☆誰も知らない物語①

文字数 3,625文字

自分の不幸に気付くのは、幸せを知ったからだ。
少女はそう思った。それは自分にとって紛れもない真実である。
彼女は幸せな家庭に生まれた。父は小さな工場を経営しており、母は専業主婦だった。贅沢するほどの余裕はないけれど、家族三人幸せに暮らすには十分だった。父も母も優しい人で、時々口喧嘩があってもすぐに仲直りできた。そういう暖かい雰囲気の中で彼女は育った。
そんな幸せな日々はどこまでも続くと思っていた。それは当たり前の日常であり、太陽が東から登って西に落ちるように、永遠に変わらないものだと思った。
しかし、自分の知らない内に、幸せな日常にひび割れができてしまった。経済の不況に影響され、顧客はより低いコストを求め、海外に目を向けた。そのせいで父の工場への注文は段々減り、従業員達も次々と出ていった。やがて工場を仕舞わなければならなかった。機材や機械などを売ってようやく借金を返済できたが、貯金はほとんどなくなった。
その頃から明るい空気はあの家から消えた。父は再就業のために切羽詰まって、いつも顔を顰めていた。母親はアルバイトに駆り出された上、家事もやらなければいけないから、憔悴が段々顔に出た。その後も父は職に就けず、母のアルバイトは家で唯一の収入源となった。女に頼らざるを得ない現状が父のプライドに障り、煩悩から逃れるためお酒に浸っていた。
いつの間にか幸せはあの家から消えてしまった。酔い潰れた父は暴力を振るようになった。罵声と物が割れる音、そして母の泣き声、その全てが少女に恐怖をもたらした。
そしてそんな父に見限ったか、ある日母は忽然と消えた。少女はあの家に取り残された。
「ごめんなさい」
その一言の書き置きを残して、母は出ていった。多分もう二度と戻ってこないだろう。
何故母は自分を連れて行かいだろう。多分自分に失望したと思った。父に虐待された時、母のことを助けず、ただ自分の部屋に蹲って嵐が過ぎ去るのを待っていた。母に捨てられても、それが当然の報いだと思った。母がいなくなった後、この先は一層暗い未来が待ち構えている。それを考えると、少女は音もなく泣き出した。その涙は悲しみと恐怖と遣りきれなさが混じっていた。
母が消えた日、父はいつも通り酒臭い匂いで家に帰り、母の書き置きを見て大暴れした。家具が滅茶苦茶に荒らされて、それでも気が済まなくて、父の怒りの矛先は少女に向けた。
その後、父は母の実家に連絡して、自らそちらへ訪れた。それでも母は見付からず終いだった。母は本当に戻らないことを知って、半分ほっとした気持ちと、半分がっかりした気持ちを持っていた。
そして、母に取って代わって、虐待の対象は少女になった。
苦しみが続く日々の中、少女は段々暗くなった。学校で他の子とうまく交流できず、一人ぼっちになった。そのうち腫れ物に触るような扱いを受けてきた。
孤独と恐怖に苛まれた心は微かな暖かさを求めて、幸せな日々をしきりに思い出した。しかし、思い出が美しい程、現実は絶望的であった。いつしか自分を虐待する父親と自分を捨てた母親に恨みを持ち始めた。
その頃から少女は「死」について頻繁に考えるようになった。自分の死と、父の死。どちらにせよ、解決の一つのなる。しかしその先のことは想像できない。家出することも考えた。父を離れ、拠り所すらなくなった自分はどうやって生きるのか、想像もつかなかった。それに比べて、痛みを我慢することで、寝るとこも食べるものがあるし、服だって綺麗なままである。
そんな気持ちを抱えながら、ただひたすら父の暴力を耐えた。
その内父は埠頭で力仕事を見付けた。生計はなんとか維持できたが、余分のお金は貯金せず、パチンコやお酒に注ぎ込んだ。少女への虐待も日常化になった。
成長に連れて、以前着ていた服もサイズが合わなくなって、学校の制服以外の私服はほとんど着れなくなった。父がああなったから、時々お腹を空かして一日を過ごすこともあった。
父親の暴力から逃れるために、少女は放課後家に帰らず、いつも公園のベンチに居座り、日が落ちるまで待っていた。ドアを開ける時はギャンブルするみたいに、運がよければ父は外で飲んでいるか泥酔したまま寝ているか、運が悪ければいつもの罵声に浴びながら暴力に振るわられた。
痛みには慣れた。もう最初の頃のように泣きながら許しを乞うことはしなくなった。ただじっと耐えて、父の気が済むまでじっと耐えた。麻痺した心も、肉体の痛みで苦しみを感じなくなってきた。
それでも少女微かな希望を持っていた。こんな日々はいつか終わると思った。それが遠い先の未来であっても、自分は自立できる日がやってくるまで耐え続ければ、いつかは終わると思って少し頑張れる気がした。
中学に上がって、あるスナックでアルバイトを始めた。アルバイト代はそれ程でもないが、三食が賄う程度と、時々お気に入りの服を買える程度で少女は満足した。自分の労力で稼いたお金で普段満足にしていない物を賄う時、彼女は感無量な気持ちになった。
時が流れ、年を重ねるごとに彼女は女性らしくなってきた。稚気が抜けて、熟れた果実のように、その体にエロスが宿った。腫れ物扱いされた彼女はそのせいで、注目を浴びた。根暗でぼっちなの相変らずだが、いやらしい目線を浴びて、彼女は一層人嫌いになった。
体の変化が招いた災いは、それだけではなかった。
大人になりかけた彼女から母親の若かりし頃の面影を垣間見ただろう、酔い潰れた父親は何度か彼女を母親に間違って、いつもよりしつこく虐待してきた。

その日、少女はいつも通りバイトを終えて家に帰った。ドアを開けると酷い酒臭い匂いが漂っていた。空になった酒瓶が床に散らかっており、父親の姿は見かけなかった。大方酒が切れて、買えに行ったかお店に飲みに行っただろう。後者であることを祈って、彼女は散らかっていた部屋を片付け始めた。
しばらくして、家のドアは乱暴に開けられ、呂律の回らない言葉を発しながら父が入ってきた。部屋を片付ける最中の少女を見て、彼は乱暴に彼女を押し倒した。
いつもの暴力だと思って、少女は反抗しなかった。しかし父の手は彼女のたわわな胸を触り、次第に下腹部にも手を伸ばした。体中の熱気が一気に湧き出たような気がした。それは羞恥心からなのか、怒りからなのかははっきりしなかった。はっきりしたことは、実の父親が、彼女を犯そうとしていることだけだった。
その時ほど絶望することがなかった。痛みを耐え続けていれば、いつか解放される日がやってくる。そう信じていた。長い間耐え続けたつもりだが、その日はまだ遠い先にあるみたいだ。しかし今、彼女はいつもより屈辱的な扱いを受けている。
少女の服ははだけられ、スカートはもぎ取られた。彼女の上で荒い息を吐きながら体を弄る父親はまるで飢えたケダモノのように、鳥肌が立つ程気持ち悪かった。彼女の心臓は氷水に放り込まれたように、その冷たさは血管を辿って全身に渡った。
少女は抵抗した。父親を退かすように両腕に力を入れて押し返した。しかしその行動が裏目に出た。抵抗した彼女を、父親はビンタを食らわせてやった。
「じっとしていろ!痛い目をみるぞ!」
涙が湧いてきて、溢れそうになった。今更泣いても仕方がないと思い、泣くことを止めた。
彼女は空いた手で床で何かを探して、そしてまだ片付けていない酒瓶を見付けた。口回りの細い部分をしっかり掴まえて、思いっ切り父親のこめかみ目掛けてぶつけた。
鈍い手応えと父親の呻く声と共に、彼女の上にのしかかった重みがなくなった気がする。頭を抑えて、罵詈雑言を喚きながら藻掻いていた父親が目に入った。
足りない。まだ浅い。
恐怖に震える手の中に、まだ割れていない酒瓶が持っているままだった。今まで感じてきた恐怖と絶望を、この際怒りに転じて、彼女高く酒瓶を掲げて、全身の力でそれを振り下ろした。
今度はすっきりした音と共に、綺麗に割った。芋虫のように苦しみに藻掻いていた父親を見て、ざまあみろという気持ちになった。そして自然とまだ割っていない酒瓶に目を付けた。
まだだ。まだ足りない。
我を忘れたように、彼女はまだ割っていない酒瓶を手に取って、ひたすら振り下ろして、一つずつ割っていった。
我に返った時、酒瓶が全て割れており、芋虫のように藻掻いていた父親もエンジンが切れたようにびくともしなかった。床はガラスくずと血がいっぱいになった。
自分が何かをしたかを理解した彼女は、混乱に陥った。良くない想像が頭の中を過ぎって、恐怖はじりじりと体中に広がっていった。
逃げないと。
そう思って、混乱した心を無理にでも抑え込んで、着替えとバイトで貯めたお金をリュックに詰め込んで、あの家を離れた。
焦った気持ちのせいか、小走りに近いペースで駅まで辿り着き、一番先着する列車に乗った。行方は分からない。ただ逃げたい一心で、終着駅に到着するまでその列車の中でじっとしていた。
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