act.01-01 真夏のプールの人魚たち

文字数 5,802文字

 放課後。私立(こう)(りょう)高等学校。

 二年A組の教室を出てすぐの階段。

 コン――と気の抜けた音がして、空のペットボトルが落ちた。

 そのまま小さく跳ねながら、引力にしたがってコンコンと滑り落ちていく。階段を上がってきた女子生徒を「きゃっ!」と軽く驚かせた後で、中身のない容器は一階と二階の間の踊り場で止まった。

 落ちたのは、信一郎(しんいちろう)が運んでいたペットボトル用のゴミ箱からだった。もともと限界ギリギリまであふれてたから、ちょっとでもバランスを崩せば一本ぐらい落ちても不思議じゃなかった。というより、全体が崩落しなかっただけでも儲けもの。

 なのに――

「くっそ! このゴミ箱、終わってんなー」

 信一郎は忌々(いまいま)しそうに唇をゆがめた。どうやら、目的地まで無傷で運ぼうと目論(もくろ)んでいたらしい。

 二週間に一度のスパンで回ってくる掃除当番。信一郎と(けん)()と俺は、校舎二階の教室からゴミ箱を運んでいた。信一郎がペットボトル用、俺が空き缶用を担当して、武道場の裏にあるゴミ集積場まで持っていく途中だった。

「だよな。()っちゃすぎ」

 ひとり手ぶらだった健吾が早足でトトッと駆け下りて、落ちたペットボトルを拾い上げた。そのまま踊り場で俺たちの到着を待って、信一郎が抱えているゴミ箱の丸い穴に無理やり突っ込もうとする。でも満杯のそこにねじ込むのは大変そうで、健吾は二秒で諦めた。

「入んね。俺、持っとくわ」
「お、サンキュな。健吾」

 信一郎は意地でもゴミ箱の表面張力を保持するべく、デカい体を反らすような姿勢で歩き始める。それを健吾がトレードマークである銀縁眼鏡の奥から見守るようにしながら、俺たちは再び階段を下りた。

 七月。

 どんな抵抗も無駄なほど、全力にして全開の真夏。

 連日の猛暑日で、クラスメートたちはコーラやら乳酸飲料やらスポドリやらを立て続けに飲み干していく。一日のうちに二本三本と消費する奴もいる。当然、教室にあるペットボトル用と空き缶用のゴミ箱はあっけなく満杯になる。それをゴミ箱ごと教室から運び出し、ラベルを()がしたペットボトルを踏みつぶして所定のカゴに入れるまでが掃除当番の使命(ミッション)だ。

 もちろん、そこにやる気なんか一ミリグラムも存在していない。ただ機械的に、かつ事務的に動くだけ。

「やっべ。これ、めっちゃベトベトする」

 ペットボトルの糖分トラップにやられて顔をしかめる健吾は昨日突き指をして、今も左手の親指に湿布を巻いている。三人で二個のゴミ箱を運ぶのにじゃんけんをしなかったのは、そのケガのせいだ。

「ゴミ箱、マジで倍のサイズがあってもいいよな」

 ペットボトルのベトベトエリアを避けるように右手の指先だけで持った健吾と目が合った。てことは、同意を求められていた。

「いいじゃん、別に……。サクッとやってサクッと終わらせようぜ」

 でも俺は同意の件をスルーして、このクソ暑いのに掃除当番なんて――と言葉をつなげようとした。ところが、信一郎も健吾も突然歩みを止めて、理解しがたいとでも言いたげな冷たい目で立ちはだかる。進行方向をふさがれて、仕方なく俺も立ち止まる。ふたりの不服そうな顔越しに見えている出入り口には、燦々(さんさん)と照りつける直射日光が差し込んでいた。

(そう)()。お前、なにバカ言ってんだ?」
「そうだよ。今日は

の日だってのに」

 ――そっか。忘れてた。

 今日の掃除当番には、男子高校生にとって最大級ともいえる貴重なイベントが

だったことを。

          *

 冷房効果はイマイチだけど一応はエアコンのある教室からムンムンする廊下に出ただけで参ったと思ったら、屋外はさらに殺人的な気温だった。たぶん三十五度とか三十六度……もしかすると、体温より高いかもしれない。思いっ切り直射日光に(さら)されるうえ、校舎と武道場と背の高い樹木に囲まれたゴミ集積場は風の抜けが最悪で、室外機が吐き出した熱気も追撃してくる。ペットボトルを三本踏みつぶしたところで、制服のポロシャツを滝の汗が濡らした。

「ダメだ。水飲まねーとやってらんねえ」

 最初に音を上げたのは信一郎だった。太めの体格のせいか体質のせいか、わかりやすいぐらいの汗っかきだ。

「バカ! やめろよ!」

 飲んだついでに、水量を最大にした信一郎が蛇口を指で塞いで水鉄砲にした。直撃を食らって水びたしになったのは健吾だった。

「うひょー! 当ったりぃー!」
「テメエ!」
「ぶぁはははは!」

 こいつらとは、この高校に入ってから知り合った。悪くいえば小学三年生レベルにガキっぽく、よくいえば純粋。そして今日は、ガキっぽさと純粋さの両方を満たせる珠玉のイベントが待っている。今から、この場で。

 そのときだった。

 屋外プールからホイッスルの音が聞こえた。まるで開演の合図みたいに。

「はーい! みんな上がって! 五分休憩ねー!」

 声の主は、二年女子の体育を受け持っている(くろ)()(あい)先生だった。大学を出てまだ二年目か三年目で、生徒たちに「愛ちゃん先生」と呼ばれて慕われている。

 いくつも立ち上がる水しぶき。キャッキャッと跳ねる歓声。地面に立っている俺たちからは角度的に見えない水面を蹴って、泳いでいた女子たちが次々とプールサイドに上がってくる。ゴーグルを外し、キャップを脱いで、躍るように歩いている。水着のお尻の脇のところに指を入れて滑らせて、食い込みを直している。ざっと数えて二十人以上のスク水の群れに、信一郎も健吾も歓喜の声を上げた。

「ラッキー! 今日は人数多い!」
「しかも、推しメン勢ぞろいじゃねーか!」

 女子には女子の都合がいろいろあるから、正規の授業でプールを休んだ者には補習の受講が義務づけられている。その二年女子にあてがわれた日が今日の放課後――つまり今だった。

「健吾。これはプレミア来たぞ……」
「ああ、やべえ。感動的な景色だ」 

 ふたりとも、自分が掃除当番であることはとうの昔に頭蓋骨の外に追いやってハッキリと目の色を変え、視線を一方向に固定したまま身じろぎもしない。エサを目の前にしておあずけをされている犬と同じ体勢だった。

 でも、俺はふたりのテンションを根こそぎ切り裂くような音を立てた。ペットボトルのラベルを剥ぐ音だ。ビリビリという耳障りな音が響いた途端、不満と不服の色を満載にした四つの目が振り返った。

「走野! まだやるな」
「もっと時間かけろってば!」

 本来なら、掃除当番なんてテキトーに終わらせてソッコーで帰るのが基本のはずだが、奴らはこの作業をあえてゆっくりと進行させたいのだ。そうして、果てしなく広がる無限の絶景を心ゆくまで楽しみたいのだ。

 この学校のプールは、敷地の南西の隅にある。ところが、武道場と体育倉庫に遮られる残念な位置にあるため、校舎のすべての教室からはその様子を見ることができない。校内で唯一プールを望むことができるのは、このゴミ集積場だけなのだった。しかも、あくまで業務上の理由でその特等席にいるという立派な大義名分も成立するため、プール補習のある日の掃除当番は「夏の祭典」や「ファン感謝デー」と呼ばれる激アツのイベントなのである。

「俺はこっちやっとくから、お前らは見てていいよ。でも、あんまり派手にやるとバレるぞ」

 声が届いたのか届かなかったのか、返事すら聞こえない。信一郎も健吾も年に一回あるかないかのチャンスタイムを存分に味わうモードに突入し、全神経を人魚たちの一挙手一投足に集中させている。

「やっぱ、矢部(やべ)()(さき)の胸は今日もでっかくていいなあ……あの谷間に埋もれたい」
「お前、マジでおっぱい星人だもんなあ」

 信一郎は巨乳好みであることを公言している。クラスの女子にも平気で言うぐらいだから本気だろうし信念でもあるだろうし、要するに重症のおっぱい星人なのは確かだった。

「うるせえ。個人の好みだ。じゃ、健吾は誰よ?」

 スク水を身につけた人魚たちは、普段の制服姿とはまるで印象が違う。ショートにロング、色白に色黒、太めに細め、ノッポにチビっ子、凹凸(おうとつ)に平坦……どこに視線を送っても溌剌が爆発していて、濡れた髪をかき上げる仕草だけでもまぶしい。そこで展開していたのは、日本中の「ピチピチ」という形容を全力でかき集めたような光景だった。

「俺か? 俺は(もり)真由美(まゆみ)のバランスのよさを取りたい」
「森って……B組の? なかなか高得点だよな。身長(タッパ)があって手足が長いから、体全体がシャープに見える」

 ――ていうかお前ら、もしかして全員を批評するつもりか?

「ただ、惜しむらくは貧乳にカテゴライズされそうなレベルの胸だ。そこがイマイチではあるけど、俺は将来の成長に期待する」
「貧乳には貧乳の価値があるだろ」
「おっぱい星人のお前がそれ言うか」
「胸は男のロマンだからな。大事なのはサイズじゃなくて存在そのもの。おっぱいは尊いんだ」
「なら矢部美咲の巨乳に埋もれたいとか言うな」
「ロマンを貫いてこそ男ってもんよ」
「テキトーな()っちゃのー」
「ああ、テキトーでいい。ぜんぜんいい。ただし、俺のマジイチオシはC組の安西(あんざい)(ふみ)()だ。これだけは譲らない。真剣に譲らない。俺は同じクラスだった一年のときから花丸つけてたんだ。見ろよ、前面の胸から股間までのラインと、背面のケツから足首にかけてのライン……あの完成度の高さは異常だぞ。アートだぞ」

 この学校のプールが教室から見えない場所に配置してあるのは、こういうバカ男子生徒の存在を意識して設計されたものかどうかは知らない。ともかく、このゴミ集積場だけは唯一無二のパラダイスであり、プールの周囲に張られた金網を除けば遮蔽物は何もないのだった。

 俺は黙って作業を続けた。容赦ないノイズがふたりの気持ちを逆立てるような気もしなくもないが、業務なんだからしょうがない。

「走野も仕事ばっかしてねえで見ろよ」

 信一郎の目尻は、もうこれ以上無理というぐらいに垂れていた。

「ていうか、走野はノリがイマイチなんだよ。いっつも眠そうだし」

 ふたりを無視して、俺はラベルを剥いで無力化した透明な筒を地面に落として踏みつける。バリバリ……というイヤな音が、周囲の建物に乱反射して響く。ふと深呼吸すると、きつい塩素の匂いが鼻を刺激した。

「お前のイチオシは誰なんだよ。走野」

 突然の無茶振り。答えたくもないのに、ふたりは一斉に注目してくる。

「そもそも、今日プール補習に出てるのか?」

 聞かれてもわからない。だから返答のしようもない。

「やっぱお前、ノリ(わり)ぃ」
「俺は、いると見た。だから、あえて見ないふりしてるんだろ。純情ぶりやがって」

 ――悪かったな、ノリがイマイチで。いっつも眠そうで。

 矢部美咲、森真由美、安西史佳……どれも悪くない。が、お前らはどこに目ぇつけてんだ? 顔面に二個ずつくっついてるそれは、ただの穴ボコなのか? 

 俺はため息をついて、チラッとプールに目をやる。また塩素の匂いがする。
 はしゃぎまわるスク水JKの群れ。
 そのなかに、いるのか?
 俺は視線を左右に振る。
 左方向にはいない。右には――

 いた。

 やわらかそうな輪郭が、こちらに向かってくる。優雅に首を傾けながらトントンと軽くジャンプして、耳に入った水を出そうとしている。全体が紺色で、脇から腰にかけて水色のストライプがグラデーションになった学校指定のスク水が、その完璧なボディラインをさらに完璧に彩っている。全体の印象はどこか(もろ)そうなのに、くっきりとした何かが充実していて――

 これこそ、地上に舞い降りた天使。でなければ、女神。

 久世(くぜ)()(おり)

 女神は足を止め、金網にかけてあったバスタオルを手に取る。それを両手で広げて顔をうずめるように拭いてから、ちょっとかがんで髪の水分をすくい取る。そんな自然な、あくまで日常の一片でしかない仕草でさえ清楚で可憐で、まったく何の模様もない純白のバスタオルが似合っている。

 一瞬。

 ほんの一瞬のつもりではあったけれど――

 その神々しい姿を、我を忘れて見とれた。
 女神は顔を上げて、ふとこちらを見た。
 目が合った。合ってしまった。
 慌てて目をそらした。でも間に合わなかった。鼓動が一気にMAXまで駆け上がった。背中から指先へと電気が走った。顔だけじゃなく全身が真っ赤になったと思う。

 やばかった。まずかった。

 視線を下に落として、ひしゃげたペットボトルを拾い上げた。それを巨大なカゴに投げ入れた後で、さりげなく水道に移動して顔を洗った。生温い水が、べとついた汗と混じり合った。

 そこに再びホイッスルが鳴った。ピーッと長く伸ばすのではなく、ピピピピッとスタッカートする吹き方だった。さっきまで脚立みたいな監視台に乗って背中を向けていた愛ちゃん先生が、プールサイドに下りてこちらを見ていた。

「おーい! そこの男子三人!」

 赤いメガホンが増幅した声。愛ちゃん先生は白いTシャツ姿で、その下に着たオレンジ色の競泳水着が透けて見えていた。信じられないほどセクシーだった。

「はーい!」

 リーダーを装うかのように、信一郎が明るい声で答えた。でも愛ちゃん先生はそれを軽くいなして、太めの釘をグサッと刺してくる。かなり奥深くまで。

「サボってないで、ちゃんと掃除当番やってるー?」
「やってまーす!」
「ご覧のとおりでーす!」

 信一郎も健吾も、慌ててペットボトルを拾い上げた。でも、もう遅かった。

「時間かかりすぎだってばー!」

 言葉ではたしなめつつ、愛ちゃん先生の目は笑っていた。

 ――ほら見ろ。全部バレてたじゃねーか。
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