復讐したいの

文字数 9,877文字

復讐したいの
           甘らかん


 私はとろみ。しがない派遣社員だ。…しがない。しがないとはどういう意味だろう。
 インスタントコーヒーを星柄のカップに小さじ2杯入れて湯を注ぐ。ふと、星そそぐなんていう名前が浮かんで消える。昨夜目にしたアイドルの名前がそんなだった気がするが、どうだったか。自分の記憶力の低下にため息が出そうになるのでコーヒーで押し流す。苦い。酸味がきついよりはいいけど小さじ1杯半にすればよかった。冷蔵庫から低脂肪乳を出してカフェオレにする。まろみがでる。
 シがないのだろうか。しがないとはそういうことだろうか。じゃあそのシとはなんだろう。何故カタカナでシなんだろう。クラリネットか? 壊れて出ない音があるのか。たしかに私くらいの年齢になると壊れて出ない音はあってもおかしくはない。
 ブラックのままだったらカップの中に顔が映っただろう。低脂肪乳を入れたからどんなかわからない。
 ハリもコシもツヤもない顔。新宿でキャッチのお兄ちゃんにも声をかけられなくなった。
「フッ」とほくそ笑んだところでノンフィクション番組が終わっていることに気づく。パソコンに向かっていたから詳細はわからなかったが、いつも日曜日の午後を切なくする番組だ。カフェオレが苦しょっぱい。今回もそんな内容でお送りされたんだ。
 次番組の競馬中継は賭け事嫌いには無意味なのなのでリモコンに手を伸ばす。
 パソコンにむかってなにをしていたのか。作業が中断されていた画面を見て、眉間にしわがよる。物件物色中だった。初めて一人暮らしをはじめた懐かしの土地を再確認していたのだ。昔の土地は今住んでいる東京23区より家賃が安くなっているに違いないと思っていたが案外そうでもなかった。納得できる物件がない。

 ひと息つこう。

 8階に住んでいるせいかトイレの水の出が悪い。大は盛大に流れてくれるのだが小が思う通りにならない。煮え切らないチロチロにいらっとして大に切り替えてしまう。大きいのしていないのに…。渦潮のように流れる水を見ると水道代のことしか考えられず。
 今月から新しい会社で働いている。時給は悪くないけれど完全9時5時で残業がないから以前より稼げない。生活もギリギリになる。
本当は転職なんてしたくなかった。前の会社が好きだった。派遣から契約社員にして欲しい旨は何年も前から訴えていた。尽くして尽くして10年。私のことを見て欲しくて一生懸命尽くした。
 ここまで頑張って捨てられるとは思っていなかった。これだけ頑張ったんだ。来年からは直接雇用が約束されていると信じていた。派遣社員が派遣法改定という時の政府が決めた法律によってもうこの先会社にいられなくなると知ったとき、派遣社員は直接雇用をしてもらいたいと強く願った。でも願うだけではただの受け身。一生懸命をアピールする必要がある。そのときから一生懸命を実践した。たくさんの人に名前も覚えてもらえた。もちろん上層部にも覚えてもらうんだと一生懸命になった。
 会社の近くに引っ越しまでした私の一生懸命に落ち度はない。
 落ち度のない一生懸命が捨てられるという結果を招くなんて信じられないことだった。ここで得体の知れない黒ずくめの男に「あなた、だいぶ腐ってますね」と肩に手をまわされでもしたらドラマの世界観は一変する。「あなたは間違っていない。なのにどうして捨てられなきゃいけない? 誰のせいなんだって思っているでしょ」復讐への誘い。こうしてしがない派遣社員は連続殺人を起こす決心をする。刹那的な BGMが鳴り響き。崖の上に追いつめられるまで私を直接雇用にしなかった常務とか課長とか直接の上司である平社員を順調に始末していく。それが復讐だ。

 決心したとたんいやな夢を見る。

 探偵役の同僚(元派遣仲間で直接雇用になれた女性)が拳を握りしめて叫ぶ。
「とろみさん、なんてことを。あなたそんな人じゃなかった。逆境にも持ち前の明るさで乗り越えられる人だと思ってた。みんな、そんなあなたが大好きだったのに、なんでこんなおそろしいことを」
 もうやってしまったものは仕方ないじゃないか。そんな人じゃないと言われてもそんな人になっちゃったのだからそんなこと言うな。それに逆境に強い人は心療内科には通わないよ。
「とろみさん、私たちね、常務の理不尽な不採用決定に納得できなくて署名集めてたのよ。あなたに戻ってきて欲しいって。一緒に、会社の一員として一緒に働けるようにって」
 なのに、なんで先走って復讐なんかするかな。と打ち寄せる波に負けない大粒の涙を流す探偵。私に打診なく署名集めてたのか。相変わらずいい人たち。このチームワークのなかでなら辛い仕事も楽しかったんだ。みんなのなかに私もいたかった。だけど自分だけが契約社員になれなかった。自分だけが常務と課長と平に一生懸命をウザいと思われて会社にいて欲しくない人材として扱われた。仕事ができなかったわけじゃないのに。残業を断ったわけじゃないのに。私は涙すら出ない存在になってしまったんだ。

 目が覚めたら枕が濡れていた。

 動機なんてこんなものだ。くだらないと思うことの方が多いのだから、理不尽な解雇の腹いせでいい大人が3人殺しても問題ないでしょう。この3人には嫌味、無視、睨みと大変お世話になった。この殺人はついカッとなっての計画じゃない、私のミジンコのような脳みそを振り絞って考えた。あいつらにふさわしい死に方を。
 計画は完璧だ。平社員、課長、常務の順にご臨終してもらおう。雑魚からボス、ラスボスは順当だし、自分のお気に入りが次々と手にかかる恐怖をラスボスには感じ取ってもらわなくてはならない。
 ところがだ。タイミングというか、ハプニングというか、仕方なくというか。順番が狂ってしまった。チクショウ。そのおかげでほころびが出て探偵にヒントを与えてしまったんだ。
 私の殺人に落ち度はないが、運が悪い。
 裏切りの悲しさをどうすれば味あわせてやれるか。私と同じくらい惨めで寂しい思いをさせればいいじゃんと考える。それは買い物カゴに玉ねぎと人参をいれたときに浮かんだ。私はカレーを作るのにじゃがいもを選ばなかった。カレーなのにどうして準主役の僕をカゴに入れてくれないの? とじゃがいもが訴えている。君が嫌いなわけじゃない。煮崩れでカレーにとろみがでるから。コクのある殺人鬼とろみが誕生してしまう。じゃがいもの出番はないんだ。本来ならカレーにはレギュラーで当たり前というじゃがいもが鍋に入ることを拒否される。
 平社員には両手でも抱え切れないほどの嫌味を言われてきた。チームのリーダーで派遣や契約に教育を任されていた女だが、自分の教育能力のなさを棚に上げて私がミスをすると大きな声で「こんなことする~?」と他のメンバーひとりひとりに私の失態を言い回って「おかしいよね、マニュアル読めばやり方書いてあるのにぃ~」薄い頭の課長やカマキリのような常務の席に届く声を出す。100ページもあるマニュアルを放り投げただけでなんのレクチャーもしないで。読んだだけではわからないところもあるのに。平社員に聞こうものなら「だからぁ~、マニュアルに書いてあるでしょ。質問する前によく読みなさいよ。忙しいんだから」読んでわからないから聞いているのに。
 ひとつ突っ込ませていただくと。女子の尻を眺めるのが趣味の課長に甘え声だしたところであなたは課長の趣味では決してない。課長は小尻がお好みなのだから。
 とはいえ、私にだけそんな嫌味を言う平社員がきっかけで課長からもうざい目つきをされる。年齢がオバさんだからセクハラの対象にはならなかったけれど、腐敗した生ゴミを見るような感じになった。チクショウ、平社員も課長もやってやる。

 舞台は部外者でも出入り自由な社食。マスクに帽子、完璧な変装。ターゲットの平社員がお盆に載せたカツカレー大盛りにさりげなく毒をふりかけてスッと立ち去れば一丁あがりだろう。ちょろい。はずだった。なのに運悪くターゲットである平社員のそばにいたのが探偵だった。彼女は和定食をチョイスしていた。なんでも七味をかける人で、この日も味噌汁と鯖の味噌煮込みに容赦なくこれでもかと七味をかけていた。その粉末が空調に乗って絶妙のタイミングでそばを通過した私の鼻の穴に滑り込んでしまい。

 ハックシシン

 馬のいななきのようなくしゃみ。これが大勢の耳に入ってしまったんだ。クセのあるハックシシン。とろみは運の悪い女。こんなところにとろみがいるはずがないのにハックシシン。こんなくしゃみができるのはとろみ以外にだれがいるのか。ちがう、私はとろみじゃありません、間違いです、人違いです。早々に逃げないといけない。会社を追い出された人間がここにいることがバレてはいけない。
 こうして食堂での平社員排除に失敗した。ハックシシンで私の存在がバレる可能性が出てしまったから。ここで平社員が白目向いて泡吹いて口からカレーと血液の混じったものを逆流させて手足を天井に向けてバタバタ空を切ったりして。計画ではその様をしばらく見つめてニヤニヤしながら立ち去るはずだったが、そんなことしていたらうまく逃げ出せるかわからない。いつでも殺せる平社員は今は放置しておこう。よかったな、今日は550円のカツカレー大盛りとフルーツヨーグルト180円を思う存分味わうがいい。まだ鼻がかゆい。

 ハックシシン

 課長から消えてもらおう。あれは肉食だ。全体的にすくすく育って動きが鈍い。男性ではあるが背後から羽交い締めにしても勝てる気しかしない。50メートル走ったら10分は息を整えるために休まないといけない私でも簡単に背後からドロップキックをかますことができるだろう。そして前のめりに倒れたところを狙って馬乗りになり、そこでただグサグサでは私が受けた悲哀は表現できない。さてどうするか。死して恥をかかせればいい。私はこうする。白目をむいた奴の額に油性の黒マジックでこう書いてやる。

 肉食

 殺害場所は大変だ。どこでもよかったが人目についてはいけないわけで。おかげで奴を仕留めるのには3日かかった。それとも3日ですんだと感謝すべきなのか。会社から出てくる奴を尾行しただけだが。
 奴が鈍いのは動きだけではないようで、牛丼屋でひとつおいて隣に座ってもバレなかった。奴はおつむが平和なのだ。それゆえ自分がクビにしたしがない派遣社員がここまで根に持っていたとは夢にも思わないだろう。それは奴の油断であり隙である。
「フッ」おっといけない。口に出てしまった。でも若い女子の尻にしか興味のない課長は気付かない。垂れ尻の元従業員のことなど一目みてわかるわけがない。
 課長は牛丼大盛りつゆだくに生卵を落としたものをかっくらった。22時13分のことである。深夜手当てを要求する。こんなのを地獄に送るために従業員はこの時間までなにも食べずに待っていたんだから。私だって腹減っているのだから牛丼並盛り食べますよ。こんな時間にご飯を食べるというのはほんとうは健康に悪いのに。
 若い女の尻を追いかけすぎて奥さんにご飯を作ってもらえないでいるという噂も聞いていたが、本当だったようだ。なんてことだろう。ざまあみろ。そのうえこれから額に肉食と書かれて惨殺されるとも知らずに。
 ハックシシン
 いまの私か? こんな面白いくしゃみするの私しかいない。心なしか目まで痛い。おそるおそる隣を見ると牛丼大盛りの上にてんこ盛りになった七味唐辛子。中蓋が外された七味の蓋を持って助けを求めるような目を向けている課長。完全に顔を見られた。なんて運が悪い。ここまできてまたもや計画はおじゃん。「あ…」偶然ですね気付かなかったとでも言うしかない。
「どうしたらいいですかね」と課長が聞いた。いつもふん反りかえって人を指差している課長が泣きそうな顔をしている。
「え?」こいつ私を私と認識していない? でっかい黒ぶちの眼鏡の変装で野球帽もかぶっているからわからないのか? 興味のない女は記憶にとどめないのか。彼にとってのオバサン従業員はそんなものか。一生懸命10年も働いていたのに。
 中蓋が取られているというイタズラが発覚しているので店員が作り直した牛丼大盛りを持って来た。誰にでも親切な店だ。こんな課長にも新しい牛丼持ってくるなんて。仏か。
 バレていないとわかれば抹殺計画やめなくていいんだ。牛丼屋をでて、課長に仏になってもらうために再びあとをつける。ストーカーみたいで嫌になる。私はつけまわすのが目的じゃないのだから、目的果たすまで存在バレたり捕まったりしたくない。どうか私のことはほっとけ。
 チャンスがやってきた。立ちションは人気のないところでするものだ。わいせつ罪でお巡りさんを呼びたい場面であるが、チャンスだから仕方ない。長いしっこだ。膀胱でかいんだな。湯気が生々しいし、ニンニクくさい。こいつ牛丼にニンニク盛ってたものな。早くやってしまおう。背後からクッションのような尻に蹴りを入れた。安定感の悪い課長はしっこを天地左右に撒き散らしながら左肩から倒れこんだ。こんな奴のしっこにかかりたくないから頭の方にまわりこんでつま先で首の付け根を蹴って、そのまま頭をシュートの勢いで蹴って、とどめにこめかみの辺りを踏んづけてやった。その間に下半身の噴水は終わりを告げてくれた。くっさい。
 鼻血をたらしながら「なになになに」と言う。予想以に痛かったらしく消えちゃいそうな声だ。みじめだなオッサン。私をないがしろにしなければこんなことにはならなかったのに。も一回今度は肩甲骨のあたりを思い切りつま先で蹴っ飛ばしてやった。気持ち良くなんかない。こいつには不快感しか与えられていない。もっと蹴るか。おちゃらかおちゃらかおちゃらかホイ! ホイ! のところで顔を踏んづけた。おちゃらか肉食おちゃらかホイ! まったくもって面白くないから脇腹にしてみたけれど贅肉につま先が埋まって感触がキモい。そろそろ刺すか。
 果物ナイフくらいじゃ血もでないほどの脂の層。課長は白目向いて自分の腹に刺さったナイフに声にならない悲鳴をあげるわけだけど、とても死ぬとは思えない。違うところ刺した方がいいのか。いったん抜いて、太ももに。面白すぎる。ここも血が出ない。はずれ。胸刺したら即死んじゃうから面白くないし。血がでなくても死ぬものなのかな。贅肉多い方がこういうときお得なのか。だからといって太りたくないけど。
「あ、あんたはダレだ」って今言った? 断末魔にそれを言うの? まだわからないのか。私だよ、おまえにクビにされたとろみだよ。なんで首を横に振る。10年間同じフロアにいただろ。あの平社員と常務と話し合って一生懸命働いてきた私をつまはじきにすることを決定したんだろ。「金か、金ならやる」そうじゃない。私が聞きたいおまえからの言葉はそれじゃない。「なんでこんなことをする」もう喋らないでください課長。下半身露出しながら仏になってください。みぞおちのあたりにナイフつきたてたらようやく赤いものが出てきて課長に天使が降りてきた。油性ペンを取り出して、とても広い額にのびのびと書いてやった。

 牛丼

 私の計画は完璧だけどどこかに勘違いが生じる。牛丼と書いてしまった。奴のしっこと口臭が悪いのだ。仕方ないが牛丼でも充分な辱めだろう。脂ギッシュな牛丼野郎。この場合はこれでよかった。さてラスボス討伐だ。

 買ってきた具材でカレーを作った。とろみを排除するじゃがいも抜きのカレー。ルーは中辛を選択。市販の中辛なら辛口でもいける気もするが、いつも手に取るのは中辛だ。さらに言うならいつもチキンカレーになってしまう。たまには豚でもいいのに。どうも脂身を見ると萎えてしまうのだ。牛はさらにお値段が張るから結局チキンになってしまう。チキンはいい。
「フッ」
 さてさて、常務にはどんな辱めを受けてもらおうか。現場の声に聞く耳持たず、現場の人間を見ようともせず、言うことをきくお気に入りの人材で周囲を固め、意見したり反論する者は容赦なく排除する。そんな老害。親会社からの天下り。男尊女卑の代名詞。課長と対照的に額が狭いから帝王とか書き込めないし、カマキリみたいな体型だから一回刺しただけで終わってしまいそうだし。なにか面白い方法はないものか。カレーはいい出来だ。仕上げに牛乳をチャッと入れるのがいいみたいだ。まろやかになる。まろみ。いいな、まろみ。
 常務はグルメと社内で有名。美味しいもの、珍しいものに目がない。ならば、取引先の住所でも拝借してワインの一本でもお届けする。それは私の変装宅配業者とろみ配送株式会社。中を開けるとワインの代わりに時限爆弾がコンニチワ、とたんにどっかーん。一戸建てごとコッパミジンコだ。カマキリがミジンコと化す。跡形もない。
 宅配業者っぽい格好をする。コスプレだ。意外に金がかかることを学んだ。コスプレイヤーさんって給料ぼほとんどをつぎ込んでいるんだろうな。私なんかそれっぽくなればいいからそれっぽい服装の既製品買ったけど、生地から買って自分で裁縫しているんだもの。尊敬したほうがいい。さて殺しに行くか。
 住所は知らないから事前にあとをつけていた。また尾行だ。そうそう課長だが意識不明の重体らしい。はやくくたばらないかなぁ。もう一箇所くらい脂のないところ刺せばよかった。平、課長、常務の順にやっつけるはずだったのに、常務、課長、平の順になりそうだ。常務と平が入れ替わっただけといえばそうなんだが、計画通りにいかないのが運の悪さなのか。計画は完璧なのに。
 常務取締役ともなると都内に庭付き一戸建てに住めるんだな。警備会社のシールが玄関に貼ってある。見守られているようでなにより。インターホンにもカメラがついているだろうから帽子は目深にかぶり、黒縁の大きなメガネにマスクも忘れない。花粉症の設定だ。わざと鼻声で「こんにちわ。お届けものです」と言えばビンゴ。しわがれた男の声。カマキリ常務だ。
 社員のお宅に玄関先とはいえお邪魔するのは初めてだ。客がいるのか。靴がたくさんある。心なしか若い笑い声も聞こえる。巻き込まれコッパミジンコが増えちゃわないか。できることなら客が帰ってから開けて欲しいが、しがない宅配業者がそんなアドバイスするのもおかしいし……しがない宅配業者ってなんだろ。Cがないのか? ビタミンCが足りない宅配業者なのか。顔にシミが増えたのが悩みだ。帰りに柑橘系買うか。本当はいちごに多く含まれているらしいけど、いちご高いからな。
 しまった。考え事していたらターゲットに怪しまれた。すみません、ここに印鑑ください。はいはい、失礼いたしました。ニャ~。ニャ~。にゃんだ? あ、知ってる。この短足猫。ブームなんだよな。たしか、マッチカン。こないだ電車で女子高生がロシア人が飼うならマッチカンだよね~と言っていた。なにをもってロシア人なのかはわからないが女子高生がかわいいよね、モフモフした~いとニヤニヤしていたからマッチカンだ。ありがとうございました。と頭をさげて家をあとにする。ちょろかった。いいのかこんなうまくいって。
 改札でピッとやったとたん思い出した。マンチカンだった。じゃあマッチカンってなんだ。女子高生なんの話してたんだ。あの短足猫はマンチカン以外のなにものでもないだろ。マンチカンもミジンコになってしまうのだろうか。運悪くあんな飼い主の元にいただけで。動物愛護協会からなんか言われたりするのだろうか。猫になんの罪があるというのか。悪魔の所業か。あんなにかわいいマンチカンまでコッパミジンコにするなんて、とろみはつまはじきにされて当然の人間だ。…よろしくない、そんなのよろしくない。マンチカンだけは助けないと。
 引き返す途中で思い出した。マッチカンは犬の名前だ。なにかしらのアニメに登場した。多分私は一回しか見ていない。たぶんあのアニメだ。犬の名前だ。息も絶え絶えに常務の家の前。マンチカンだけは助けないと。
 玄関が開いた。よかった、まだコッパミジンにはなっていない。「うそ、戻ってきた」と玄関から声がした。ウソッ、はこっちのセリフだ。なんで常務の家から探偵がでてくるんだ。「あの包みならいま開けるところだけど」と探偵は言った。今? 探偵を押しのける。マンチカンを助けるんだ。そのためには土足で上がりこむこともいとわない。
 猫はテレビ台の上に乗っていた。こんな私をまっすぐ見つめてくれている。あぁよかった。まだ無事だった。テレビは打ち寄せる波を写している。断崖絶壁をドローンを使って空から写している。環境ビデオってやつか。美しい大自然だ。ザザーン。ザザーン。ニャ~。
「とろみさん、なんてことを。あなたそんな人じゃなかった。逆境にも持ち前の明るさで乗り越えられる人だと思ってた。みんな、そんなあなたが大好きだったのに、なんでこんなおそろしいことを」
 あ、そのセリフに戻ってきたか。おそろしいこと? 震え上がるほどのことはしていないと思うけど。よくみれば居間にいるのは探偵だけでなく、ほかにも知った元仲間が2~3人いた。あとでわかったことだが、料理好きの常務はそば打ちを皆に教えていたという。
これがはじめてじゃなかったそうで、10年間会社にいたのにまったく私は知らなかった。最初に死んでもらうはずの平までいる。お前が震え上がってるんじゃないよ。この、カツカレー大盛りが。
「課長の意識が戻ったの」探偵はそう言ったが、意識が戻ったところでおまえは誰だと言われたんだぞ。自分がクビにしたとろみに刺されました。という意識まで戻ったとは思えないんですが。
 テーブルの上ではお届けものが未開封で置いてある。あけてないのか。
 この中身はなに? と探偵は聞いた。そんなに知りたければ教えてあげよう。こうなってしまってはみんな一緒にミジンコになってもいいだろう。マンチカンごめん。助けたかったけど私の捨て身を無にしたのは探偵だから。私のせいじゃないから。ひゃあひゃあと白々しい上ずり声をあげる平の悲鳴が耳障り。あのとき探偵さえいなければすでに亡き者だったのに。ああいう場面に居合わせるから探偵なんだけど、わかってはいるけど不愉快。
 包みをやぶってダンボールを開けて中身を常務にむかって放り投げてやる。条件反射でキャッチをしてしまう常務。抱え込んだ物体を確認している。お前がタバコを吸うことは知っている。だから懐には必ずライターを入れてるだろう。「これは特大クラッカーです。導火線に火をつけて手にお持ちください」と書いてあったらライターを取り出したくなるだろう。案の定、常務は「なんだ、おどかしか」と言いながらライターをポケットから出した。これで全員ミジンコのはずだったのに。常務は探偵をはじめとする契約社員たちがとっさにはがいじめにして点火を止めさせられた。平はただギャーギャー言ってるだけだった。

 牛丼が出された。

 そんなことで殺そうと思ったわけ? と刑事は聞いた。被害者死んでたらあんた死刑だよ。と半笑いの刑事。課長は事情聴取でも私が思い出せず。ただ不採用にした派遣が一人いた。あれ、男性じゃなかったの? 男ならどうでもいいと思って解雇オッケーだしたんだけど。と証言したそうだ。私の解雇を決定したのは常務で、あいつ不愉快だからいらないと言ったのは平だった。チクショウチクショウ。昼食にだされた牛丼は新商品だった。ジャガ入り牛丼。牛丼にゆでた芋がトッピングされてバター醤油がかかっている。ほかの素材に影響を与えないじゃがいもの調理法。牛丼にじゃがいも。この組み合わせを考えた牛丼屋の経営は完璧だ。ただ、七味がスパイシーすぎる。かけないと旨味がでないからかけるけど。
 くしゃみでたら、刑事が口にふくんだお茶を吹き出した。汚いな。
                  〈完〉

※エブリスタ、小説野性時代「短編コンテスト」参加作品
※主人公が別人ですが、系統が似ているので番外編としてこちらに載せました
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