第26話 ビズ

文字数 1,762文字

 最近、莉里とまともに会っていないから、フェットドラミュージックの日はちょっと緊張してしまった。ピアノを借りる予定がオルガンになってしまうという予想外なことも起きて、始まる前から慌ただしい。苛立っている俺を落ち着かせるように莉里はおにぎりを作ってくれていた。やっぱり優しい。

 そんなわけでオルガンで演奏することになったけれど、マルシェの賑わいと青空の下ではその音が似合っていた。
 人ごみで莉里が来ているのか、来ていないのか分からない。何曲か弾いていると、少しずつ前に来た莉里がいた。俺の方を真剣に見ている。立ち見だからか、ジャズだからか、莉里は寝ることもなく真剣に見ていた。まるで子どもの発表会に立ち会うように、手は胸のところで組み合わさって、祈るような感じだった。
 そうやって、いつもいつも俺のことを真剣に考えてくれてた。
 いじめられていた時も俺よりも真剣だったかもしれない。
 だから俺も莉里のことを一番大切にしよう。莉里がこの先、どんな人と一緒にいようとも莉里が幸せであるように、一番の理解者でいようと思った。

 莉里だけのために莉里が好きな悲愴の第二楽章を公園の演奏が終わってから弾く。公園だから音が響くことはないけれど、アップライトのピアノは頑張ってくれた。一音、一音、丁寧に音を紡ぐ。俺が莉里にしてあげられることはこんなことしかない。好きな曲を弾いては喜んでくれたことを思い出しながら、今も同じように弾いている。終わって莉里を見ると、慌てて涙を拭いた。
「素敵だったから」と言ってくれる。
 少しは莉里のためになったのかな、とほんの少しだけ嬉しくなった。

 そして調子に乗ってしまって、その晩、二人で出かけた帰り道、莉里をたぶらかせて、お互いの頬を当てるフランス式の挨拶をしてしまった。
 一人になってソファベッドの上で大反省会をする。毛布を頭からかぶって
(ありえない)を繰り返した。
 柔らかくて、いい匂いがして、めまいがしそうだった。自重しようとしていたのに…できなかった。
(あー、もう)とごそごそしていると、
「律?」と莉里の声がする。
 慌てて毛布から出てソファベッドに座る。
「どうしたの? 眠れないの?」
「え? あ、莉里は?」
「喉が渇いて…」
「…俺は…大反省会してた」
「え? 何の?」と顔を覗きこまれる。
「今日の…演奏…とか」
(とか以下省略の部分が大きいが言えない)
「お水いる?」
 莉里が冷蔵庫に行って、ペットボトルの水をコップに入れてくれる。
「…うん。ごめん」
「いいよ」
「それとごめん」
「何が?」
「…よく考えたら、あんなこと…」
「なに? あんなことって?」と何も思いつかないのか不思議そうな顔でこっちを見た。
(あぁ、莉里にとっては本当に何でもないことだったんだな)と軽く落ち込む。
「ううん。とにかくごめん」
 莉里は俺の横に腰かけて、コップを渡してくれる。
「律が…してくれること、何一つ嫌じゃないよ。私、男の人が苦手なんだと思うの。でも律は平気だから」
「ほんと? 嫌じゃなかった?」
「ううん。少しも」と言いながら水を飲んでいる。
 すぐ近くで。綺麗な顔で。
(好きだ。好きだ)と声に出しそうになるので、水を飲んで流し込む。
「りっちゃん」
 小さい頃の呼び方に変わっている。
「本当にありがとう。嬉しかった」
 そう言って、莉里の方から頬を合わせてくれた。柔らかくて、冷たくて、いい匂いがする。俺が固まっていると、にっこり笑って言った。
「おあいこ」
 何もかも。笑顔も、気持ちも、何もかも。こんなに近くにあるのに、手が届かない。
 結局、反省会は終わったけれど、眠れない夜は続いた。

 また演奏会でウィーンに行く。音楽院の先生がウィーンでコンサートするというので、二台のピアノの演奏に呼んでくれたのだ。早めに行って合わせもしなければいけないので、しばらく帰れない。
 出かける時に莉里がまたフランス式の挨拶(ビズー)をしてくれる。
「いってらっしゃい」
 その笑顔で、ウィーンについてもなんだかうきうきしていたらしく先生に「おや、リィィィツはいいことあったのかな?」と言った。
 そしてありがたいことに、これまでの努力を認めてくれた。ウィーンの演奏会は成功を収めて、本当にほっとしたと同時に嬉しかった。

 莉里のおかげで全てが上手くいくような気持ちになった。
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