第64話 再会

文字数 2,656文字

 夏のニューヨークの公演は上手くいった。驚くほど、上手くいった。アメリカのテレビのトーク番組にも少し出演したし、新聞にも載った。でもきっと莉里は見ていないだろうな、と可笑しく思った。莉里はそういうことに全く無関心だったから。
 そして俺は莉里が会場にいなくても、彼女が大好きな曲、悲愴の二楽章を弾く。この曲を弾くと、莉里との生活が蘇る。
 不器用ながらご飯を用意してくれたこと。
 日に日に上達していったこと。
 たまに窓際に立って、ぼんやりしていること。
 それで向こうの建物のイケメンと目が合うと、慌てて背を向けて顔を赤くしていること。
 マシューと仲良くなりたいのに、全然、相手にされないこと。
 全てが好きだった。
「愛してる」
 ベッドの中で、玄関で、どこでも…何度この陳腐な台詞を繰り返しただろう。
 その度に、莉里が同じ言葉を返してくれる。同じ言葉なのに、莉里が言うと、全然違って聞こえる。耳が震えて、脳が痺れた。
(愛してる。今でもずっと…)
 届かない思いは捨てられないでいる。莉里がたとえ俺のコンサートに来ないとしても、悪い評判は聞かせたくなかった。できれば「素晴らしいピアニスト」という言葉が届けばいいな、と思っている。
 だからピアノには真剣に向かい合った。機会があればどこでも弾いた。メアリーとも弾いたし、あの指揮者ともまた共演した。
「リツは出たがりですか?」と言われたけれど。
 ちゃんとコンクールでの結果も求められた。

 コンクールの準備で楽譜を買いに行った時、もうクリスマスが近いせいかサンタがピアノを弾いているカードが置かれていた。ふと莉里が好きそうだと思って思わず買ってしまった。
 どうせ、これを送ったとして、あの人に捨てられるのが分かる。楽譜と一緒に買ったカードをしばらく眺めていたが、姉に守ってもらった弟がクリスマスカードを送るくらいは普通だろうと自分で言い訳をして、書いた。

「お姉さん

 お体の具合はどうですか? 俺はピアノを頑張っています。体に気をつけていい年になりますように 律」

 まるで小学生が描く手紙のような内容で送った。

『莉里へ

 傷は治った? もう痛くない? 本当にごめんね。
 俺はピアノは頑張ってる。莉里が応援してくれたから。すごく力になってる。

 今、幸せかな?
 いい人みつけた? 
 そんなこと聞く権利もないけど。でも遠くにいても、ずっと莉里のこと想ってる。だから幸せになってください。
 俺はずっと…愛してる』

 そんなことをカードには書けなかった。そこにあった五線譜に書いて、破いて捨てた。

 莉里からの返信はないまま年が明けた。コンクールの本選が近づいていた。ポストを何度も確認したけど、莉里からの返信はなかった。莉里なら何らかの返事を書いてくれると思っていたから、ショックだった。
 ただ則子さんから「コンクールの件だけど…。莉里さんのチケットも買ったから。多分、来ると思う」とメールがあった。
(莉里が…来る?)
 どうなっているのかさっぱり分からない。よくあの人が許したな、と思った。則子さんに電話をかける。
「もー、やっぱり電話が来ると思ったわよ」
「あ…うん。お姉さんが来るってびっくりして」
「莉里さん…。今、家を出てるみたい」
「え?」
「実家を出て一人暮らししてるって」
「…まさか」
「まさかって…。それで引っ越しも落ち着いて、大学院も受かったから…。今のタイミングならいけるって」
 俺は心底驚いた。あの人が莉里の一人暮らしを許すなんて思いもしなかったし、莉里が家を出て行くなんて選択するとは思ってもみなかった。それにコンクールを見に来るなんて、許されないと思っていた。
「そっか」
「どうかした?」
「うん。…じゃあ、頑張らないとね」
「そうね。お姉さんが来てくれるんだもんね」と則子さんは何かひっかかるような感じで俺に言う。
 電話を切った後、胸がくすぐられるように落ち着かなくなる。莉里が来てくれるなら、勝つためじゃなくていいか、と思った。莉里のための演奏をすれば…。莉里は退屈だとピアノ演奏はすぐ寝てしまうから、と思い出し笑いをしてしまう。
 ファイナルの選曲もまだ間に合う…。
 莉里が喜んでくれさえすればいい。
 絶対にファイナルまで残らないと…と寝食をおろそかにするほど練習をした。それでも少しも疲れなかった。ひたすら莉里が来てくれる。その想いが原動力だった。
「会いたい…」
 素直に心から出た。

 その願いが叶ったのはセミファイナルの前だった。セミファイナルに残れるか、結果が午後に出るというので、遅いランチに向かった先に莉里がいた。もちろん偶然じゃなくて、則子さんが教えてくれた。
 窓際の席で、莉里は背中を向けていたが、すぐに分かった。肩の線が細くなっていたから、胸が痛んだ。後ろ姿でも分かるほどだから、相当だ、と。
 先に則子さんが気づいてくれて、莉里が振り返った。その姿がスローモーションのように見えた。飛びつきたい衝動を抑えるのに必死だった。
「こんにちは」と言うと、莉里は軽く頭を下げる。
 視線がぶつかったけれど、莉里が遠くなった気がして逸らしてしまった。本当に痩せていて、胸が潰れそうだった。莉里は背中を向けたから、近づいていく。
「お昼ご飯んは終わった?」
(なんてくだらないことを聞いているんだろう)と自分でも思った。
 莉里じゃなくて、誰かが返答してくれたけど、聞き取れなかった。莉里はもうこっちを向いてはくれなさそうだった。
「よかった。じゃあ」と立ち去ることにする。
 久しぶりに会った莉里は痩せていて、かわいそうだった。でもその彼女を慰めることも抱きしめることもできなくて、胸が張り裂けそうだった。それなのに、それでも一目会えたことの喜びが大きくて、涙が零れた。
 莉里が俺に会って、動揺している。
 きっとまだ…想ってくれているから。
 思い上がりも甚だしいのかもしれないけど、何より嬉しかった。

 本当は怖かった。コンサートに来るっていうくらい、俺のことはふっきれたかもしれないと思ったから。
 莉里に触れることはできないけど、音楽を届けることはできる。あれから頑張ってきたことはきっと莉里は分ってくれる。
 レストランに入ったものの、そのまま店を出て、先生の知り合いの家に戻る。コンクール期間の滞在とピアノの練習をそこでさせてもらっている。すぐに練習をしたかった。結果は多分、受かってるだろうから、見なくても、明日、何食わぬ顔で会場に行ってしまえばいい。そう思って、急いで地下鉄の駅に入った。
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