act.05-01 冷やすもの、取ってこようか?

エピソード文字数 3,413文字

 ――俺は取り残されたのか?

 カラカラというディーゼルエンジンの音を残して走り去るバスを目で追いながら考える。運転手は、何度も見たことのある若い人だった。運転の丁寧な人だ。でも、彼が俺を取り残したわけじゃない。

 ――なら、何に取り残された?

 蒸し暑い空気に混ざった排気ガスの臭い。バス停のすぐ前には、何年も見慣れた郵便局。その隣が茶色いマンションで、そのまた隣は白いマンション。記憶のなかにある映像と、何ひとつ変わってはいない。道路の向かい側にある中華料理屋の様子も同じだし、遠くに見える黄色い歩道橋の姿も同じ。小学校に通うのに、あれを毎日渡った。途中で立ち止まると、いつも揺れていた。

 少し歩いて、細い道への入り口に立つ。この角にある、生まれてからずっと毎日のようにお世話になってるコンビニの外観にも違和感はない。入り口の脇にある冷やし中華の(のぼり)は、たぶん去年の使い回しだ。

「いらっしゃいませ」の声を受けて店内に入ると、見慣れた青いユニフォーム姿の人がレジに立っていた。いつもニコニコと笑ってる、オーナーのおばさんだ。彼女の人柄のせいか、アルバイトに来る学生たちも感じのいい人ばかりで、結果として店全体の雰囲気も明るい。

 客はひとり。黒いハットを被ってギターケースを背負った長髪の男が、雑誌を立ち読みしている。棚の配置も陳列の様子も、前と同じままだ。

 ――やっぱり、信一郎と健吾が組んで俺を騙しやがったのか? バスの定期にしても、イタズラグッズか何かの可能性だってある。

 でも。

 ()せないまま、俺は冷凍庫からいつものアイスを取り出してレジに向かった。

「あれ、おかしいな。もう売り切れちゃってた?」

 変わらない声。でもオーナーのおばさんは、俺が差し出したアイスを不思議そうな顔で受け取った。赤ん坊の頃から、俺の成長を知っている人だ。

「はい?」
「いつもの氷のやつ。毎日、あれ買うでしょ? さっき補充したばっかりだから、売り切れてるわけないんだけど……ケースに入ってなかった?」

 バーコードを読み取るピッという音に小銭を差し出して、お釣りを受け取る。聴覚では言葉を認識しつつも、俺には彼女の言葉の意味が伝わってこなかった。

「いつもの……ですか?」

 俺は氷のアイスなんか買わない。好きなのは、この小倉あん入りのモナカだ。

「そっか。カイトくん、今日は気分転換なんだね」

 ――まただ。またカイト。

「あの……俺の名前、カイトなんですか?」
「あ……ごめんごめん、下の名前で呼ぶのが子どもっぽいなら、今日から七尾くんに変えようか? もう高校生だもんね」

 照れたような顔に返事をせず曖昧な態度でいると、彼女は言葉を続ける。

「寝るときは、ちゃんと戸締りするのよ? ご両親、外国なんだから」

 この人は、今うちの親がいないってことも知っていた。さっきの「翼」と「大輔」も知っていた。なのに、なぜ俺をカイトと呼ぶんだ? その意味が、さっぱりわからない。

 俺は店を出て、モナカをひと口噛んでみた。いつもと同じ味だった。
 それを口の中で溶かしながら、ふと思いつく。
 定期。俺の定期の名前はどうなってる?
 見るのは怖かった。でも見るしかなかった。七尾走野。俺だった。
 ついでに見た生徒手帳の名前も、俺だった。

 ――なんだよ。やっぱ嘘じゃんか。

 ため息をついて、店頭のベンチに座った。コーラのロゴが入った、かなり古い木製の赤いベンチ。禁煙なのに、足元に吸い殻が一本落ちていた。それからルーティンみたいにスマホを開いた。信一郎と健吾にメッセして確かめれば、そろそろネタバラシしてくれるだろうと思った。

 ――あれ?

 どういうわけか圏外だった。

 故障じゃない。ちゃんと電源は入る。でも電波が来てない。いったん電源を切って入れ直しても、状況は変わらなかった。

 なら、家の固定電話からかけるしかない。

 軽く腹筋に力を入れて、ベンチから立ち上がった。ふと店内を振り返ると、ギター男はまだ立ち読みをしていた。音楽雑誌だった。

 モナカの外袋をゴミ箱に投げ入れて、俺はコンビニの脇道へと向かった。国道を背に真っすぐ二百メートルぐらい歩いた角の右手前に、幼稚園。広めの園庭も、あちこちに動物のイラストが描かれている青い建物も、前のままだ。

 この角から見える景色にも、変化は感じない。左手に、水色のタイルを貼った四階建てマンション。ちょっと先の家にある、大きなケヤキの木も見えている。

 幼稚園の隣の家から女の子が出てきた。赤い煉瓦造りの門を出て、カチャッという音とともにスチール製の門扉を閉める。胸には、白い犬を抱いている。

 ()(くりや)伽那子(かなこ)

 家が隣同士で、母親同士も仲がいい。その母親たちがほぼ同時期に妊娠して、同じ産婦人科で産まれた俺たちは、生まれる前から友達みたいなものだった。俺は彼女を「カナ」と呼び、あっちは「(そう)ちゃん」と呼んでいる。

 すぐに目が合った。この段階で犬が駆け寄ってくるはずだ。カナも、相手が俺のときだけは安心してリードを手放してくれる。

「よっす。散歩?」

 それを期待して声をかけた。

「お、おかえりー」

 俺とは違う公立の高校に通ってるカナは、すでに私服に着替えていた。夏の熱いアスファルトは犬の散歩に不向きだから、チャリのカゴに乗せて少し遠い公園のドッグランまで連れていくのが日課だ。

「シロ、来いよ」

 今はサマーカットで短くしてあるとはいえ、全身毛むくじゃらのトイプードル。しゃがんで手を出すと、いつもなら全力で飛びかかってくるのに、シロはそうしなかった。というより、なんだか俺に怯えてる様子だった。

「ていうかさ。この子の名前はシロじゃなくてホワイトなんだから、勝手に訳さないでよ」

 ――ホワイト? いや、昨日までシロだったじゃん。

「あはは、ごめんごめん。でさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「どしたの?」
「変なこと聞くけど、いい?」
「別にいいけど……カイト、ダイジョブ?」

 ああ。先に言われてしまった。やっぱり、こいつも俺をカイトと呼んだ。

「えっとさ……」
「なんか顔色悪いけど、毎日ちゃんとご飯食べてる? 今はお母さんたちいないんだから、いつでもうちに食べに来ていいんだからね?」
「うん。そんでさ……」
「なに?」
「お前の名前……」

 玄関に背を向けているカナと向き合う。視界の隅に表札が映った。見慣れた「御厨」の筆文字に、俺は安堵した。

「名前?」
「カナだっけ? あ……えっと、バカなこと言ってるな俺……あはは」
「私は小麦だよ。()っちゃい麦で小麦! ふざけてんの?」

 やっぱり、違ってた。伽那子は小麦と名乗った。

「だ……だよねえ。俺、暑さでクラッときてるかも」
「大丈夫? 冷やすもの、取ってこようか?」
「ヘーキヘーキ。それでさ……」

 説明しようとした。さっきから、みんなが俺をカイトと呼ぶんだ。お前も自分の名前を小麦とか言うし、シロもホワイトになってるし、何もかも変なんだよ……と。

「危ないっ!」

 突然、カナが俺の手を思い切り引っ張った。

「わっ!」

 不意を食らって前のめりになる。つま先で踏ん張ったが片手をつく。地面がやたら熱かった。俺の横を何かが通った。黒い人影だった。そのままの勢いで、明確な悪意がカナに激突した。

「きゃっ!」

 悲鳴。もろにタックルを食らったカナは抗いようもなく、後ろ向きに吹っ飛ばされる。ドンと倒れる音に続いて、ゴツンというイヤな音。頭が塀に当たった音だ。抱かれていたシロは、無事に着地して激しく吠えたてた。

「カナ!」

 手をついた姿勢から立ち上がると、男が俺を見ていた。さっき、コンビニで立ち読みをしていたギター男だ。そのケースのポケットから、二本の黒い棒のようなものを取り出す。棒の長さは三十センチぐらいで、短い鎖でつながっている。

 ――ヌンチャク?

 体温が急激に上がった。汗の塊が額から顎に流れ落ちた。全身が沸騰しそうだった。

「なんだテメエ!」

 俺は相手に向き合った。心臓が飛び出しかけていた。
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