第九章 あの頃に見た眼

文字数 5,451文字

    第九章 あの頃に見た眼

 朝の光景は、たいていどの国も似たようなもので、仕事や学校へ行く人達に交じり、私も隣町へのバスを待っていた。山間にあるこの街は、夜に蓄え沈殿した霧が朝日に照らされ、ふんわりとした白いベールに包まれていた。

 坂のある小さな街の小さなバスターミナル。
 側にあったパン屋にて、まさに白い霧のような砂糖に覆われた甘そうな菓子パンを二つ買う。渡されたビニール袋は腹持ちも良さそうなほどにズシリと重かった。大きなバックパックと並んで縁石に腰かけ、後でゆっくり食べようと我慢している菓子パンの魔法のような甘さを舌の上に思い描きながら、いつバスが来るのかもよく分からないメキシコのバス事情、到着するバスの行き先を一つ一つ眼で追っていた。呼吸のように人を吐き出しては吸い込んでバスは出発する。数台、見送ったが、目当てのバスは、まだ来ない。

 立ち込めた霧も徐々に蒸発し、街の景観にも本来の色彩が戻り、朝の魔法は解けてしまった。肌に届く陽光が針のように突き刺し始めた頃、一台の白いボロボロの古いバスがターミナルへと入ってきた。大きなボンネットの中のエンジンが唸り、窓は砂埃で汚れ、塗装も所々剥げ錆が浮いていた。フロントガラスの上部に手書きで記された隣町の名、待ち望んだバスがやって来た

 バスから降りる人々、ドアに引っ掛かるほどの農作物が入った大きな袋を抱えたおばさん、ハットとジャケットでめかし込んだ老人の杖は震えている、子を連れた母親は機嫌が悪そうなしかめっ面、それらの降車する一団の中に、四人の若い女のグループがあった。二十歳前後に見える彼女達は朝からお喋りに夢中といった様子で、身に着けた派手な色の服や鞄が華やかで楽しそうにしていた。
 空になったバスに早速乗り込もうと立ち上がり、バックパックを肩に担ぐと、運転手はドアを閉め他の運転手と立ち話を始めた。まだバスは出発しないようだった。何も知らず分からないのは私だけで、この街のいつもの光景の中にバックパックを下ろした。誰も私のことなんて、いちいち気にも留めるはずもないのに、どこか決まり悪く、何気なしに辺りを見回す。
 お喋りを続ける運転手達、携帯電話をじっと見つめる人、新聞や本を読む人、辛そうな赤いスナック菓子を頬張る人、じっとバスを待つ人、きっと毎朝さほど変わらない幾多の顔が交差するバスターミナル、その端の方で私のように独りこの風景の中に浮いた女が壁にもたれていた。こちらの方を見ている気もしたが、その考えこそが、さっき担いですぐに下ろしたバックパックのように恥ずかしくなってしまった。

 ドアを開ける運転手を待ち侘びたように、その場に居たいくつかの人達はバスへと集まり出した。並んだ順に運転手へ料金を支払い乗車するのをいくつか確認してから、なおもゆっくりとバックパックを担ぎ、のそのそとバスへ向かう。列の最後尾に並び、少し覚えたスペイン語の定型文で行き先までの料金を尋ね、まごつきながらも支払いを済ませるとバスへ乗り込んだ。
 先に乗っていた乗客達はすぐ降りるのか、バスの前方に固まり座っていた。見慣れない私を一瞥すると何事もなかったように取り繕う。そんな視線の間を縫うように一番後ろの誰も居ない座席へと向かった。豪華な長距離バスと異なり中はさらにおんぼろで、座席のビニールは黒ずみ所々破れ、たくさんの人のお尻の跡がビニールのたるみとしてくっきりと残っていた。重いバックパックを窓際へと追いやり、その横に陣取ると、女が一人、私のすぐ側に立っていた。さっき外で見た壁にもたれかかる女だった。間近で見た女は、見たことのある懐かしい眼をしていた。彼女は明るい緑色のリュックサックを肩から下ろすと、何事もないように私のすぐ隣の最後尾真ん中の席に座った。後方の席は、ほとんどが空いていた。妙な不安と親しみがこんがらがりながら込み上げてくる。固いビニールの通気性の全くない座席の座り心地の悪さが、それをさらに増長させた。

 彼女を最後にこれ以上の乗客はなく、諦めたように運転手はドアを閉めると、大きく揺れてバスは動き出す。冷房もない車内、隣の彼女との距離感、ビニールの座席は次第に熱を帯び、脇から伝う汗の軌跡とさっき見たすぐ隣にある眼のイメージが過ぎ行く景色の上でちらつくように浮かび続ける。席を変えようにも彼女に塞がれ、ここから到底抜け出すことはできず、この状況を必死に探ろうにも、思いつく納得のいく考えなど何もなかった。
 山を越えるカーブで左右に幾度も車体を揺らしながらやがて街外れに差し掛かると、急に窓外の景色が開けた。どこまでも手が届きそうな開放的で広大な光景、その時を待ちかねたように隣に座る彼女が話し掛けてきた。
「あなたは、どこから来たの?」と、流暢な英語だった。

 遠い日に愛し合った人と同じ眼をしていると思った。並べてみると実際は違うかもしれないが、少し鼻に掛かった声が、優しくあの頃の私に問い掛けるようだった。
 旅において、人に気を許すタイミングを見誤ると死を招きかねないのは、すでに分かっていた。しかし、彼女の眼の奥に通じる私の記憶の断片が判断を曖昧にし、もし仮に、ここで全てが終わってしまうことになろうとも、もう諦めるしかないのだろうか、という気持ちが頭の中を過る。一等大事にしてきたものが、結局のところ私を苦しめる毒であり、眼の前に置かれた毒こそが私を突き動かす原動なのも確かだった。

 彼女は自己紹介を始めた。私からは話さず、ただ、その声に聴き入っていた。可能な限り、その声に浸っていたかった。彼女も時折挟んだ私への質問を止め、自分の話しを続けた。友達のこと、仕事のこと、バスに乗ったさっきの街のこと、この国のこと…… バスは人を下ろし、また乗せ、走り続ける。道の上で人が交差する、そんな当たり前のことを繰り返す。この広い世界の小さな街角のバスターミナルで出会った彼女と私も、そんな日々のたくさんある交差の中の一つにすぎなかった。

 道の先に山が再び迫り、岩肌の露出した崖とガードレールもない谷底の間を上り下り、アクセルを緩めることなくバスは走り抜ける。対向車線に大きく外れ、重い車体が何度も大きく跳ねた。その都度、話しは途切れ、通い慣れた彼女ですら不安な表情をしていた。
「昨夜は大雨だったの。この辺りは落石が多いから、往きのバスもたくさん揺れたわ」
 その時、バスが左から右へ大きく蛇行し、ひと際大きな衝撃が襲った。勢いで私のバックパックの方へ二人して飛ばされた。
 彼女を起こし体制を整え車内を見渡したが、乗客も皆、怪我はないように見えた。ただ、異質な鈍い音が定期的に車体に響き、車体は左側へ沈み込んだまま速度を落とし、路肩にバスを止めると運転手は客席へ向かって何かを叫んだ。
 客達は不満気にぶつくさ言いながら立ち上がり、次々と降りていく。彼女も立ち上がり、困った表情で私を見下ろした。
「タイヤがダメから降りろって」

 山をえぐり取って通された路上には、大小様々な落石の呻き声の散らばった惨状を晒し、左前輪のタイヤはすっかり力を失い萎んでバスは傾いていた。そのタイヤを囲みながら運転手と二人の男が話し込み、その周りにいた他の乗客達は楽観的な雰囲気でこのトラブルを楽しそうに見守っていた。おそらく、救助を呼ぶかタイヤの交換の手順か、話題はそんなことだろうが言葉も分からない私は、乗客達から離れ彼女と辺りを散策した。彼女は崖の手前で立ち止まると、谷になったずっと先の拓けたところにある小さな街を指差した。
「あの街に私は家族と住んでいるの」
 名前も知らない、きっとこの先、立ち寄ることもない小さな街だった。彼女は、この山や、この空を見て育った…… そして、太陽があった。何となく、随分と思い出しもしなかった自分の故郷が頭に浮かんだ。この光景とは似ても似つかないが、「家族と住んでいる」その言葉が忘れていた記憶を思い起こしたのだろう。この頭上に輝く太陽が、数時間も経てば、あの懐かしい屋根瓦を輝かせ、畦道の脇の杉に囲まれた小さな社にも陽が射すだろう…… 故郷はここからはあまりに遠く、それだけに気持ちは近づきつつあるのかもしれなかった。

「私の家は農家で、裕福ではないけれど何とか生活はできていたわ。父と母、そして兄と私、それからお爺ちゃん、みんなで一生懸命に毎日働いた。自然が相手だから大変だったけど、それでも楽しかったし、みんなで頑張った、ある時までは…… マフィアとは無縁だったこの田舎に、突然あいつらはやって来て、敵対するマフィアとの抗争が頻発し始めた。お金に眩んだ街の人間も少しはマフィアに加担したけれど、もちろん、関係のない私達にとっては、流れ弾の恐怖に怯え日々を過ごしていたの。だけど、あいつらは新しい生業として農業に目を付けた。輸出用のアボカドや希少なフルーツ、高価な農産品はお金になる。そして、急に私達もターゲットになった。あいつらは、農地と人をコントロールしようとしたの。私達だけじゃない、この辺りの田舎の農家は全て狙われた。そこで農家の人達で団結し自警団を作り、警察の下部組織として対抗しようとした。でも、警察の中にもマフィアの力は入り込んでいて、まったく機能しないばかりか、警察すら疑う状況に陥って、やがて、屈服した人が一人、また一人と自警団を抜けた。もう、生きていく方法はこれしかないって…… マフィアのための仕事に手を染めた。それでも、いくつかの農家で最後まで抵抗したけど…… そして、ある日、突然、皆、居なくなった…… 残った自警団のメンバーは一人残らず連れ去られ消えてしまった…… 街の誰もが、このことは語らない、残された家族も、ただ悲しみに暮れるだけ…… マフィアも、警察も、農民も、政治家も、大統領でさえ、同じ国の旗の下で暮らしているはずなのに、なぜ、私達は……」
 タイヤを交換する男達のおどけた呑気な声が遠くから聴こえた。彼女の声とは違いすぎた…… それこそ遠い国の出来事のように、タイヤのパンクは今の私の旅の何の問題にもならなかった。むしろ、ここに居てタイヤの交換もできない私にできることは何なのか…… ただ、聴いていた…… 風が揺らす葉の囁きを、崖を転がる石の怒りか、羽ばたく鳥の願いに…… 彼女の言葉……

「私の身体には、この土地と彼方の土地からやって来た二つの異なる血が混じっている。私のこの眼に映るもの、捉え方、他人が私を、いや私達を認識する際に少なからず影響を与えている。私は、その長く続く血の河の中に居る…… 上流はどれぐらい遡るのか、下流がどこまで続くのか、それは分からない…… 私は、大河にのまれているの? それとも、踝ぐらいのせせらぎの中に立っているの? 溺れて逆さまに沈んでいくの? それも分からない…… ただ、毎朝、考えるの…… ずっと昔から血で血を洗い、やがて血は雨となり、この大地には幾度も血が流され、染み込み…… 私は、ここに居る、そして……」
 彼女は少し考え込んでから口を開いた。
「父と兄の血は…… もう、流されたのかもしれない……」

 二十歳になる前に友人と一緒に観た、ある映画を思い出した。
 殺された主人公は、どこか私に似ていると思った。その頃から、人生についての言葉を探し始め、友人と死について語り合ったが、その友人は青春の最中に死んだ。友人が最後に見た景色や考えたこと、それは何だったのだろうか、あの頃からずっと、そのことばかりを考えている……
 ピックアップトラックの荷台で出会った男も言っていた「最後に何を見るのか」、そして、なぜ人は向かう日々の中で死について語り、死ぬ直前にしか見ることのできない光景のことを想うのか…… どこにも自由に行くことなどできない彼女の運命の河岸に立つ私は、手の震えを抑えられなかった……

「私は朝、あのバスに乗って家を出た。そして、またあのバスに乗って、今度は故障で停まって、あなたは私の話を聴いてくれた。行ったり来たりしている同じバス、運転手も同じ、きっと終点に辿り着けば、また折り返す、毎日の乗る、同じ時刻の、同じ景色…… だけど、タイヤは一つ変わったね」
 タイヤの交換が済むと歓声が沸き起こった。乗り込む人々に続くように、彼女は私の手を取り、バスへと向かった。

 運転手は懲りずに、またもや猛スピードで坂を下る。左右に揺れながら、私達はパンをかじった。そして、私達の間にある手は、しっかりと握られていた。
 街が近づくと彼女は言った。
「二度と会うことのない遠い世界のあなたに、私が居ることを知って欲しかったの……」
 そう言い残すと彼女はようやく繋いだ手を離し、力強く抱き付いて私の頬にキスをした。そして、そのまま立ち上がり、私がかぶっていたカウボーイハットを掴むと自分の小さな頭に載せ、急いで運転手の方へ駆け寄り話し掛けると、すぐにバスは停まって扉が開いた。
 そして、またバスが動き出す。砂埃に汚れた窓越しに、あの眼が私を見つめている。ゆっくり離れ、白いカウボーイハットが見えなくなるまで、私は見ていた。彼女は私からとても遠く、一番後ろの席は、この世界よりも、あまりに広かった。

 抗うことのできない流れの中から伸びる汚れのない綺麗な手は救いを求め…… その手を掴むこともできず、ただ、見つめ…… 神に祈ることさえもできず…… 私は……
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