第六章 トーキング・ガン

文字数 2,812文字

    第六章 トーキング・ガン

 熱い乾いた大地のひび割れた、隙間から絶え間なく蟻の出入りは激しい。

 躍動する天高い太陽の支配、逃げろ隠れろ、一軒の空き家の庇の下に……足から崩れ落ちる。荒い呼吸、顔を伝う汗の向かうは唇の端に、吐く息も熱く粘つき、残り僅かとなった熱々のペットボトルの…… これは湯、流し込んだ塩気と砂埃の味。

 ペットボトルが空だなんて…… 裏切りに等しい。誰の? 私か…… 眩暈、意識、眼に映る、思考にも値しない全てが、ぼんやり遠く、拒まなければ終わるか、じっと眺める、足元の干乾びた土から伸びる枯れた草、熱波に揺れて、もっと眺めなければ…… そういうことか…… くたびれたスニーカー、熱でソールが剥がれかけている…… もう少し私に付き合え、どうか、付き合ってください…… 私は、まだ歩かなければならない……

 眺めろ、認識しなければ、空き家の前は拓け、その先、舗装された道路、南北か、東西か、大地を横切っている。猛スピードで走り抜ける車の運転手達、蟻がそこにもいる、蟻達よ、そんなに急いでどこへ…… ここに疲れ果て座り込む私、どう違うのだろうか…… 荒れ狂う北方の冷たい海が迫り来る、身体中が痺れ手足もついに動かなくなった、沈んでいくのか私は、黙り見下ろすだけの暖かく分厚い上着に身を包んだ船上の人々のいくつもの憐みの眼と、眼と、眼…… 身震いだ、寒い…… 灼熱の荒野に不釣り合いの光景が、ぽっ、ぽっ、と頭の中に生まれ、感覚の鈍化した指先から、ごめんなさい、と言い残し、手の内からペットボトルするりと滑り落ち、ポンッ、ポロッ…… ごめんなさい……

 迫り来るトレーラー、蟻はアクセルを踏み倒す、ゴオォーと唸るエンジン音、まだまだ速くなる、私の前を駆け抜けた。ペットボトルは謝り続ける、ごめんなさい、ごめんなさい…… タイヤとペットボトル、転がる音の余韻にすら浸れない……

 僅かな時間、寝ていた…… 身体は硬直し、無理に動かそうとすると関節や骨に痛みが走る。炎天下を行き交う車を、ただ眺めていた。運転席の人々がここで草臥れた私を知る由もなく、今も流れゆく彼らの車窓の風景の一部へと取り込まれそうになっていた。足下を這い上がる蟻、払いのけゆっくりと立ち上がる。岩を背負ったように重い身体、まだ歩まなければ……

 視界の遠くは常に暑さに揺らいでいる…… 陽炎か。悪寒で身体が震え上がるのを騙すように一歩踏み出し、また、汗が噴き出す。霞む眼の先にコカ・コーラの看板を掲げた小屋…… そこには、きっと冷蔵庫の中でギンギンに冷えたコカ・コーラが並んでいる…… これまでに見た、あらゆる商店やコンビニの冷蔵庫の光景が次々と現れ、やっと、これで私は救われた…… おぼろげな荒野の景色の輪郭が近づくにつれ、はっきりと眼の中に映り、落ち着け、と言い聞かすほど、歩みは速く、心臓は高鳴り、砂を引き摺る靴底の乾いた足音の残響が重なり大きくなって…… 儚く全ては終わった。これも、また空き家。

 期待や希望ほど裏側に潜む残酷さは躊躇なく襲い掛かり、もはや考えることも歩くことも難しくなろうとしている。
 いつからそこに居たのか、ずっと昔からか、ひしゃげてぺしゃんこになったペットボトルが足下に居た。気付けば一つ、二つと、ゴミの吹き溜まりの中に立っていた。初めから、それらは、その姿で生まれたはずもなく、液体に満たされていた頃の幻影がちらりと浮かぶ。必要とされた柔らかな頃の記憶は消えて、今や硬くなったお前達と、この惨めな私に違いなどあるのだろうか…… 
 路肩に転がるおんぼろ車、運んでいた夢も、道の彼方へ走り去ってしまった。今やフレームだけを残し、全てを剥ぎ取られ骸のように眠る。

 一台のピックアップトラックが近づいて来る。おんぼろ車へ近付く手前で、のろのろと速度を落とし始めた。荷台の数人の警官が、サングラスを掛けた顔で、訝しむようにこちらを見下ろす。分厚い防弾チョッキと彼らの威厳で胸は山のように盛り上がり、両手にはめたオープンフィンガーの黒いグローブでしっかりと携えた自動小銃の黒いボディは、筋肉質な猛犬のように荒々しかった。
 銃口の、お喋りが始まる。
「おい、そこのお前! フンッ、フンッ、その顔、その身なり、旅行者か? さあさあ、よく聞いておけ! この国、いや、俺たちの声をだ! 死は唯一の、お前達に与えられた平等だ! お前は、死への裁きを、今ここで受ける覚悟はあるか? おとなしく、その日が今日でないことを祈れ! フンッ、フンッ、この先、何かに出くわしても、余計なことは考えるな! 決して口に出すな! 例えだ、聞いたとしても、見たとしても、知ったとしても、全部忘れろ! 異邦人! そうだ、お前が明日を望むなら、ここでは、そういうことだ! もしくは、安らかな眠りを、お前が望むなら、今すぐここで…… フンッ、フンッ……」
 続け様に、別の銃口が、お喋りを始める。
「この国の! この空の下に! 鮮血が必要だ! もっと、もっとだ! まだまだ足りない! 歴史が知っているだろう、血だ、血が欲しいと大地が吠えるのを聞いただろう。そうだ、お前のすぐ足元だ。勤勉な俺達は、仕事をするだけだ。そう毎日、血が必要だ。この乾いた地には、まだまだ足りない。老若男女、皆、流すんだ、血を! そこのお前、大丈夫だ、心配するな、あっという間だ。俺達は実に優しい。死を気付く前に、すぐに楽になる。だから、お前も血を流してみないか? 血が流れりゃ、金が生る……」
 荷台の警官達は私を見て何か話をしていたが、用はないのかピックアップトラックは過ぎ去っていった。

 諦めず歩みを進めていると、金メッキされた十字架の装飾を施した小さな額縁が、大地に突き刺さった杭に掛けられていた。その周りを艶やかで色とりどりのビーズで作られた造花が幾重にも取り囲み、額縁の中で笑う髭面の男の写真は、陽に焼け色褪せ波打っていた。右手は、胸の上で横一文字になるように添えられている。角度によって額縁や造花はキラキラと光を放ち、荒野に似つかわしくない誰かの愛情を前にし、私は、ここに居る実感を強くした。
 やがて街の外れに辿り着き、冷たいコカ・コーラを手にした私は、一本では足りず、二本目も一気に飲み干し、三本目を持ちながら、ふらふらと歩き出した。
 ようやくホテルの自室に戻り、纏わりついた衣服を全て脱ぎ捨てると、ベッドに倒れ込むまま記憶を失った。

 翌日、筋肉通、関節痛の強張る身体のまま、シャワーを浴びながら考えてみたが、なぜ私は歩いていたのか、まったく思い出せなかった。
 水を買いに外へ出たが、強張ったままの足は思い通りに動かせず、歩くのにも苦労した。トボトボと歩く道すがら、空に数発の大きな音が響いた。見上げると、晴れ渡る真っ青な空に、聖人を称える空砲の煙がポツポツと綿花のように咲いていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み