喪失

文字数 3,781文字

これまでの人生の中で、物事が思い通りに運ぶことは果たしてあっただろうか。
美雪が前向きになっていることに喜んで気を抜けた自分をぶん殴りたかった。気付いた時は既に手遅れだった。
その日、いつものように編集との話し合いに出かけた。話し合いの途中で妙な胸騒ぎがしたので、話が終わってすぐ家に帰った。ドアを開けた途端違和感を感じた。
玄関の靴箱に、美雪がいつも履いていたスニーカーは見かけなかった。家の中に人の気配も感じられなかったから、どこかへ出かけてしまったかもしれない。ここ最近は出不精(でぶしょう)になった彼女にしては、異常な行動であった。
胸騒ぎは一際大きくなり、念のため家の中を探し回った。結局どこも彼女を見かけなかった。彼女に電話をかけてみたが、案の定繋がらなかった。焦りが段々強くなってきている。もしかして、と思うと居ても立っても居られなかった。
何回か電話をかけ直して、やはりだめだった。焦燥になりつつある自分は意味もなく部屋の中で往復していた。
ふとした拍子に、テーブルの上に置いてあった手紙に気が付いた。
何故今までそれに気付かなかったんだろう。
封筒の表に「さよなら」と書いてあった。それを見た瞬間、心臓が一際大きく跳ねたような気がした。手の動きが覚束無くて、手紙を取り出すのに手間取った。ようやく手紙を取り出して、その内容を確かめた。

一樹へ
勝手な事をして、ごめんなさい。
やはり子供を産むのが無理だった。
あなたは私に希望を持たせたかったんでしょうけれど、私は自分の弱さには勝てなかった。
最近、黒い潮が毎日のように夢に出ていた。目を開けても、夢で見た物は脳裏に張り付いていて、払拭できなかった。もう正気を失う寸前であることを自覚した。
こんな私が子供を産むなんて、無責任にも程があると思った。きっと私はあなたの言うように子供に尽くすことができないでしょう。いつれ壊れる私と、生まれてくる子供はやがて重い荷物になってあなたを押潰してしまうでしょう。そうなったら諸共破滅の一途を辿るしかないでしょう。
私の存在が一樹の枷になって、身動き封じていないか、とずっと考えていた。私の居ない人生で、一樹はもっと楽に生きていくかな、と思った。お母さんと同じように、私も一樹が自由に生きることを願っていた。

が側にいると、きっと邪魔しかならないでしょう。
だから私は勝手に離れることにした。
私を探さないで。多分この手紙を読んでいる時点、私はこの世のどこにもいなくなったんでしょう。
私は橋の彼方で待っている。
だから焦らないで。私が言うのも変だけど、一樹にはちゃんと生きてほしい。私のために人生を諦めないで。それが最後の願いだった。
ごめんなさい。そしてさよなら。
                                         美雪

手紙を読み終わって、手の震えが止まらなかった。喪失感が体中に浸透して、気力が抜けていく感じだった。
何故こうなってしまったんだろう。失い続ける人生の中で、大事な物だけ守って頑張ってきたつもりだが、結局手に握った砂のように指の隙間から零れ落ちてゆく。心の中にブラックホールが発生したように、あらゆる感情や記憶を飲み込んで、やがて無にする。
ああ、やっと終わった。
そう思うこともあった。失うことを怯え続けてきた。いつか失われるだろうとも思った。予感が現実になって、これからは失われる不安に取り憑かれることはなくなっただろう。彼女の言う通り、僕は自由になったかもしれない。
しかし、自由になったと同時に、何もかもを失った。心は真っ白になった。
空っぽになった自分は、これから何を目指して、何のために生きていけばいいんだろうか。
彼女の手紙をもう一度読んだ。そこに僕の生きる目的など書かれていなかった。ただ「生きてほしい」という虚しい言葉が呪いのように目に焼き付いていた。
頭の中で波の音が聞こえた。思考は海の底へ沈んでゆくように、暗闇に飲み込まれつつあった。そして前触れもなく激しい頭痛が僕を襲った。
魂を引き裂く痛みが最後の気力を奪って、ソファーに倒れた。ソファーの上で苦しみに悶えていた。
じっと痛みが引くのを待って一時間、まだ余波みたいな物が残ってじんじんしたが、なんとか起き上がるぐらいに回復した。
何かしないと落ち着かなかった。ソファーから起き上がって、重たい体を引きずって家を出た。
当てものなく、手当たり次第に美雪を探した。コンビニ、薬局、病院、カフェ……行きそうな場所を手当り次第探した。さながら街を彷徨う幽霊だ。
いつの間にか、夜の帳が下りて、どれぐらい歩いたかは記憶していないが、そろそろ体力に底を突いた。少し休憩を取るために近くのカフェに寄った。一番隅っこの位置で体を縮まり、流れる人出や車をガラス窓越して眺めていた。よく見ると、ガラスに自分の顔が見えていた。憔悴しきって酷い顔色だった。心臓あたりを中心に、熱が失ってゆく感じがした。
僕は何をやっているんだろう?
ガラスに映った自分の顔は眉間に皺を寄せて、酷く滑稽であった。
警察に助けを求めるべきなのかもしれない。一人で探すより、捜索願を届け出る方がいいだろう。しかし、彼女が家出してまだ24時間も経っていない今、警察を説得するのにちょっと弱かった。やはり当面は自分一人で頑張るしかない。
まだ一箇所探していないことに気が付いた。そこは一番目指す場所なのかもしれない。失念したことに悔しい気持ちになりながら、なんとか奮い立ってその場所を目指した。
タクシーに乗り、海辺の堤防まで来た。夜に堤防を歩いたことがないから、回りの景色が馴染めなくて異世界のように思えた。街灯が幾つか壊れたせいか、堤防の何箇所は穴が空いたように暗闇が陣取っていた。そのせいで人の気配がなく、寂れた街灯が意味のない光を発していただけだ。
もう夜だから、船を借りる店はもう閉まってあの島へ行くのは無理だった。
とりあえずあの欠落した橋を目指して僕は暗闇を抜けては光の中へ、光の中から抜けてまた暗闇へ、そうやって何度も繰り返して、ようやくあそこに辿り着いた。
欠落した橋の果てに立ち、向こうの島を見た。薄暗い空や海を背景に、更に暗くて巨大な影が目に映った。それはまるでアビスのように、凝視するだけで暗闇に吸い込まれそうな気がした。
そこに美雪がいる。そんな気がした。
双子の間にテレパシーはあるとよく聞く話だけど、これまでに感じたことがなかった。何故今になって、それを感じ取ったんだろう? 
もう手遅れだ。
疲弊した体が音を上げたように、自分の意志とは関係なく尻餅ついた。気が付けば足が棒になっていた。心もそろそろ限界を迎えた。いっそそのまま倒れて、横になった。
少し赤みかかった夜空に疎らに星があって、月は見当たらなかった。寂しい夜空だな、と思った。子供の頃に見上げた夜空はいつも星が一杯で綺麗だった。まだ何も分かっていなかったけれど、側に美雪がいて、光達がいて、お母さんに毎日抱き締められて、多分僕の人生の中で一番幸せな日々だった。時が経つにつれて、その記憶が過度に美化されていたのも否めないけれど、それを差し置いても、その事実は揺るがないと思った。
どの時点で自分の人生は狂ってしまったんだろう。あるいは最初から失い続ける運命だったかもしれない。失い続けるために生きてきたなんて、あまりにも滑稽で、悲しかった。
千々に乱れる思いが頭を過ぎって、頭痛がまた酷くなった。溜まっていた疲労が眠気になって一気に押し上げた。それから電源切れのように、意識が途絶えた。

目が覚めた時、すでに夜は明けた。分厚い雲が空を覆い尽くし、太陽の姿は見えなかった。筋肉痛になっている体を起こすのに少し苦労した。立ち上がって、向こうの島に視線を向けた。
島に霧が出ているようだ。霧はものすごい勢いで森を覆い隠し、島中に拡散していった。不気味な程異様な光景だった。回りを見回して、どこも霧が発生していなかった。あそこ以外は。
何故か妙な焦りを感じた。
時間を確認して、もう船を借りられる時間だった。ボートを借りて、あの島へ向かった。オールを漕いでいる最中、霧は発生した時と同じくらいの勢いで引いていった。
島に着く頃、霧は完全に消えてしまった。森に入り、少し歩き回った。そうしている内、開けた場所に出た。何もない平野だった。島中を一回り探したところ、これといって特別な場所がなく、ただ南西方面に向こう岸にあるあの欠落した橋と同じものを発見した。ここにも欠落した橋があった。対となっているそれらは海を隔て、決して繋がることはなかった。
その島で美雪の姿を見かけなかった。
もう彼女はどこにもいないような気がした。
そこからどうやって帰ったのがあまり覚えていなかった。魂が抜けた体が勝手に動いて、惰性を頼りに家まで運んでくれた。美雪を失って、僕の心象風景は果てしない荒野(こうや)になってしまった。照り付けた日差しと乾いた風が大地を枯らし続けて、希望はどこにもなかった。
意気消沈の中、激しい頭痛はまた襲ってきた。おまけに吐き気がして、トイレに駆けつけた。何度か戻しても苦い汁以外何も出なかった。
次第に目眩がして、目を開けるのも億劫になった。
ああ。目を瞑って、そのまま永遠に眠ってしまえばいいのに。
そう思って、瞼を閉じた。
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