晶③

文字数 1,392文字

最近、和彦おじさんはしきりに井野家に出入りしている。
和彦おじさんは家主の弟で、画商をやっている。お母さんの絵画は彼の画廊経由で取引している。商談でちょくちょくこの家に顔を出すからその内に知り合った。
家主とは違って、彼は温厚な人だった。彼はいつも和やかな雰囲気を纏っていて、僕ら子供に対してもとても親切だった。彼が来る日はいつもお菓子がもらえて、僕らの中じゃ大人気であった。この家で育った人間と思わないくらい、とても優しい人だった。
もしお父さんがいれば、和彦のような大人であってほしい。お父さんは誰だか、どんな人だかはお母さんから聞いたことはなかったが、僕達が置かれた現状から察して、まともなヤツじゃないことは予想がつく。
新しい住所の手配から荷物の運びまで、おじさんは色々手伝ってくれた。
でも、それ以外にも他に何か目的があるように思う。荷物はそんなに多くないから、何日もの間の手間は必要ないはずだ。多分お母さんと相談しなければならないことはいっぱいあるからだろう。大人の事情はよくわからない。
ただ流れていく時がここから離れねばならないということをはっきりと実感させた。
土曜の夜、引越しの前日であるその日は珍しく食卓の前に全員揃っていた。一樹のお父さん、政道(まさみち)さんはなんの前触れもなく夕方に現れてきた。お母さんも珍しく食堂へ来た。そうしていると、急に大所帯になったような気もするが、明日のことを考えると余計寂しくなった。
「選挙のことはどうでしたか?」
大奥さんは政道さんへ一瞥して質問をした。
「今のところ順調です。松本氏の支援もあり、ここでは競うような相手がいません」
何の迷いものなく、自信溢れた言い方だった。この人は剥き出しの刃のような鋭さは隠さず、相対する人間を下手に出るような雰囲気を纏っていた。和彦おじさんとはまるで正反対だった。
「それならいい。でも油断はせんこと。お前は父親が到達した高みを目指さねばならないから、こんな辺鄙な所でたかが市長の職に満足してはいけません」
「承知しています」
その後、政道さんは和彦おじさんと商売の話を始めた。いつも客を斡旋していたようで、客について色々話した。俺らにとってそれは理解しがたい遠い世界のもので、黙々と食事する以外にできることはなかった。
こんなにいっぱい人が集まっているのに、会話するのが二三言程度で、会話の内容も温度のない物ばかりだった。余所者の僕達は始終黙々と食事するだけだった。
しばらくして会話自体もなくなった。凍り付いた空気に、誰もが平然であるように振舞っていた。
「一樹、後で私の部屋へ来い」
食事の後、政道は一言告げた。
「分かりました」
一樹は強張った顔で応えた。父親の前からか、それとも明日のことで落ち込んでいたからか、あるいは両方もあるかもしれない。
思わず彼を同情してしまった。余所から見ると彼は裕福な家庭に生まれ、さぞや恵まれているんだろう。しかし数年ここで共に暮らしきた仲間からすると、これほど高圧的な家庭環境は果たして恵まれると言えるだろうか。唯一優しくしてくれる人間が明日には去る予定だから、この先彼のストレスはどこへ発散すればよいだろうか。
でも、よく考えたら、同情なんてする資格はないのだ。心配したって、なにもしてあげられない。それはとても悲しかった。
今できることは、せいぜい明日はよい天気でありますように、と祈るだけだ。
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