第69話 楽園

文字数 2,465文字

 あれから各方面に謝罪し、また一からスタートとなった。音楽院での伴奏とか、地道に努力を続けた。指揮者からも連絡がなくなったかと思っていたけど、エレーヌ先生の晩御飯に来ていた。エレーヌ先生のおよびだからとか、なんとか言っていたけど、俺はそこで素直に頭を下げた。エレーヌ先生も俺のことを心配してくれてのことだから、とそんな気持ちも無碍にできなかった。
「リツ、大人になったのね」と先生に言われる。
「…少しは」
「愛は大きく間違えさせることもあるけど、力にもなるから」
 俺の心を見透かすようなことを言ってくる。
 
 地道な音楽活動をしていて、少しずつ解禁されることもあって、メアリーとまた共演することもできた。

 莉里は大学院を二年で終えて、その先は美術の勉強をしたいと言って、大学の聴講生になっていた。長い休みの時は会いに来てくれた。綺麗になっていく莉里を見て、ずっと側にいて欲しいと思ったけれど、ちゃんとしたピアニストになるにはもう少し時間がかかりそうだった。
 ようやく受けることができた国際コンクールで二位だった時は力が抜けた。一位になれたら問答無用で莉里に来てもらおうと思っていたのに、できなくて、あの時は本当に呆然とした。
 落ち込んでいる俺に莉里が優しい言葉をかけてくれるけど
「フランスで仕事したらいいのに」と拗ねて言ってしまった。
「一位獲るまでって言ったのに」
 そう言った莉里の笑顔が本当に優しかった。
「じゃあ、来年。来年、絶対…」
 そう言って口づけをした。

 一緒に暮らしたくて我慢できなくて、小さなコンクールまで受ける。そしたら一位になれるから、という姑息な手も使って莉里を呼んだ。あの人と莉里の母親は別居を始めたようで、俺たちのことに関してはもう何も言ってこなくなった。俺も仕送りはもう必要ないと一年前から言っていた。最後にかなりまとまった金額を送金されて驚いたけど。
「生前分与だから。ちゃんと手続きもしてある」とメールが届いた。
 お礼の返信をしたら「莉里をよろしく」とだけメールが返ってきた。
 どんな思いで書いたのかは分からない。
 分からないけれど、諦めたんだな、とは思った。莉里が相当痩せているのを間近で見ていたからそれが堪えたのかもしれない。

 莉里が大きなスーツケースを抱えて、空港にいる。フランス留学に来た頃よりは落ち着いているけれど、俺には相変わらず眩しく見えた。
「莉里」
「律…。来ちゃった」
 ちょっと照れたように笑いながら、泣きそうな笑顔だった。
「うん」と言って手を取る。
 何もかも捨てて来てくれたんだから、と一生、守る決心をする。
 そこから二人でいろんなところに行った。
 公演にはよくついてきてくれたし、ただの旅行も行った。
 ワインの好きな莉里とボルドーにも行った。収穫前の一面のブドウ畑も二人で見た。まだ日差しが眩しくて、青々とした葉っぱが風に揺れている。
「ねぇ、律。いつも話してるでしょ? 世界中で二人っきりだったら、ピアノと一緒に二人でいろんなところに行くって」
「あー、うん。裸でピアノを押して移動するんだよね?」
「うん? あれ、どうして裸な必要があるの? ピアノはあるのに」
「なんか…その方が幻想的だから」
「えー?」
「莉里は何着ても可愛いし、似合うけど、着なくても…いや、着ない方が綺麗」って言うと、思い切り口を手で塞がれた。
「日本語だからって、変な事、さらっと言わないで」と言うから何度か頷く。
 口が解放されたからまた話した。
「変かな? 莉里の裸好きだけど」
「もう」とまた手で口を塞ごうとするから、その手首を掴んだ。
「でも想像して。ほらブドウ畑にピアノと裸の莉里…。綺麗じゃない?」
 俺は変な癖でもあるのかな、と怒る莉里の顔を見て思う。でも自然の中で裸の莉里ってとっても素敵だと思うんだけどな、と想像するとやはりいいと思ってしまう。
 顔を真っ赤にして「知らない」と怒る莉里が可愛かった。
「莉里は果物食べるんでしょ?」
「果物?」
「ブドウなんか食べながら…ピアノにもたれかかって…」
 光が莉里の肌の上を落ちて、桃色の口がブドウを含む。俺はそれを見ながらピアノを弾く。
 すごくいい、と思った時に、莉里が今度は目を塞いでくる。
「リアルに想像しない。もう、終わり。その話は終わり」
「でも莉里からスタートしたのに?」
「…スタート…。あ、もう、全然違うこと言いたかったのに」
「え? 何?」
「裸はともかく、その願いが叶ってるって言いたかったのに」と口を尖らせる。
「…まぁ、確かに、そう言えなくもないけど。裸じゃないからなぁ」
「なんで裸の必要あるの?」
「ほら…だって、楽園って感じがするから」
「楽園?」
「うん。莉里と俺と二人だけの楽園」
 誰にも邪魔されない永遠の楽園。
「鳥とか動物はいてさ。和らかい草のベッドで寝て、起きて。ピアノ弾いて。莉里がいて…楽園」
 あ、とっても絵が上手い画家に描いてもらったらすごく素敵な絵になるんじゃないだろうか、と思って、桃花さんの絵を思い出してしまった。落書きのような絵になってしまう。
 突然、笑った俺を見て、莉里は不思議そうな顔をする。
「ごめん。なんか…俺って変態?」とごまかした。
 それなのに鈍感で優しい莉里は首を横に振って否定してくれる。
「そんなことない」
「ほんと? ホテル帰ったら、楽園ごっこして」
 調子乗って言ったら、莉里が本当に怒ってしまう。それでも莉里が葡萄を口にゆっくり含んでいる様子が浮かんでくる。
 ボルドーの街に大きなガロンヌ川が流れている。街を何となく散策していた。レンガの建物を夕陽が柔らかく染める。
「莉里…」
「綺麗」
「服着ててもね」と言ったけど、莉里は聞こえないふりをする。
 人間が作った街だから、裸だと変だし、俺の妄想の楽園は自然の中にある。
「莉里といろんなところに行きたいな。これからも」
 細い指を俺の指に絡めてくる。小さなあたたかさが伝わってくる。

 ーー裸じゃなくても。
 ここに莉里がいるだけで、楽園になる。
 そうして俺と莉里は二人だけの楽園にいられた。
 
 
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