第12話 愛されなくてもいいから

文字数 2,641文字

 音楽院が始まると忙しくなった。学校の先生はスペイン人でおおらかで情熱的だった。
「リィィィツ」と巻き舌で名前を呼ばれる。
 日本とは違って、テクニックにそこまでうるさくない。そもそも上手い人しかいないのだから、そんな手先の話はたまにしか言われなかった。
「遠くに飛ぶことは意識しない。そうじゃなくて、音の波を感じて、鍵盤に指が落ちる。そうしたら柔らかい音になるから。狙うと固い音になる」
 面白い教え方するな、と思いながらレッスンを受けた。
「良く弾けてるよー。練習たくさんしてるね。…で、生きてる?」
「え?」
 聞き間違えかと思った。
「人生を生きてる?」
「…はい」
「リツは悲しい曲が得意ってことは…たくさん辛い事があったのかな」と顔を覗きこまれた。
「…そんなことは…」
「若いのに落ち着いてるし」と言って、ページをめくる。
「キラキラした気持ちも持った方がいいよ。恋をしたり…。ほら、君は男前だからお嬢さん方が話したそうにしてるんだ。ピアノの練習もいいけど、たまには人生を謳歌しなさい。これは先生からの宿題です。今週末はピアノを弾かずにどこかへお出かけしてきなさい」
「え?」
 そう言われても誘う人が桃花さんしかいなかった。

 いつも通り事後の後にさっさとシャワーに行こうとする桃花さんの手を掴んだ。
「ん? 何? おかわり? 若いなぁ」
 いつも言う冗談で返しながら、額を撫でてくる。その手を振り払って、続けた。
「お願いがあるんだけど…」
「お金? そろそろ残金が少なくなってきたけど…。でもいいよ。残り全額あげようか?」と笑いながら言う。
「デート、して」
「え?」
 驚いたようにこっちを見る。
「デート…して欲しい」
「デート? って何?」
「だから、二人で出かけて…」
「何するの? まさか…外で」
 どうしてこうも真面目に話を聞けないんだろう、と力が抜けて手を離した。
「シャワー行って来ていいよ」
 そしてシャワーに向かう背中を見た。細い背中、丸いラインは綺麗な女性なのに、どうしていつも茶化してごまかすんだろう、と天井を向く。セックスしている時以外は自虐的だし、わざと可愛くない態度を取る。
「愛してないのに」と口でも確認を取られる。
 デートなんてしたくないんだろうな、とため息を吐いた。じゃあ、自分はどうなのかと考えてみると、先生から言われたから…というだけだった。
「結局、似てるんだな」

 戻ってきた時にはさっぱりした顔で
「行こっか。私、行きたいところあるんだ」と言った。

 ジヴェルニーのモネの家に行きたいと言われた。
「なに、それ?」
「えー、知らないの? 有名な画家の家よ。来月になったら見れないから…」
「画家の家?」
 全く興味がなかったが、行きたいところがなかったから、そこに決めた。それがまぁ…小旅行と言う感じで面倒くさい場所にあった。

 パリから電車で行くと、延々と田舎の風景を見せられる。
「時間かかるから…何か話す? 聞きたいことある? スリーサイズは…実地で知ってるか」
「高校の時の部活は?」と冗談を無視して聞いた。
「部活? 映画部に三か月」
「え?」
「一本も映画撮らずに終わったの。人数少なくて、役者とかしなきゃいけないのが辛くて」
「じゃあ、何したかったの?」
「脚本と、カメラ」
「…そうなんだ。美術部とかじゃないんだ」
「見たでしょ? あのデッサン力」
「…確かに。上手になった?」
「そんな簡単にはならないよ」
「その後は、部活入らなかったの?」
「うん。なんか、受験勉強に目覚めて」
「え?」
「図書委員の彼が好きになって、勉強してた」
 その人が元旦那さんだという。
「すごく好きで、好きで…。だからずっと図書館に通って勉強してたの。少しでも気にしてもらおうと思って。そしたら、まさかの成績が爆上がり」
「で、恋も受験も大成功したってこと?」
「そう。何もかも上手くいったの。バレンタインデーにチョコレートを図書のカウンターに置いて」
「…へえ」
「奇跡だと思った。好きな人が好きになってくれるなんて」
 それは分る気がする。奇跡が起こらない限りはそんなことはありえない。
「でも私、ほんとラッキーよね。こうして、若いイケメンとデートまで出来て」と言って笑いかけられた。
でも神様は残酷だと思った。そんな奇跡を起こしておいて、彼女を病気にさせた。それは普通に病気になるより辛いんじゃないか。もうこの話は続けたくない。
「…好きな食べ物は?」
「好きな食べ物ねぇ…。シュウマイかな」
「へえ。意外だった」
「え? イチゴとか言うと思った?」とまたつまらないことを言う。
「ううん。ワインって言うかと思った」
「あ、それも好き。白ワインとシュウマイがいいよね」
 そう言って、笑いながらまた視線を窓に逸らす。俺は桃花さんの手を握った。驚いたようにゆっくり振り返る。
「…なに?」
「デートだから」
「えー?」
「別に好きになってくれなくてもいいから。自分のことは大切にして欲しい」
 俺が何の足しにもならないのは分ってる。
「…うん」
「シュウマイが好きでもイチゴが好きでも、どっちでも桃花さんは綺麗だから」
 また窓の外を眺める。泣いてるようだった。肩が震えていた。窓の外は田舎の景色をずっと流していた。

 最寄り駅に着いて、さらにバスに乗ってようやくモネの家についた。田舎の中にあって、自然豊かだったけれど、何よりも驚いたのはその美しさだった。
 画家のモネの家は可愛い家で、不思議と自然と馴染んでいた。
「モネは日本の絵画も愛してたの」
「へぇ」
「太鼓橋まで自分の庭に作るほど、日本びいきで」
 池に蓮が植えられている。
「季節が良かったら、綺麗でしょうね」
「また来たら? 来年も一緒に」と言うと、桃花さんは振り返って俺を見た。
 そして返事をせずに庭を眺める。しばらく庭の中を二人で散歩した。そういうことをしたことがなかったから新鮮だった。
「モネの絵、そのもの」と呟く。
 俺はモネの絵を見たことがなかったから、分からないけれど、きっと綺麗な絵なんだろうな、と思って歩く。
 風が光と影を揺らす。奇跡は時に残酷だ、とそんなことを考えながら歩いた。不意に桃花さんが振り返った。
「ねぇ。律君。人生に絶望したような顔してるけど…」
 細い手が伸びて頬を撫でる。
「私も…あなたも…小さな存在だから…。宇宙から見たら、取るにたりない存在だから…好きに生きて」
「え?」
「あなたはもっと人生を楽しんで。そんなこと言う資格ないけど」
「桃花さんこそ」
 初めて、桃花さんから手を繋がれた。
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