引っ越す際はもう独り身になったけどね」
「そうですか」
過去形という話なら、あまり触れてはいけない気がした。それで別の話題にした。
「ペットとか飼わないんですか?私は犬派ですけど、先生はどっちですか?」
「僕はどっちでも好きだよ。飼ったのは猫の方だけど。そいつは全身白くて、とにかく人懐っこかった。何年前から飼ってきたけど、一年前にどっかに行ったまま帰ってこなかった。その前は姿が見えないと思ったらひょっこり現れたけど、今度はどれだけ待っても帰ってこなかった。それがかなり応えてね、それ以来はペットを飼わないようにした」
微笑みながら話していた鬼束先生の顔に、少し悲しみの色を帯びていた。残念な話ばかり聞いた自分を殴りたい、と青子は密かに思った。
「あのう、突然ですが、先生の書斎を見てもらっていいですか。私、先生の大ファンですから、一度先生の書斎を見てみたいなってずっと思っていました」
空気が気まずくなる前に慌てて話題変更した。幾分私利私欲が混じっているけれども。
「いいよ。面白くはないと思うけど」
それから二階に案内された。書斎は二階の廊下の左手側の部屋にある。向かいは鬼束先生の寝室らしいが、寝室まで見学したいという図々しさを持ち合わせていないため、意識しないように頭の中の余念を振り払った。
書斎のドアを開けて、図書館に似たような古本の独特な匂いが漂ってきた。その匂いを嗅いで青子は中学の時代を思い出した。あの頃彼女はよく学校の図書室に浸かっていた。あまり人が訪れないから、静かで好ましかった。あの頃の自分を振り返って見ると、何だか懐かしい気持ちになった。
やはりどんな場所も本の匂いは似たような物だな、と青子は思った。書斎に入り、両側の壁にもたれ掛かった大きな本棚が目に映った。手前から奥まで背表紙をざっと目を通して確認した。そこにいっぱい小説が詰めてあり、ジャンルは色々あって分類はせず適当に置いてあった。同じ作者の本が別の小説を挟んで見えることも結構ある。整理はしないんだ、と青子は妙な感心をした。
彼女の本棚いつも整理整頓されていた。同じジャンル、同じ作家は同じ区画に置くのが当たり前で、読み直したい物とそうでない物の区画も分けていた。鬼束雪見先生は整理の苦手な方なのか、青子から見てその本棚はかなり混沌であった。一番上の段だけ秩序を保っていた。今まで発行された小説が時間順に並べてあった。向こうの本棚も似たよな混沌状態であった。
本棚の次に、窓側の前に置いていた机に視線を向けた。見た目は普通の書き物机そのものだ。机の上に整理された原稿用紙や文鎮が置いてあって、その隣の筒状のペン立ての中に鉛筆や万年筆が数本置いてあった。その他にカップや額縁の付けた写真が立っていた。机の元に置いていたゴミ箱の中にしわくちゃに丸まった原稿用紙が半分ほど積もっていた。
「先生はいつもここで小説を書いているんですか?」
「大抵はね。気分転換に公園とかカフェとかで書いたりもした」
「作家って書く場所にかなり拘りと持っていると聞いていますけど、自分の部屋じゃなくても書けますか?」
「他は分からないけど、僕は割りと平気かな」
「すごいですね」
他愛のない話をしながら、青子の視線は額縁の写真から離れなかった。ここからじゃ正面は見えないから、気になって仕方がなかった。
やがて、好奇心に負けた青子は恐る恐るに聞いた。
「あのう、すみません…写真、見せてもらっていいですか」
「構わないよ」
額縁を取って、正面をこっち側に向けた。写真に映ったのは美しい女の人だった。その背景に桜が綺麗に咲いていた。場所は特定できなかった。その女性はカメラに向かってやや気恥ずかしそうに微笑んでいた。その面影はどこか鬼束先生と似ていると感じた。まるで妖精みたい、と青子は直観的に思った。
「この方は先生の彼女さんでしたか」
「彼女は妹だよ」
それを聞いて、何故かほっとした青子であった。
「僕の半身でもあったんだ」
その写真を見る鬼束先生の顔に悲しみや愛おしさが混ざり合っていた。
「半身って?」
「僕達は双子なんだ」
「なるほど」
再び写真の女性を見ると、確かに二人は雰囲気的にどこか似ていると思った。
きっと鬼束先生にとって、彼女は大事な人だったんでしょう。いつでも見れるように仕事の机に写真を置くくらい大切な人であるに違いない。この写真を見て、彼はいつも何を考えているんだろう?気になることではあるが、口に出すわけにはいかなかった。
その写真をそっと元の場所に戻して、青子は鬼束先生の視線がずっとその写真を追っていることに気付いた。それは暖かく、優しい目線だった。
彼女はこんなにも愛されていたんだな、と思って青子は羨ましい気持ちになった。
鬼束先生について知ることが増えてなんだかんだ満足した。そしていつの間にか緊張がほぐれた。
「そろそろ仕事の話をしましょうか。先日の件ですが、最後の作品について色々聞きたいです。理由とか、物語の内容とか」
「いいよ。でもその前にもう少し付き合ってほしいんだ。これから出かける予定だが、一緒に来てほしい」
青子は時間を見て、まだ余裕があることを確認して、頷いて承諾した。もっと深く鬼束雪見先生を知ることができるなんて、彼女にとってはまたもないチャンスでもあるのだから。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み