act.00-01 Prologue

文字数 2,184文字

 場所は――

 と言いかけて、(むら)久保(くぼ)(たか)は言葉の選択を変えた。
 駆け上がっていた。本部ビルの階段。八階へと。

「何でもいい! 知ってることを全部教えてくれ!」

 呼吸が乱れた。千切れた。だが、エレベーターを使うより早かった。

「詳しくは把握できてません! わかってるのは、(なな)()(かい)()が何者かに襲われて、そのまま車で連れ去られたっていうことだけです!」

 足音は、ふたり分。白く無機質な壁に乱反射して響いている。甲高いヒールの靴音で後ろをついてくるのは、(かけい)(もも)()。まだ若いが有能な、鷹の直属の部下。

「襲撃は海斗の家の真ん前だったんだな!」
「はい! 学校から帰宅したところを!」

 真夏。しかし階段に冷房は効いていない。湿気で澱んだ熱気に、全身から汗が飛び散った。チリチリと音を立てて点滅する蛍光灯に、小さな羽虫が無意味な体当たりを繰り返していた。

「発生の時刻は!」
「今から一分……いえ、二分前!」

 踊り場で振り返る。桃子のショートカットが跳ね、幾筋かが大粒の汗で額に張りついていた。その汗も自分の汗も、気温や運動とは関係ない。緊張感の汗だ。

「警護部は何やってた! 見張りはいたんだろ!」
「タッチの差で間に合いませんでした!」

 七尾海斗、十七歳。その家の向かいにある低層マンションの一室には、二十四時間体制で警護部員が詰めている。それでも間に合わなかったというのか。

「GPSは! 携帯でも居場所を追えるだろ!」
「ダメです! 発信機と携帯の入った通学鞄が現場に残されてました!」

 ――なぜだ。
 ――なぜ七尾海斗が襲われた?
 ――襲われただけじゃなく、なぜ(さら)われた?

 八階に着いた。廊下を走った。おそらく乳酸まみれだった脚の筋肉はなんとかもちこたえたが、とうに二十代を忘れ去った肉体の衰えを恨んだ。

 荒い息のまま到着したコントロールルームには、局内の主だったメンバーが顔をそろえていた。約二十人が、壁中に整列したモニターを睨みつけている。どの顔も申し合わせたように眉をひきつらせ、全身を硬調させている。室内はいつもと違う音階に調律され、重苦しい空気で(こわ)()っていた。

 だが。

「本部長は? 副本部長も不在で?」

 上司の宇多田(うただ)保仁(やすひと)と目が合った。調査部のボスは両腕を深く組んで仁王立ちし、いつもは温厚な顔を険しい色に塗り替えていた。その視線の先にあるモニターには、海斗が襲われた瞬間の映像が流されている。――黒ずくめの男に当て身を入れられて意識を失い、力なくワゴン車に押し込まれる姿。ボディーの塗装は黒メタリック、窓にも黒いフィルム。

「ふたりとも赤坂(あかさか)のホテル。官邸がらみのパーティーだそうだ」
「このワゴン車の追跡は?」
「警護部のチームが何台か向かった。こっちでは画像解析班が総出で動いて、空からも追ってる。現状、環状七号(かんなな)(ねり)()から杉並(すぎなみ)方向へ南下しているらしい」

 宇多田は腕を組んだまま人差し指を上に向けた。東京中の防犯カメラや警察のNシステムはもちろん、衛星画像まで駆使して追跡しているという意味だ。

「なら、俺は襲撃現場に行きます。ふたり、連れて行っていいすか? この状況なんで、部署の壁とかは取っ払いますが」
「ああ。構わん」

 海斗の家の周辺には何台もの監視カメラが設置してある。それらが順次切り替えられ、角度の異なる映像が繰り返し再生される。制服姿でぼんやりと歩く海斗に、細身の若い男が近寄る。キャップにサングラス。地図を開いて道を聞くふりをし、海斗が手元を覗き込んだ次の瞬間に不意打ちを食らわせた。すぐさま走り寄ってきたワゴン車に海斗を押し込んだ。路上には、海斗の通学鞄だけが残された。

「俺がふたり連れて現場に行く! 誰か、もう一チーム行けないか!」

 鷹は部屋に向けて声を張った。同時に、専用の携帯端末(デバイス)を使って臨時のチームを編成し、車両の準備を指示した。

「私が」

 歩み出たのは、栗毛に深緑の目をした女だった。その美しく光る瞳に、くっきりとした決意が描き出されていた。自らの命を懸けてでも、守るべき者をあっけなく奪われた失態を挽回しようとしていた。

 警護部チーフ、ジェーン・フォーラニ。イタリアやらベラルーシやら何ヵ国もの血が流れるヨーロッパ産の美形だが、中身は日本人より日本人らしい大和撫子だ。

「一緒に行ける奴は?」
「見つけた。ふたり乗せて、バイクで」
「よし。急ごう」

 言うなり、鷹は動いた。背後にジェーンが続く。再び階段を駆けた。

 ほとんどの車両が出払った地下駐車場。コンクリートの壁を這う配管が目立っている。ジェーンはバイクへと靴音を急がせる。BMWの1600ccにサイドカーをくくりつけた化け物。抑えめにチューニングしてあるとはいえ、巨大なエンジンの咆哮はがらんとした空間に地鳴りを響かせ、共振した配管を(きし)ませた。

「いいぞ、出せ!」

 待機していた車に飛び乗る。鷹がドアを閉めるのも待たず、ドライバーがアクセルを踏み込む。一瞬、タイヤが苦しげに泣いた。
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