第七章 あだ人のメダル

文字数 2,572文字

    第七章 あだ人のメダル

 シティの中心では何もかもが過剰に溢れ、煮えたぎった湯のように沸いている。車の煤煙を吸って、ハエに追われる道すがら、車体を傾け角を曲がる荒い運転のバスを見送ると、肩と肩がぶつかるのを避け、銀行に並んだ長蛇の列の不満を聞き、雑多に陳列された違法なコピー商品を売る鋭く熱い視線を掻い潜り、何台も高く積まれたスピーカーが高圧的にサルサのリズムを放ち、熱狂と共に瓶ビールの栓は弾け飛んだ。

 歩道にまで迫り出したブーゲンビリアの葉の下、息を切らし、独り言葉を探して歩く。
 貧乏旅行を続けていると、いよいよ身なりも心も現地の垢にまみれ、体臭はトルティーヤに包まれた肉の匂いがした。真っ黒に焼けた肌、伸びきった爪、旅の前からほったらかしの髪は肩まで届き、汗が滴るか砂埃にまみれていた。暑さを遮るために買った純白のカウボーイハットは、今や陽に焼け手垢でくすみ、ソールの剥がれたスニーカーを棄て、茶色のカウボーイブーツを手に入れた。
 空腹でみすぼらしく映る、異邦人のカウボーイに興味を抱くほどシティに暇な者はいない気もしたが、ハットのつばの影から世界を観察していると、たいていの人の眼には映らない街の狭間に、私を見ている者が確かに存在した。
 表の世界からは身を隠し、裏通りを歩くジャンキーや犯罪者のような類、彼らの眼は特別だった。詩の対象となる人や街の顔、音、匂いや香り、ざらついた壁の表面にまで彼らの眼は行き届き、見ているもの探すものは同じだったのかもしれない。
 狩人が獲物を捕らえるように街の中でじっと潜む彼ら。街の噂では、病気に感染したジャンキーが自身の血を抜き取り注射器で無差別に人を襲うテロ行為が囁かれ、頻繁に起こるスリや強盗といった軽犯罪のほか、数日間だけ拉致され身代金を要求される誘拐事件が頻発していた。彼らは表通りへ静かに手を忍び込ませ、そっと近寄り最後は強引に彼らの裏路地へと引き込んだ。

 大通りから少し入った古い壁の壁龕にマリア像が彫られ安置されていた。古びた壁とは対照的な瑞々しい花々が手向けられ、その下に一枚の丸い銀色の紙が落ちていた。拾い上げると、それはオリンピックのメダルを模したもので、裏には射撃をする男の写真、読めないスペイン語で書かれた文字、そして「1932」と記されていた。面白いものを手に入れたので、私は側にあった石段に腰を下ろしメダルを眺めていると、一人の男がヘラヘラした顔で、こちらへフラフラと歩み寄って来た。
「お、お、な、なんてキレイなソンブレェェェロだ! ブ、ブ、ブーーーツも、立派、ご立派だ!」
 男は大袈裟に両手を広げ、懐かしい友に再会したように、にこやかに笑っているように見えるが、足下は定まらないステップを踏んで小さく揺れていた。
「――ああ、来たな」と、諦めながらも賛辞へのお礼にハットのつばを少し持ち上げた。少し離れた表通りの姿はさっきまでと変わらず流れていたが、隔てられたここは、随分と遠くにあるようだった。
 赤黒い鼻の下に髭を蓄え、大きなぎょろりと見開いた白目は赤く充血し、季節外れの茶色いウールの汚れたジャケットは見るからに暑そうで不快だった。
「こうも、あ、暑いと、ハッッットがな、な、ないとダメだな。あ、暑くてたま、た、たまらん。す、座ってもいいか? いやぁぁぁ、あ、暑くて、つ、疲れた、さあさあ、さあさあ、す、座らせてもらうよ、セ、セニョーーール」
 英語とスペイン語のこんがらがる詰まった言葉を捲し立てながら、胸ポケットの汚いシルクのチーフを抜き取ると額を拭った。男の身体から発している酸っぱい匂いは鼻に纏わりついた。
「中国人か?」という問いに対し、私はアメリカ人だと偽って答え、友達を待っている、と出鱈目をさらに重ねた。
 少し嫌な顔をしてから何か言い始めたが、何のことを話しているのかまったく分からなかった。呂律が回らなくなっていく口は、別の生き物のように動き、これは、髭が本体で男は乗っ取られている、そんな馬鹿げたことを思いながら、何気なく辺りを伺いつつ、ここから立ち去る方法を悟られないように考えていた。
「だ、か、ら、そ、それ、俺の物だろ! か、か、返しやがれ!」
 口調は次第に激高し始め、ようやく何が問題なのか判明した。原因は、私が手に持っていた偽物のメダルだった。
「か、返せよ、おい! おい!」
 男は私の手からメダルを奪い取ると、
「そ、それからだ、か、か、金をよこせ…… か、金だ、あ、あるんだろ!」
 見境のなくなった男は上着の内側へ手を忍ばせ、今にも何かを取り出さんばかりのまま、じっと私を睨みつけ震えていた。その眼に親しみなどなく、唇の端に浮いた白い泡が何よりも不気味で不安が襲ってきた。
 まとまった紙幣はハットの内側にねじ込んであったので、ポケットの中の安い紙幣と小銭を適当にいくつか渡し立ち去ることも考えた。男は、それで納得いくのだろうか、そして何より、上着の内側に潜む牙が気掛かりだった。銃、ナイフ…… 注射器の細く鋭い針から血が滲んでいるのか……

「ヘイ! バケーロ! バケーロ! カウボーイ!」
 表通りの方から十人ほどの子供達が一斉に走り寄って来て、裏道は一気に賑やかになった。
「探したよ、カウボーイ! ほら、早く行こう!」
 スペイン語を喚く子供達の中で背高の少年が英語で私に話し掛け、小さな子供達の無数の手が私の手を取り立ち上がらせ、この場の重く気怠い緊張から一気に引き離した。
 男は何事もなかったように立ち上がると、フラフラと壁伝いに奥の陽の届かない方へと歩いて去って行った。
「セニョール、大丈夫? あいつは、この辺でも有名なジャンキーで、旅行者から金をせびってるんだ。大した奴じゃないし、あいつの上着の中には何もない。全部はったりさ」



 褐色の天使達の登場で私は窮地を脱した。
 そのまま、ワイワイと彼らに引っ張られ、私達はシャーベット屋へと辿り着いた。そこは、彼らの中でも一番人懐っこい少女の母親が営む店だった。そして、しっかりと子供達全員分のシャーベットを奢らされた。
 皆でベンチに座りながら食べたレモンシャーベットの冷たく爽やかな甘さ、カップの底に溶けてゆく氷をスプーンで掻き混ぜながら、他人の栄誉を手にしたことが間違いだったと気付いた。
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