夏小僧

文字数 6,467文字


 子供の時分、大分に住む叔父さんの家に遊びに行った夏休みのことだ。
「こんにちわーっ!」
 日陰のない水田の道を歩いていたら半ズボンに白いランニング、虫かごを肩からかけて網を持った少年に声をかけられた。
「だれ?」
 というまでに相当の時間を要した。いくらアニメもゴールデンタイムに放送するのが当たり前の頃とはいえ、その姿はノスタルジーがすぎる。
「ぼくは夏小僧だよ! 夏とともにやって来るんだ!」
 どこの子供向け漫画雑誌から飛び出してきたんだよ。と子供心に思ったものだ。指で鼻をこするな。
「夏がきたぞ! 一緒に遊ぼう!」
「やなこったーっ!」
 全速力で逃げた。
 じっとしていても汗がにじみ出てくる。蝉がうるさい昼下がりだった。

 スマホからアラーム音。
「はっ!」
 熱帯夜の睡眠を守るため付けっぱなしにしているエアコンが冷気を吐き出す音がする。
「夢……でよかった」
 そもそも、あれが現実だったのか暑さにやられての幻覚だったのか、よく見るただの悪夢なのか、そもそも大分に叔父がいるのかもわからな……いや、叔父はいる。
「夏小僧とか、妖怪かよ」
 平成最後の夏。猛暑は梅雨を蹴っ飛ばしてやってきた。
 7月も頭から気温は30度に迫ってきて、海の日を挟んでの連休あたりからは連日最高気温35度。ところによっては40度とう未曾有の世界だ。
 毎年「今年の夏は暑い」と言うけれど、梅雨が7月をまたがずに終わってしまったぶん暑い日が長いわけで、8月に紅葉でもしない限り今年の夏は本当に暑いのだと思う。
 エアコンはもちろんフル稼働。プラスして氷マクラもしないと脱水起こして頭痛がひどくなる。
「わけのわからない夢もみるわけだ」
 朝から30度ありますと情報番組が泣きそうな声をあげている。これから出勤なわけだけど、会社着くまでに干からびないことを祈るばかりだ。
「温暖化のせいだとしたら人害だよ」
 涼しいエリアはオートロックのエントランスまで。自動ドアが開いたら熱気との戦いだ。

「やあ!」

 短パン、アロハシャツ、ビーチサンダル。
 マンションの前に知らない男が立っていた。
(なんだ?)
「やあ! 会いに来たよ!」
 いい大人が大きな声で道行く人に声をかけている。私個人を狙っているわけではなさそうで、そこは胸を撫でおろすけれど。
(かわいそうに。暑さで脳みそが煮沸されたんだろうな)
 危険なのは命だけじゃないってことか。人としての思考回路までもが緩んでしまう。今年の夏は身体共にサバイバルだ。
「おれは夏小僧! 夏とともにやって来た!」
 こんがり陽に焼けた男は両手を青空にあげて夏サイコー! と叫んでいる。
(いま、なんて言った?)
 振り返ってしまった。
 それがいけなかった。
 目が合ってしまった。
 男が少年漫画の主人公のように真っ白な歯をみせてニカーッと笑った。歯並びがいいのが癇にさわる。
「君! つまらなそうだね! おれと遊ぼう!」
 ほかの人にまで聞こえるデカイ声。それじゃまるで私がつまらない人間みたいじゃないか。
「せっかくの夏だぜ!」
 仕事がありますから。という言葉が喉まででかかって思いとどまる。なんで変質者と会話しなきゃいけないんだ。
 思い切り顔をそむけて駅に向かって早歩き。逃げるが勝ちである。
「ちょ、どこ行くのお姉さん!」
(会社に決まってるだろ)
 お姉さんと言われてあやうく足を止めるところだった。

 あとついてこられたらどうしようかと不安になったが、幸い男はその場から動くことはなかったようで、無事に私鉄に乗り込み池袋駅に到着することができた。
 JR山手線に乗り換えるのだが、地下道はかなり蒸し暑い。陽がささないからそのぶん温度は2度くらい低いのかもしれないけれど、湿度は人間の数だけ上昇している。コンビニのケースに入れられた肉まんあんまんだと思っていただけたらと思う。もちろんピザまんでもカレーまんでもかまわない。熱の蒸気でガラス窓も真っ白になるわけで、それは汗となり肌にまとわりついて離れてくれない。
(仕事より通勤で体力奪われるってどうなのさ)
 夏は暑いものだとはいえ、今年のこれは誰かの嫌がらせじゃないかとさえ思えてしまう。

「みんなどうした! うかない顔して!」

 熱中症の症状に幻覚ってあったかな。
「さぁ! はじめるぞ!」
 地元の街に置いていったはずのアロハシャツ男が乗降客行き交う地下道のど真ん中で両手を大きく振りだしたのだ。
(あぶないよ)
 みんなあえて無視しているのか。関わりたくない気持ちはわかるけど、通行の邪魔どころかこんなところで体操はじめて怪我人でたらどう責任とる。駅員はなにしているのか。地下道ってどこの鉄道の管理下だ。もしくは東京都管轄? だとしたら駅員も関わりたくない気持ちはわかるけど、怪我人でてからじゃ遅いでしょ。そういう私も関わりたくないから無視だけど。
 大きく腕をふりあげて背すじの運動。
「イッチニ! イッチニ!」
 デカイ声をだせば他人がよけてくれるとでも思っているのか。
「サンシ! ゴーロクシチハチ!」
 背中そらしたり、腕まわしたり、真横に動いたり。休む暇なく動いているのになぜか人にぶつからない。通行人がよけているというより、男が人の動きを見切っているかのようだ。
(何者だよ)
 呆然と見ているあいだに歩きスマホの人が私に3人ぶつかってきた。
 4人目がぶつかってきたとき、遅刻の危機を感じて歩き出そうとした。
「そこのお嬢さん! なに疲れた顔してるの!」
 ここは池袋の地下道だ。お嬢さんはたくさんいる。私は勘違いする必要がない。そもそも、疲れた顔なんて……。
「体動かそう! 朝は広場で体操だ!」
 誰にむかって言っているのかしらないけれど、ここはアナタがいうところの広場じゃない。
「さぁみんなで! エンジョイ! サマー!」
 額からしたたる汗を拭きながら、JR山手線の改札を抜けた。

 平成最後の夏は命の危険が叫ばれるほどの暑さに列島ごと襲われている。
 一人暮らしの自宅マンションから新宿の職場までドアtoドアで1時間。通勤における暑いポイントをあげるならダントツ一位は山手線のホームだ。屋根のある日陰なら涼しいんじゃない? というのは愚問。1日の平均乗降客数ランキング毎年ワンツーフィニッシュを決めている池袋と新宿を利用する私にとって地下道が蒸し器ならホームは鉄板なのだ。
 つまり地下道でホカホカの肉まんが蒸しあがるならば電車を待つ間にジュワッと香ばしい餃子が何枚も焼きあがるということだ。誰もかれもが地下道からホームにあがるまでにじんわり汗を噴き出しているわけで、仕上がりは肉汁だっぷりの羽根つき餃子。もちろん、食べる分にはメッチャ美味しい羽根つき餃子だが、このように焼かれているのかと思うと餃子の気持ちがよくわかる。餃子可愛いや可愛いや餃子。
(ヤバい、暑さで脳が溶け始めている)
 正常な思考を奪われる。池袋から乗車する山手線は埼京線に次ぐ混雑。一回見送らないと乗車できないのが常。
 山手線に乗車できれば涼しいわけでもない。二度言うが、山手線内回りは埼京線に次ぐ混雑だからだ。
 顔がムンクの叫びになってしまう埼京線に比べたら山手線内回りには隙間はあるかもしれないけれど、他にはない混雑の醍醐味がある。
(足がへんな角度に曲がる)
 巨大スーツケースである。
 東京観光するなら山手線をグルグルすれば間違いはない。外国人観光客のみなさんがいちばん利用する電車ではなかろうか。
(この暑さは外国の人たちもびっくりだろうな、命にかかわるというのは今年がはじめてだけど)
 インターナショナルに日本の暑さを共有できる。それが山手線。

 新宿に到着すればベルトコンベアーに乗せられたように都庁方面の地下道へ向かう。また蒸し器だ。小籠包だ。

「ほーら! どうしたどうしたお前たち! 世界の終りみたいだぞ!」

 今度はなんだ。
 アロハシャツ短パンビーチサンダル。新宿オフィス街にこんなにも不釣り合いな格好はないだろう。
「足だけは早いな! アッハッハー!」
 両手を腰に当てている。人々は吹き出る汗をぬぐいながら会社にむかって歩を進める。
「さてと! はじめるぞ!」
 男が動きはじめた。下半身はそのままに、上半身をおおきくひねって勢いをつける。
「ウオリャア!」
 なにかを放り投げた。行き交う人間を避けるように広がるそれは、どう考えても近くの交番から警官が走ってくるもので。
「テントもワンタッチの時代だ!」
 また腰に手を当てて高笑い。
「さあさあ! みんなで遊ぼう!」
 いつの間にかバーベキューセットが並んでいる。足りないものは河だけだ。
 交番に目をやるが警察官は観光客の応対でそれどころじゃなさそうで。
「みんなで憂鬱を吹き飛ばそう!」
 こっちの汗が吹き出した。交番に駆け込むべきか、会社に逃げるべきか。
(だれか、どうにかしようと思う人はいないのか?)
 あたふた。あたふた。
 下手な人が操るマリオネットみたいな動きをしていたからか。だれかが近づいてきた。
「あんたにも見えるのか、夏小僧」
 真横に知らないサラリーマンが立っていた。歳のころは私より若干年上といったところか。
「なんなんですか、あれ」
 知らない人でもいい。あれの正体を知っているなら教えて欲しい。
「私にもよくわからないのです。見ない年もあるしね。今年はとても暑いから現れたのかもしれないね」
 この光景を見てこの落ち着き。会社でもそこそこの地位がある人物かもしれない。
「暑さに関係あるんですか」
 サラリーマンは笑いながら返す。
「さあ、どうだろう。私の場合は孫が遊びに来られないとわかると現れるな……」
 若干年上に見えたが、そこそこ年上なのか。それとも、独身子なしの私がほんとうはそういうことを視野に入れなくてはいけない年齢なのか。
 さらに汗が噴き出す。
「そんなしけた顔しないで! 遊ぼうぜ!」
 そんなタイミングで夏小僧という名の物体が白い歯をキラリと光らせる。
 ちがうちがう。私に向かっては絶対言ってない。
「大丈夫ですか? 思いつめていることありませんか。気分転換でもしたほうがいいですよ」
 じゃあとサラリーマンは行ってしまった。
(思いつめてなんか、ないぞ、私は)
 まったく見知らぬサラリーマン、貴方の話はもう少し聞きたかったです。
「疲れなんか! ふき飛ばそうぜ!」
 逆光になり、歯だけが浮き彫りに。
(チェシャ猫かよ)
 チェシャ猫を知らない人は検索する前に不思議の国のアリスを読むかディズニーアニメ見るとかして欲しい。
 背筋を伝う汗が不快になってきたから、会社へと急いだ。

 会社に着くまでが仕事のようでした。
 汗拭きシート5枚使用し、スポーツドリンクを15秒で飲み干した。それでもクールダウンまでに午前中いっぱいを要した。
 体の内部が核(コア)になっている。指を切ったらドロッとした真っ赤なものが出てきて紙の上に落ちたら燃えだしかねない。
(社内でミストシャワー降らないかな)
 頭がボーリングの玉なんじゃなかろうか、という重たさで、ピンが10本並んでいたら迷わず飛び込んでストライク出す雰囲気でなんとか定時までパソコンとにらめっこして。

(終わった……)
 今日も1日お疲れさまでした。
 家に着くまでが仕事の一環。会社における効きすぎるエアコンの力で体のぜい肉ぶんぐらいは冷えたのに、駅に向かう地下道を歩けばもう汗拭きタオルが必要だ。
(ほんとになんなんだろう今年の暑さは)

「どうしたどうした! へバッた顔して! 背中が丸まってるぞ!」

 忘れてた。いや、忘れたかった。ビールジョッキを片手に首に白いタオルをひっかけた満面笑顔の男がリンボー! とかファイヤー! とか言っている。
 ここは南国ではない。東京都新宿区西新宿地下道だ。
「さぁ! くりだそうぜ! 夏はビアガーデンだ!」
 あれが見えない人は幸せだ。ただまっすぐ駅に向かえばいいのだから。
 今朝のサラリーマンは孫に会えないと見ると言っていた。なにか条件があるのだろうか。私だって去年まではあんなもの視界に入らなかった。
「お前らしくないぞ! 泣きそうな顔してるぞ!」
 だれが泣きそうだって? お前らしくないって、じゃあなにが私らしいんだよ。

「飲みに行かない?」

 思い切った声が背後からして思わず振り返ってしまう。
「いや、飲みに行こう! ビアガーデン! この暑さなら絶対美味しいから! パーっとやろう!」
 知らない女の子が数人の友達を誘っていた。
「どうしたの、いきなり?」
 友達らしき子が笑っている。
 叫んだ女の子が大変真面目な顔になって返す。
「夏らしいことしてパーっとやれって囁いてるのよ、私の夏小僧が」
 知らない人の言葉で目玉が飛び出るほど驚いたのは初めてのことではなかろうか。
「やっとアンタらしくなった気がする~。じゃあちょっとだけ付き合うよ」
「ありがとー! 助かる! 嬉しい! 奢らないけど」
「マジで~」
「でも記録的暑さでビアガーデンとか楽しそうだよね」
 笑いながらデパートに向かう女の子たちをアゴが外れそうなほど大きな口をあけて見送る私。
「いいぞ! その調子だ!」
 誇らしげな顔の男。
「さぁ、君もGo!」
 親指を突き出された。汗が目に入って視界が濁る。
「酒、飲めないんで」
 ついでに言えば、いきなり誘って付き合ってくれるような友達もいません。
「帰ろ」
 改札はすぐそこだ。
「待てエィ!」
 普通に待てとは言えないのか。
「ひとりぼっちがそんなにさみしいか!」
 なんにもないところで躓きそうになった。
「ひとりぼっちにも夏はやってくるぞ!」
 足元、蝉の抜け殻が落ちている。
「楽しまないと損だぜ!」
 どこで羽化したんだろう。
「ギラギラしてみろよ!」
 だれかに踏まれるのも時間の問題だ。
(あぁ、そうか、そうだよな)
 ……今日という日が夕暮れを迎えてようやく気がついたことがある。

「おまえは暑苦しいんだよ!」

 男が見えない大勢の人にとって私は暑さで頭をやられた人だ。新宿駅の改札付近であらぬ方向を指差して野外ライブのロッカーみたいながなり声をあげる脳みそ沸騰した可哀想なオバサンだ。
「俺は夏小僧だぜ!」
 なんだ、そのドヤ顔は。
 私が顔にタオルを押し付けるのは汗が吹き出るから。ぬぐってもぬぐっても溢れてくるから。
「だれにでも寄り添うぜ!」
 暑苦しくてウザい! 勘弁してくれ! どこかに行ってくれ! なにが夏小僧だ! 気が狂いそうだ! みんな暑さのせいか! そうなのか! 今年の夏は異常気象だ! 暑さに負けそうだ! だからどうしたんだよ!
「わかったぞ! お前に必要なものが!」
 今度は、ジョッキのかわりに平たいガラスの皿を持っている。
「これだろ!」
 そこに盛られたものを見て、我慢に限界が訪れた。体に流れる血管中の血液が沸点に達し、その血潮はターボエンジンとなりマッハの走りを可能にした。
「うわわわわあ!」
 私は加速する。体がバラバラになってもかまわない。この不愉快から解放されるのならば手段など選んでいる場合ではない。
「あああああああ!」
 目的地である店に飛び込み、全身から水蒸気を発しながら、火を噴きそうな荒呼吸でお店のお姉さんに向かって。

「抹茶クリーム白玉宇治金時練乳ましまし!」

 にこやかに頷くお姉さんの後ろで、夏小僧も満面の笑みで頷いていた。

                  〈完〉

エブリスタ 超・妄想コンテスト テーマ「夏がきた」参加作品
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み