act.03-01 唯一ブラウス姿を貫いていた

文字数 4,413文字

 たぶん五十本か六十本あったペットボトルをつぶす作業も、集中すれば十分もかからずに終わった。空になったゴミ箱をぶら下げて戻った教室には、プール補習に出ているらしい女子の鞄がいくつか残っているだけで、ほかには誰もいなかった。

「いやー、盲点だった! 盲点!」

 自分の席に到着するなり、信一郎が叫んだ。といっても椅子じゃなく、机の上にドカッと胡坐(あぐら)をかくのが奴のデフォルト。校舎二階の端っこの二年A組、窓際の列の後ろ三席が俺たちの場所だ。

「ズドーンとクリティカルに刺さったな!」

 健吾も、銀縁眼鏡をずり落としそうな勢いで興奮していた。愛ちゃん先生のインパクトは、それほどまでに強烈だった。

「あの胸、見たか。激レアだったろ」
「ああ、少なく見積もってもFかGだ。お宝確定だ」

 倉橋(くらはし)信一郎と(いと)()健吾。

 外見や趣味や性格といった面でのふたりはつくづく対照的だが、こういう肌色系の話題になれば相性抜群で、流れるようなコラボレーションを紡ぎ出す。

「俺、今日は興奮してサッカー見らんないかも」

 信一郎は身長百八十を超える大柄で、横幅もかなりゴツい。自他ともに認める極度のサッカーオタクで、イギリス、スペイン、ドイツ、イタリアの四大リーグを完全網羅していて、シーズンオフには録画した試合を見まくるのが趣味。

「俺もプロレス見ねえかも」

 小柄で色白細身の健吾は、父親譲りの由緒あるプロレス狂。「プロレスは人生の教科書だ」なんて台詞を真顔で訴えるように言い放つし、ひとたび話が始まれば昭和何年何月何日にどこそこの体育館で行われた試合がマジすごくてな……と永遠に止まらなくなる。当然、スマホの着メロはレスラーの入場テーマだ。

「愛ちゃん先生って、大卒二年目だったよな?」
「なら七歳上か……。俺、何されてもいい」

 確かに、愛ちゃん先生の胸は水着プラスTシャツ越しでもくっきりと識別できるほど絶大な存在感を誇っていたし、筋肉質でありながらスラッと伸びた脚も魅力的だった。

 だからといって、ここまでアツく興奮できるものなのか? 俺にはそこが理解できなかった。

 青春真っ只中の十七歳という年齢なんだから、それが普通だと思える。サッカーであれプロレスであれ異性への興味であれ、何かに熱中するのも十代ならではの瞬間風速だろう。でも、俺の体にはそういう感覚が備わっていない。

「ていうか、Tシャツの裾からチラ見せしてたあの股間……めっちゃ萌えた……」
「俺も見た。アメリカのお色気女子レスラーたちに混じってもメインを張れるぐらいの一級品だった。あいつらのはシリコンおっぱいだけど、愛ちゃん先生の胸はナチュラルだ。価値が違いすぎる」
「JKにはないフェロモンだったよなあ。俺、愛ちゃん先生を見直した」
「鍛えた体の色気って、すっげーな。マジたまんねえ」
「体育大を出てるんだよな? 何のスポーツやってたんだ?」
「俺は知らねえ」

 健吾は俺に視線を向けてきた。

「走野、お前知ってる?」

 でも俺はふたりの愛ちゃん先生賛美を聴覚の隅っこで聞き流しながら、自分の席に座ってボーッと校庭を見ていた。正しくは、校庭の端にある鉄棒を見ていた。ひとりの男子生徒が延々と大車輪をしていた。たしか三年の……名前は知らない。毎日じゃないが、放課後になるといつも上半身裸で鉄棒をやっている男だ。厚い胸板や太い腕が自慢なんだろうと思う。

「おい、走野!」

 顔の前で、健吾がパンパンと大げさに手をたたいた。意識不明の人をケアする救急隊員みたいに。

「……(わり)ぃ。何の話?」

 さすがに反応しないわけにもいかず、俺はとりあえず覚醒した。

「愛ちゃん先生が大学でやってたスポーツの話だよ……お前、知ってる? って、どこ見てた? 鉄棒か? ありゃ三年の()(ぐち)さんだ。やたらモテるんだよな、あの人」

 どういうわけか、健吾は全校生徒の名前に詳しい。モテるという情報も正しい。事実、今も鉄棒の脇でふたりの女子生徒が湯口さんを見つめていた。

「湯口さん。あんだけスポーツ万能だから、女子もイチコロだよなあ」

 信一郎も、窓の外に羨望の眼差しを向けた。確かに、湯口さんは去年の体育祭でも目立ちまくっていて、最終種目のリレーで四人をごぼう抜きにして勝ったシーンは圧巻だった。それでも名前を知らなかったのは、俺だけだった。

「てか健吾。それ走野に聞いても無理じゃね? 自分の親がどこに行ってるのかも忘れるような奴だぞ?」
「忘れてねえよ。ドイツだよ」

 軽く反撃したものの、詳しく覚えてないのは本当だった。

 先週、俺の両親はドイツに行った。父親の仕事の都合で、期間は二ヵ月。長引けば三ヵ月。ドイツなのは間違ってないが、それがどこの街だったかは気にしていない。何か用事があれば電話かメールをするだけだから、どこにいようと関係ない。ドイツはドイツ。その間、俺は粛々とひとり暮らしをするだけだ。

「フランクフルトだったっけ?」
「違うよ、ライプツィヒだよ」

 俺の反応より早く、信一郎が健吾の疑問に答えた。

「走野って、そーいうとこ、ホントぬるいよな。自分の親が長期出張に行った街の名前とか、フツー忘れるか?」
「つーか、全般的に雑」
「……るせえよ」

 一緒にドイツに行くかと聞かれたとき、一瞬も考えずにノーと答えた。数日間だけだが小学生のときに行ったこともあったから、二度めには興味が沸かなかった。いろんなタイプのソーセージを食べさせられたことだけを覚えている。

「てか、今日もゲーセン行かね?」

 ジャーマンポテトのおいしい店があったよな……と舌の記憶を探していると、いつものように信一郎が提案した。湯口さんは鉄棒から下りて、近くに座り込んでいた女子たちと話し始めていた。

「行く行く。でも、その前にドーナツ食おうぜ。ゲームすると腹減るしよ」
「じゃ、最初ドーナツ行って、んでゲーセンな」

 そこに、ガヤガヤという笑い声が廊下から近寄ってきて、ふたりの女子がプール補習から帰ってきた。名前が(いち)()()(みや)で、いつも一緒にいるから「ワンツー」とコンビ名で呼ばれているふたり。目の周りの化粧が落ちて、メリハリのない別人顔になっていた。塩素の匂いをなびかせながら、俺たちのすぐ隣の席に戻ってくる。

「あのさワンツー、愛ちゃん先生が大学時代にやってたスポーツって何だっけ?」

 すかさず信一郎が声をかけた。少し遅れて、もうひとりの女子が帰ってきた。窓際後方にいる俺たちとは対角、廊下側の最前列の席に静かに座った。久世詩織だった。

「愛ちゃん先生のスポーツぅ? 何だろ。聞いたことなーい」
「てか、お前らさっきプール覗いてたし。この変態」

 ワンツーは、そんなこと知るかという態度で教室を出ていく。その一連の動作のどこかでスカートがふわっと(ひるがえ)ったらしく、信一郎も健吾も目ざとく見逃さない。

「一ノ瀬はピンクと白のストライプ」
「二ノ宮は白。もしくは薄い水色」
「水色に一票」
「だったか? じゃ、それに同感」

 ワンツーのスカートは、クラスでもトップクラスに短い。当然、しょっちゅう下着が見えることが、男子の間でも有名だった。ワンツーもワンツーで、見られることを恥ずかしがらないというか遊んでるというか、見せて喜んでいるフシがあった。

「よーし。最後にいいもん見たし、ゲーセン行くべ。走野も来るだろ?」

 俺はまだ、ボーッと鉄棒を見ていた。湯口さんは、地べたに座っていた女子たちを立たせて、三人で校門へと歩いていく。

「走野!」
「起きろよ!」

 ふたりに急かされて、俺は机の横に掛けてあったスクールバッグを手に取る。教科書は学校に置きっぱなしで中身なんかほとんど入ってないからペッタンコで、単に制服の一部と化した紺色のアイテムだ。

「……行くよ」

 鞄を引っかけた手をズボンのポケットに入れながら立ち上がったときだった。視界の隅で久世詩織も立ち上がった。まだ濡れてるのに、漆黒のなかに光をたたえた黒髪ロングがしとやかに舞った。

 その動きを無意識に追うと、一瞬だったが俺と目が合った。

 ――まただ。プールに続いて、また目が合った。

「フェンシング」

 久世詩織は明らかに俺の目を見て、つぶやくように言った。俺はそれだけで緊張してしまって、心臓が喉までせり上がってくるのを感じた。

「……え?」

 しまった。小声だったが、声が裏返った。だけどラッキーなことに、女神はあっさりとスルーしてくれた。

「黒須先生がやってたスポーツ」

 彼女は「愛ちゃん先生」じゃなく「黒須先生」と呼んだ。それだけを言うと俺から視線を外して、ふと思い出したように教室を出ていった。男子はワイシャツにネクタイ、女子はブラウスにリボンが基本の制服だが、夏の間だけ上はポロシャツでもいい決まりになっている。だから男子も女子もポロシャツを選択するのが多数派だが、久世詩織だけは唯一ブラウス姿を貫いていた。当然、赤いリボンもしっかりと結んでいる。

「お……俺、オールドファッション食う」

 緊張がバレないよう信一郎と健吾に言ったものの、「俺」と「オールド」の「お」が連続していてドモってしまう。が、ふたりの脳細胞はまだ愛ちゃん先生に支配されていた。

「フェンシングか。珍しいな」
「胸がデカいと、判定で損するんじゃね?」

 こいつらは、毎日が楽しそうでいい。本気で羨ましいと思う。
 片方はサッカーが好きで、もう片方はプロレスが好きで、愛ちゃん先生の胸の話だけでこんなに手放しで盛り上がれて、無邪気に感動できる。

 でも俺には――

 いや、俺にだって――

 そういう何かがないわけじゃない。こいつらにも話していない、俺にとってのそれは音楽だ。

 幼稚園の頃からピアノを習っていた。もう教室に通うのはやめたけど、鍵盤を弾くことは続けていて、作曲もやってる。自己流の知識じゃ限界があるから、それなりに勉強もした。音源を作って、ネットにも上げている。それが完璧な音楽か、あるいは自信作かと聞かれたらイエスと即答できるわけじゃないけど、とりあえず本気でやってる。

 先月だった。俺の曲を使いたいというゲーム会社から連絡が来た。この前の土曜日に渋谷の会社まで行って、担当の人と打ち合わせもした。熱心に誘ってくれて、社内の制作会議にかけると言ってくれた。それが本決まりになってくれれば――

 俺は、きっと変われる。

「とりあえず本気」じゃなく、「本気の本気」で真剣に音楽をやってると言えるようになる。
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