パンと小さな女の子

文字数 2,187文字

世界を覆う霧を裂くように、その建物はくっきりとした姿で突如目の前に現れた。
二階建ての洋風の建物。ここに来てからはじめて丸く目に収まる建物だった。
俺の胸くらいの高さの柵を沿って、歩きながらその建物の隅から隅まで観察していた。構内には建物と庭がそれぞれ同じくらいの敷地を占めていた。庭はグラニット敷き、門から建物まで真っ直ぐなアプローチがあって、アプローチの両側にはそれぞれシックなテーブルが二つ置いてあった。正面から見て、一階のドアの両側にはそれぞれ窓が付いていて、カーテンが閉まっていないので窓越しに廊下が見える。二階には四つの窓がついていて、カーテンが全て閉まっており、中は見えなかった。たぶん寝室の類だろう。
これまで見てきた建物と言えば、高く聳えていた建物の影ばかりで、何もかも覆い隠す霧と相まって、見えない硬い塊を無理やり胸の中に突っ込まれたように、息苦しい感じがした。しかし、目の前の建物を見ているうちにその硬い塊がすっかり溶けて消えたように、気分は大分和んだ。
きっと俺が忘れていたもう一つの世界ではこのような建物はどこにでもある日常的な物で、記憶がなくても体が勝手に覚えていて、そのせいで親近感を抱いてしまっただろう。たとえ記憶がなくても、この体には過去の世界の残渣のような物は確かに残っている。
やや低めにできている木制の門を押して庭に入り、俺達は玄関口までやってきた。カイトは数階しかない階段を登って、その先のドア軽く叩いた。しばらくして、中から元気いっぱいな返事が聞こえた。
「はーい、どうぞ」
それからカイトはドアノブを回してドアを開け、ついてきなという合図を目で示唆した。
中に入り、俺は少し驚いた。真正面に大きなショーケースがあって、その後ろにカイトと同じくらいの年頃の女の子がトレイにのせられていたパンをショーケースの中に入れていた。女の子はチェック柄のピンクのエプロンを身に纏い、明らかにサイズの大き過ぎの手袋を付けていて、髪は長いポニーテールに束ねて、一目で見ればその性格が分かるほど朗らかな笑顔をしていた。
「ちょうどいいタイミングに来たわね」
焼き立てのパンをショーケースに入れながら女の子はカイトに話しかけた。一段落ち着いたところで、意外の客である俺に気付いて、視線をこっちに移った。
「そっちは新入りなわけ?」
「そうだよ。いつも通り、一番行き甲斐のある所を紹介しにきた」
「あら、褒め立ててもパン以外の物は出ないよ。嬉しいけど」
そう言って、彼女もまた朗らかな笑顔を見せてくれた。
「実のことを言っただけだ」
「そういうのはもういいから。お客さんもそれを聞くために来たんじゃないでしょ?」
それから女の子は俺に話しかけた。
「私はサヤ、あなたは?」
(ケー)。よろしく」
「ケー?ずいぶんとセンスの欠けた名前だね。こいつが適当に付けたの?」
「俺だって色々考えてからそれにしたんだよ」
「色々って、ただカイトの頭文字(イニシャル)を取ってそのまんまでしょ」
カイトは肩を竦めて軽くいなした。
「まぁ、それはそれとして、突っ立ってないで何か注文する?」
「そうね。じゃあクリームパンと紅茶」
それからカイト俺に向かって「お前は?」と聞いた。
「同じでいいよ」
「だってさ」
カイトはサヤに向き直してそう言った。
「分かった。後で持って行くから外で待ってて」
屋外に出て、俺達は近くのテーブルについた。ふと俺は気付いた、今まで何も食べなかったことを。空腹感がなかったせいだろうか、今まで食事のことを気にすることもなかった。さっきのパンを見なかったら、食べ物という概念すら忘れかけているじゃないかなって俺はとても不思議にそう思えた。
俺の考えていることを勘ぐったように、カイト「食事ってもんはここじゃ趣味みたいなもんさ」と言った。
「趣味?」
「そう。ここはとても自由な世界なんだ。睡眠だの食事だの、そういった意識さえ遮断してしまえば人は眠る必要もないし、食べる必要もなくなるんだ。生きるために働く必要もない。皆好き勝手にやっているんだ。君の感じた空腹感や疲れや眠気などはあくまで心の衝動が体に投射した結果なんだ。それを意識できればスイッチのようにオン・オフを入れることはできるんだ。食事も睡眠も仕事も何もかも、するかしないかは全て個人の自由だよ」
「ってことは、何もやらなくだっていいというわけ?それなら俺らの存在意義は何なんだ?」
「そんなの、君自身がそれを見つけ出すしかないだろう。もちろん何もしないまま過ごすのもできるんだけど、あまり推薦しないね。後々押し寄せてくる虚しさは大抵の人には耐えられないから、暇つぶしに何かを始めるという筋書きだ。そして色んなことを試した後、一つや二つ好きな物ができて、それに打ち込む。皆大体そんな道筋を辿ってきたよ」
「なるほど」
「で、俺の仕事は君を連れて色んな場所に回って、ここでの生活を慣れさせるなんだ。もしその内、君が何か好きなことでもできて、ここに定着したら、それで俺の仕事が上がるというわけだ」
「もし見付けなかったら?」
「それ君の問題さ。俺はあくまで案内係で、一通り回ったら俺の役目はそこで終わる。その後は君の自由だ。俺は関与しない」
「そう」
俺は茫然とその言葉を聞いていた。理解はできるが実感がない。だから想像もできない。
「お待たせ」
ぼんやりとしているうちに、サヤがやってきた。
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