第一章 薄汚れた手の中で

文字数 4,515文字

N.K, T.Y, 愛猫に

    第一章 薄汚れた手の中で

 メキシコシティ行きの飛行機は、出発地アメリカ西海岸の空港で待つ乗客達の騒がしさをそのままに飛び立った。大きく揺れるたびに沸くスペイン語の悲鳴と歓声、移動する小さなメキシコさながらの機内で眺めていた窓外は、限りなく天に近い日光を浴び、一段と明るい輝きを増した白い雲が地上を覆い隠していた。旅の高揚といくばくかの不安、長くは直視できないほどの強すぎる光に眼を閉じると、いつしか眠りに落ちていた。

 目覚めると陽気な客室乗務員に出入国カードを手渡され、そこに、職業を記入する欄があった。アルバイトで掃除業をしながら暮らしていた私は、自分の職業を英語でどう書くのか分からなかった。独り旅、仕事のこと以外に鳴りもしない携帯電話は置いてきていたので、鞄の中から一冊の頼れる小さな和英辞書を取り出し引いてみると、「dustman / ダストマン」と記されていた。その綴りを出入国カードへ写しながら、直訳した「ゴミ男」という意味が、自分のことを的確に表しているようで、どこか心地よく感じた。

 煤けた雲が覆う空港へ到着後、丸暗記のガイドブックに従って、すぐさまメトロを乗り継ぎ、長距離バスのターミナルへと向かった。苦労の末、片言のスペイン語で買ったチケットを手に、一番早く出発するバスへと飛び乗る。冷房の効き過ぎたバスに揺られ眺める車窓の景色は、まだ飛行機の延長のようで、実感のない光景が次々と現れては流れていった。

 緊張感に身を包んだまま首都近郊の都市へとバスは着く。降り立ったターミナルの建物内の熱気と人混み、飛び交うスペイン語に少しむせ返りそうになりながら、重いバックパックを担いで外へ出てみると、適度な気温のそよ風が、火照った額を優しく撫でていった。
 この国へ来ることの他に予定は何も決めていなかったので、見上げた空はこれまでみたものよりも新しく感じた。ようやく追いついた旅の実感と共に、遠い所へやって来たことを知った。
 目星を付けていた安ホテルで荷を下ろし、早速、街を徘徊する。
 道端に転がる潰れたペットボトル、捨てられたマンゴーの大きな種にたかるハエ、開け放った店からは軽快なサルサや流行りのラテン音楽が溢れ、旋律に乗って漂う焼いたトルティーヤの芳ばしい香りは、忘れていた空腹の胃を刺激した。
 物珍しい街並みにも眼が慣れてくると、少しずつ身体も馴染み始めるように、歩き熱せされた肌から汗が拭き出す。小さな商店に立ち寄り買った冷えた水で喉を潤す。排出された汗に取って代わり、この大地の水が私の身体を満たすにつれ、街、人、国、文化の流れの中へと私も少しずつ滲んで溶けてゆく気がした。
 勢いに任せ街中を歩き回り、目に付いた一軒の定食屋へと入った。ランチセットの定食「コミーダ・コリーダ」を頼み、瓶の「コカ・コーラ」を追加した。サルサソースの辛さ、コーラの甘さ、疲れた身体に流し込んだ強烈なメキシコが胃を驚かせた。

 店を後にし、広場のベンチに腰掛け煙草を吸いながら辺りを眺めていた。耳に残る眼前を行き交う人々の話声の響き、言葉は分からない…… 読んでみた街の至る所に掲げられた看板の文字、意味は知らない…… カモと見定め話し掛けてきた物乞い、黙って時を過ごす私にたかるのを諦め、しばらくするとのそのそと立ち去った。私の知っていた何もかもから遠い所に居る……
 急いで小さいノートとボールペンを取り出しすと「コミーダ・コリーダ、コカ・コーラ」で始まる詩について私は考えた。
 この世との私の唯一の接点は、掃除と詩作だけだった。街や人、それらが生み出した音や匂い形といった、そこから生まれる思考の果てをスケッチするように、メモ帳へ言葉を拾った。ただ、ゴミ拾いとは違い、私の言葉は金にはならず、ましてや、そんな言葉の集積場の存在は誰も知らなかった。
 小一時間もベンチで詩を考えていると、やがて言葉は見当たらなくなった。すっかり汗も引いた身体が尿意を催す。辺りを見回すと、すぐ裏手にいくつか馴染みの米国チェーン店の看板が並んだ少し大きな建物があり、荷物をまとめるとトイレを探しに向かった。

 飲食店や本屋が並ぶ薄暗い通路の先にトイレらしき表示があり、屈強そうなポマードの艶やかな漆黒の縮れ毛の大男が入口の前に立っていた。汗ばみ黒光りした褐色の肌を包む黄ばんだように見える白い作業服、にっこりと行き交う人々に笑みを浮かべると口元に覗く白い歯、それらが暗い中に浮かんで見える不気味さを含みながらも、コントラストがあまりに印象的だったので、その場に立ち竦んでしまった。
 人々は男にいくらかお金を払いトイレへと入っていった。清掃員へ払うトイレの使用料のようだった。太い首から下げた小さなずだ袋は稼いだ小銭で重くぶら下がり、生成りの生地の表面には「$5」と手書きで大きく記されていた。ポケットの中に手を突っ込みレシートにまみれた小銭をいくつか取り出し、金額分を確かめ握り締めると、男に歩み寄り、真似るように小銭を渡した。男は、にっこりと笑い、続いて私の後ろにいた女の金を受け取った。

 「コ」の字になった通路を抜けると、この国にまったく想像しなかった清潔なトイレがそこにはあった。隅々まで驚くほど綺麗に磨かれ、白いタイルや鏡は蛍光灯の光を帯びて輝きを放っていた。どう見積もっても安そうな金メッキの蛇口でさえ気品が漂い、使い捨てたグシャグシャの紙タオルが入る白い金物のゴミ箱に至る全てが、不快感を与えなかった。おそらく彼の聖域であろうこの場を決して汚さぬように用を足し、洗面台の水が跳ねないように手を洗うと、トイレを後にした。

「グラシヤス、セニョール」と、男にお礼を言った。
「チノ?」
 中国人か、と聞かれたが、咄嗟に「日本人」とスペイン語で答えるのがやっとで、それ以上の言葉を紡ぐことができずに戸惑った。それでも何か続ける言葉を考えながら俯くと、男のズボンの裾の汚れが眼に入った。何度洗っても落ちない、その灰色に滲んだ労働の染みを、私もよく知っていた。
「OK, ミスター、英語は話せるか?」
 見上げると、男は得意げな笑顔を浮かべていた。この国では英語がほとんど通じなかったので意外だった。急なことに驚く私の表情を察したのか、そのまま私の答えを待たず、男は続けるように話し出した。
「俺は昔…… そう何年も前だ、ヒッチハイクでアメリカへ行った。まあ、その頃は安物だが身なりもキレイにして、ほら、お前もそうだろう? 若い頃にできることは精一杯してやろうと、金はなかったけどな! そしたらどうだ、国境を跨いだ世界は、こっちとまったく違う! 何もかもだ! こりゃもう、少ない手持ちの金が尽きるまで見尽くしてやろうと決めて、アリゾナ、カリフォルニアと、あちこち行ったさ、でもあっという間だ、そう、すぐ金は俺のポケットからこぼれ落ちた。ちょっと待て、そうだそうだ……」
 男はシャツの胸ポケットから短くなったエンピツとレシートを取り出すと、何やらメモを取るように書き出した。
「失礼…… それでだ! 金はない! 仕方ない! ぶらぶらしながらゴミを漁っていたんだ、どうしたって腹は減るからな…… その頃には、もう潮時かな、と考えていたさ…… どうやっても俺みたいなちっぽけなメキシコ人は、あの国に居場所なんてなかった。そもそも、言葉もほとんど分からない、知ってる奴も伝手もないから仕事なんてありつくこともできない…… そんな時にだ! ホームレスの見よう見真似で飯を漁っていたゴミ箱の中に一冊の本を見つけた。もちろん、英語で書かれていたので分からない、どうも詩集のような感じだった…… その日から俺は必至でそれを読もうと試みた。しかし、英語が分からない…… 本屋へ入って辞書で単語を調べていたら追い出されたりもしたな! だがな、結局、最後まで読み終える前に本は盗まれた…… 寝ている間だ。そういう世界に生きているんだな俺達は」
 年配の女がやって来て、男に小銭を渡すとトイレへ消えていった。
「詩集がゴミ箱の中にあった…… なぜだかわかるか? 俺も考えた、人が言葉を必要としなくなったのか? もしくは、世界に溢れるくだらない言葉をくだらないと認識できなくなったのか? まあ、今となっては、ほとんどの言葉は使い捨てだな、そこら辺のゴミと一緒にポイッだ。それならと、俺は詩を書き始めることにした」
 男が手振りをするたびに、ずだ袋の中でジャラジャラ小銭の音がした。
「気持ちが定まると、すぐにペンと紙なんて見つかるもんだな。おそらく、そんなものは、至る所に落ちていて、普段は気付かないだけで、常に辺りに溢れている。言葉と一緒だ、大事な言葉といらない言葉…… ごちゃごちゃだ」
 胸ポケットから先程の短いエンピツとレシートをまた取り出し、男はゆっくりと頷いてみせた。
「いいか、これは、拾ったレシートだ。何を買った? どこで買った? 店の名は? それは、いつだ? 幾らだ? そうやって見てみると、これは誰かにとって必要なものだったと分かる、見えてくるだろ…… ほら! ミスターの頭の中にも浮かんでくるだろう?」
 手渡された皺くちゃのレシートの余白は、裏も表もびっしりと鉛筆で書いた薄い色のスペイン語で埋められていた。
「新聞なんて拾ってみろ、もうそこは天国であり地獄だ! 考えるべきこと、読み取るべきことで溢れかえって、頭がボンッ!と爆発しそうになる。幸い俺は英語が分からなかったからな、これは危険だ!と避けたが、言葉まで分かっていたらどうだ? 間違いなく狂っていたな。今じゃ、新聞も雑誌も、ある程度は距離を持って扱えるようになったけどな……」
 レシートを返すと、男は大事そうに胸ポケットへ、しまい込んだ。
「そんなことをして暮らしているとな、つまり、メキシカンがゴミ箱を漁っていたら、まあ怪しいわけだ! すぐに警察の御用、不法滞在でメキシコへ舞い戻ったわけだ。それからというもの、俺は英語も勉強したし、ゴミを漁っては詩を書き続けた。この国を見ろ! 詩だらけだろ? 頭がおかしくなりそうだ!」
 男の大きく開いた口から放たれた笑い声が、薄暗い通路にこだまする。
「それでだ、ゴミを漁っている内に俺は閃いた! 掃除を生業にすれば…… ゴミが手に入るじゃないか! さらにだ、俺は気付く…… あちこちをゴシゴシ磨けば磨くほど、綺麗になる! 掃除に没頭していくほど…… 頭の中の言葉は研磨される! つまりだ、俺の詩は光り輝くわけだ!」
 ふと私は自分のポケットの中のレシートことを思い出し、おもむろに取り出した。
「OK, ミスター、詩を書くんだ!」
 男はあの短いエンピツを取り出すと、レシートを持つ私の手の中へ一緒に握らせた。

 なぜ、男は、詩の話しを始めたのだろうか……
 汗と言葉、埃と思考にまみれた身体で家路へとつく男の姿を想うと、遠い所へ置いてきた私を見ているようだった。この世に属さないような、誰も見向きもしない、道端に転がる一片の紙切れ、それと、私達は同じだった。
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