変化と日常

文字数 2,890文字

「いってきます」
「いってらっしゃい」と答えてくるはずもない屋内に元気とも無気力とも言えない声を掛けて、僕は一足先に玄関先を出て彼女を待っていた。
「いってきます」
ほとんど聞き取れない挨拶をし、美雪はいつものように無表情で家を出た。この古い屋敷といい、僕の姿といい、まるで目に映らなかったように、彼女はただ漫然と前へ歩き、それから文庫本を取り出して歩きながら読み始めた。
僕はドアを閉めて、彼女の歩調に合わせて斜め後ろを歩いていた。
彼女は登校中や帰り道に歩きながら本を読むのはいつも通りのことだ。電柱にぶつかることはないだろうが、交差点を渡る時は誰かにぶつかったりしないかは心配で、それを防ぐためにこうして彼女の斜め後ろにゆっくり歩いているわけだ。
こうして彼女の後ろ姿を見ていると、いつも手を伸ばし、その細くて弱そうな肩に触れて、何かしてあげたいと思っていたが、何をして何を話したらいいのかは分からなくて、結局行動に移なかった。
僕は未だに無力な子供である。何とかしなきゃといつも思っていたが、具体的な思案は何一つなく、結局、何もできなかった。彼女を元気にする言葉も見つからなかった。
あの事件から二年経った。二年という時間は何故かとてつもなく長く感じられた。昔は時間の流れなど気にすることなどなかったが、

以来、僕は早く大人になりたいと気が逸っていた。しかし、二年経っても、僕は子供のままだった。
二年の間、変わらぬものもいれば、追い付かないほど変わっていくものもあった。彼女はあの時よりずっと背が伸びていて、肩くらいに垂れていた髪もすっかり腰まで伸びて、とてもきれいでしなやかになった。精神の面においては、元気になったとは言えないものの、あの時よりずっと落ち着いてきたのは幸いだった。ちっとも変わっていないのは井野家のことだ。
交差点についた時、ちょうど赤信号だった。本に耽っていてもぴったりと足を止めることができる彼女にいつも感心していた。
信号が青になり、止まっていた人達は再び歩き出した。彼女は往復する人達を意に介さず、本を読みながら歩き出した。あまりにも堂々とする彼女に、向こうが避けてくれて一安心した。
交差点を渡って、南の方へ十分歩けば僕達が通っている小学校に着いた。二人の教室は同じだった。
元々は違う教室だったんだが、わけあって彼女の教室に編入された。
席に着いたと同時に、ため息をついた。そしてほっとした。僕は何気なく彼女を見ていた。
ホームルームが始まる前のクラスの騒がしさの中、影響されなく本を読んでいた彼女はまるで孤島のように、回りの全てに対して関心を持たなかった。
こんな光景も徐々に僕らの日常に馴染んできた。しかし、変わらない日常の中でも、目に見えない変化は常にどこかで起こり、やがて今までの日常を一変する可能性がある。諸行無常という言葉の意味を少し理解できたかもしれない。

放課後、教室に残る生徒はほとんどいない。この年の子供達は大抵誰かと連んでどこかで遊ぶ。
かつて僕と美雪と晶、たまに光も加わって、四人が小さな輪となって、同い年の他の子供達と同じように、公園で遊んだり色々なところで探険したりしていた。でもそれはもう遠い過去の出来事であった。
教室に居残り、席で本を読んでいる美雪に付き合って、僕も自分の席で宿題をやっていた。一時間もかからないうちに宿題を書き上げたが、帰るには少々早い時間なので、僕は机の上に突っ伏して、窓越しにぼうっと空を眺めていた。
こうしてぼうっと空を眺めるのは今や習慣となってきた。最初はどこかへ遊ぶとか、あの欠落した橋の上で向こうの島を眺めるとか考えていたんだが、その頃美雪の心にはとても遊ぶ余裕がなかったから、光や晶達の足跡が沢山残っている場所へ行くのを避けていた。
そしていつの間にか、美雪は本の世界に浸っていた。まるで光が残した本を受け継ぐように、あの部屋に通うことは多くなった。
理由は違えども、外で遊ぶ子供達と同じく、美雪も家に帰る時間を一刻でも先に延ばしたいので、放課後になっても教室にいて、日が暮れるまで本を読んだりして、ぎりぎりの時間で学校を出る。僕は別に読書好きではないが、彼女から目を離したくないから、宿題を書いたりして彼女に付き合ってきた。
今になっても、光や晶達と共に過ごしてきた日々をよく思い出していた。あの時僕はその時間がどれほど大切な物なのかに気付かず、それを失ってから初めてそれが大切な宝物だと気付いた。そんな楽しい毎日はいつまでも続いていけるわけではないことを思い知しらされ、そしてそんな日々はもう取り戻せないと思うと、悲しくて仕方がなかった。悲しみに押潰されなかったのは、多分美雪が僕より先に押潰されたからだろう。
静流さんとの約束はちゃんと覚えている。もちろん、そんな約束がなくても、僕は美雪を守る。
かつての日常を取り戻すことはできないが、物事をいい方向に運ぶように今まで色々頑張ってきた。大切な物を失って、その傷口は安易に癒着するわけがないと思うが、少しでも痛みを和らげたら頑張る甲斐があると僕は思った。
空がオレンジ色に染まって、そろそろ帰らなければ怒られる時間になった頃、僕は席を外して美雪の前にやってきた。
「美雪、帰る時間だぞ」
「うん」
相変わらず元気のない返事をして、美雪は本を閉じて鞄に仕舞った。
人気がない帰り道がオレンジ色に染まり、遠く眺めたら町全体もオレンジ色に染まていた。空を見上げて、遠く彼方の空の一角はまだオレンジ色に侵食されず、そこだけ透き通った青だった。
「素敵な絵だったね、今日授業で描いたやつ」
「そう」と美雪は素っ気なく返事した。
いつも歩きながら本を読んでいた彼女は今手ぶらで僕と肩を並べて歩いている。それは彼女が会話してくれるということだ。
環境が急変することで芸術に目覚める人もいると聞いたことがある。美雪もそうだったかもしれない。彼女の絵は月並みだったが、あの事故の後で飛躍的に上達し、この前はある少年賞を取ったくらいだ。
でも、彼女の絵はどことなく懐かしい感じがする。
「あれは私の絵じゃない」
少々間を置いて、美雪は感情のこもっていない声でそう言った。
「どういう意味?」
彼女は頭を振っただけで、答えなかった。
会話が続けられなくて別の話題にした。
「今週末はさ、どっか遊びにいかない?」
僕は明るい声で彼女を誘ってみた。
「あなたのお母さん、そういうの認めてくれないじゃないの?」
「そんなことない。別に悪いことするわけじゃないし、一緒に遊ぶだけで反対するわけがないでしょ?」
「あの人、わたしとあなたと一緒にいるところが気に入らないみたい」
「大丈夫だって。今まで何事もなくやってきたんじゃないか。母だって、本気に邪魔しにくるはずがないって」
美雪は空を見上げて、暫く考えていた。
「いいでしょう。別に用事はないし、元々は部屋で本を読むつもりなんだから」
最後に彼女と出かけるのは一ヶ月前のことだったから、イエスをもらった喜びは抑え切れずつい笑顔を溢れた。
僕は期待に満ちて、足取りも軽くなったような気がした。
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