第十章 神に寄せて

文字数 2,974文字

    第十章 神に寄せて

 この国を旅する私へ訴えかける何か特別な人々の手の中に言葉はあった。
 しかし、掬い上げた私の手の中で言葉は熱く乾いた砂のように指の間からこぼれ落ち、結局のところ、そこに残るのは、何も掴めなかった掌と、ただ天を仰ぐ私、そして唯一、太陽に関する一篇の詩だけだった。
 神を信じない者はどこへ向かうのか……

 暗い石造りの廊下の先に柔らかい陽が注ぐ正方形の中庭があった。中央に配されている古ぼけた二層の枯れた石の噴水から放射状に青々とした芝と花の咲く低い植込みが対称に広がり、それらを取り囲む回廊には規則正しくいくつもの太い石円柱がくすんだ鋼色の高い天井を支えている。塵一つない回廊、草木の手入れは隅々まで行き届き、葉や花弁の瑞々しさを引き立てていた。
 植込みの名も知らぬ色鮮やかな花々を眺めていると、突然、一羽のハチドリが天から舞い降り、花から花へと蜜を求めた。緑色の宝石をちりばめ輝くような、その小さな鳥の羽ばたきはあまりに速すぎて、すぐに姿を見失った。 

 太古からハチドリが私達へ与えてきたことは多い。そんな話を聞いたのは、この国に渡り、長く住んだ友人からだった。
 マヤ文明では神が翡翠石から作った矢に命が宿りハチドリが生まれたとされ、神と人間とを繋ぐ伝令役だったと伝わる。また、アステカ文明では機敏で正確な動きを称え勇敢な戦士として崇められ、太陽と戦争の軍神ウィツィロポチトリのシンボルとして伝えられた、と彼女は言った。
 私が旅に出る以前、彼女は突然メキシコからやって来て、別の国の遠い所へ移ると話した。最後に会った日、彼女はフェルト製のハチドリのぬいぐるみを私に手渡し言った。
「伝説だけど、まだ他にもあって、私達を運命の望む方向へ向かわせる力がハチドリにはあるのよ……」
 先に死んだ友人が生前、年の離れた彼女と私を引き合わせた。残された私達にとって、友人が残したものは大きかった。少なくとも若い私には、あまりに大きすぎた。

 過去に想いを巡らせ、誰も居ない回廊を反時計回りにゆっくりと歩く。陽の射し込む方、また陽が陰る方、と時を遡るように。床に敷き詰められた石の表面は数多の人の軌跡で磨き削られ滑らかだったが、眼に見えない、この奥底に潜む厚みと深さ、石が抱える年月、抱く夢を理解できるはずもなく、私に与えられた時はあまりにも儚かった。私の短い記憶の始まりに到達すると、小さな緑の光の粒がこちらへ猛スピードで一直線に飛んで来て、背後へと抜けて行った。またハチドリが舞い戻ったのだと思い振り返ると、そこに洗い込まれた白い作業着を着た若い男が立っていた。
「Hola」
 彼の挨拶の声はとても小さく、この空間の均衡は崩れず安堵したが、叶うことならもう少し、独りでこの世界に浸っていたかった。彼に向かって立ち尽くしながら、何かの…… あと少しの所…… そんなことだけが浮かんだ。

 彼の現れた目的を知るべく、私はその場に立ち尽くしながら、彼の挙動を眼で追っていた。彼は床から一段下がった芝へと足を踏み出し、植込みの間を縫って中央の噴水の方へと向かう。そして、噴水の根元に屈むと、芝の中に埋もれていた鉄の蓋を開け、その中へ手を入れるとキュキュと音がした。しばらくすると、噴水の丸い皿型の上段から水が溢れ、縁に沿って下段へと落ちる柔らかく湾曲した水の傘ができ上がった。正午の太陽が作り出す彼の足下の影は短く、水音の調べは水の輝きそのものだった。
 見惚れていた私を彼が手招きするので、私も芝へと足を踏み出す。どこまでも柔らかく沈み込む芝、さっきまで居た強硬な石の床、至極対照的なもののあわれを感じた。
 彼の側へ辿り着くと、彼は自らの両手を噴水の水に浸し、私の眼を見て黙って頷く。真似をするように私も両手をゆっくり水の中へと浸し、広げた手を底へ置いた。水は生暖かかった。渇いた手が満たされてゆく。この手の渇きは、いつからだったのだろうか…… 小刻みに波立つ水面で乱れ映る太陽、太陽だけが私をずっと見下ろし、私が終わる時もまた、太陽だけが私を見届けるのだろうか。

 しばらく深く考え込んでいたが、水が縁から溢れ出したので、後退りするように手を引き上げた。足元は濡れ、キュキュという音がいつの間にか屈んでいた彼の手元から聞こえた。水は止まった。彼の手が離れた穴の中には、太陽の型をした赤く錆びたバルブがあった。鉄の蓋を閉めると彼は立ち上がり、私の方へと向くと、額を流れ落ちる汗を右手の甲で拭った。彼の手は焼けたように赤黒い錆で汚れていた。

 帰り道、道端に落ちている真新しい新聞を一部拾った。ホテルに戻り、早速、広げ眺めていると、別々の二つの記事の小さな白黒写真が眼に入った。一つは、満面の笑みの男と鶏を腕の中に抱いた女。もう一つは、悲愴に満ち泣きじゃくる女の傍らで顔に黒いカウボーイハットをかぶせられた身体が横たわっていた。
 夕陽が射すまで、私は自分の手を眺めていた。いくつもの手の感触が蘇ってくる中に、こぼれ落ちたはずの言葉はずっとそのままそこに残っていた。
 陽が暮れると、鮮明に言葉が浮かび上がり、私は詩を書き始めた。焼き付く光景や、水の奥底に燃える炎、言葉が秘めた熱を掴んでは記していった。 
 空が白み始める頃には、余白の埋まったレシートや切り抜いた新聞の山ができ、私はやっと短いエンピツを置いた。

 旅の最後の日に、私は旅から帰った私の為に、もしくは旅に出なかったかもしれない私の為に手紙を出した。私が知り得たことや、レシートや新聞紙の片隅に書きなぐった詩をまとめて大きな封筒に詰め込んだ。郵便局へ持ち込んだ膨れ上がった封筒の表面には故郷の住所を記しておいた。

 帰国後、掃除の仕事をしながら毎日を過ごし、数か月が経つ。
 私宛の国際郵便が届いたら取りに帰るので連絡をくれるようにお願いしてあるが、未だ家族からの電話はなかった。
「メキシコの郵便は、ちゃんと届かないこともざらよ」と、これも彼女の言葉だった。
 どこか遠い世界に、私の過ごした日々の思い出が転がっているのだろうか、ゴミ箱に捨てられるのも悪くはない。もしくは、どこか遠い世界の誰かの手に渡り、私のことを考えているのかもしれない……
 その手の中にある詩の最初はこう始まる、
「初めに太陽があった……」

In the beginning was the Sun
and the Sun was with God
and the Sun was God

The salsa steps beat out this ground
Green trees grew on Mexican ways

Revolutionists confricted for the true
White tears is shining in Mexican eyes

A heavy rain washed away the tragic history
Red blood made by Mexican rays

初めに太陽があった
太陽は神と共にあった
太陽は神であった

サルサのステップは彼らの道を踏み固め
この大地に緑の木が育つ

革命家達の志は清く
彼らの瞳の中の涙は白く輝く

歴史の惨劇を雨は洗い流し
彼らの赤い血は太陽光が育んだ

    完
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み