第五章 バルコニーの静寂

文字数 1,916文字

    第五章 バルコニーの静寂

 陽が沈むバルコニーは舞台。ほのかな薄い紫の吐息に浸る山の稜線、空高く翻る濃紺のマントに一番星が輝き、役目を終えた建物や電線の輪郭が闇夜へと帰ってゆく。囁きに似た冷たい風が頬の火照りをかすめ、歴史と共に沈殿した街の影の中でオレンジ色をした街灯や家の灯りがポツポツと咲き灯る。時の様変わりした束の間の静けさに、私は耳を澄まし観劇している。
 ああ、嘆きも、悲しみも、もう霞んでしまい、水の滴りが誰かの流した涙や血だと気付く頃には、もう全ては手遅れだと知る。淋しさにも見放され、ただ乾いてゆく血潮、陽は昇り、また、ジリジリと乾いてゆく。
 今日の言葉は、明日の言葉に覆い隠され、遠ざかり、誰が私のことを覚えているのだろうか……

 ホテルは坂に沿ってへばり付くよう階段状に建てられていた。石造りの古いホテルだが、設備は改修され、建物全体に掃除が行き届き清潔に保たれていた。各部屋へは、装飾の施された外階段とバルコニーで繋がり、一つとして同じ造りの階はなく、最上階に借りた私の安部屋までの道のりには、綺麗な花々がいくつもの大きな鉢に植えられ眼を喜ばせた。

 午前のホテルには世界中の観光客のチェックアウトを待つ言語が飛び交い、掃除係の恰幅の良いおばさん達の笑い声と身に着けた柄物のエプロンが賑やかだった。彼女達は晴れ渡る青い空に、たくさんの洗ったばかりの白いシーツをバルコニーに所狭しと干した。その片隅を借り、彼女達にからかわれながら一緒に洗濯物干すのは、心安い健やかな時間だった。
 昼前に出掛けると、日中は坂の多い街中を徘徊し、夕刻前にメルカドの中の小さな食堂へ行くのが日課だった。目当ての食堂には小さな厨房と大きなテーブルが一つだけ置かれ、雑多な迷路のような市場の奥に並ぶ店の一つだった。若い女将さんが一人で切り盛りし、テーブルの隅で小さな女の子とその弟が絵を描いたり、あらゆる物を叩いては気ままな音楽を奏で遊んでいた。その雰囲気に惹かれ、初めて行った日から好んで通うようになった。前菜と一品料理にトルティーヤが添えられた日替わりセットは安く、それらは、とても美味しかった。通い慣れると子供達は私によく懐き、一緒に絵を描いたり、一度見せた安っぽい手品をやけに気に入り何度もせがまれたりした。そんな私に女将さんは、ある日、おかずを小皿で一品サービスしてくれるようになった。
 胃も気持ちも満たされ、穏やかな気持ちでホテルへ戻ると、ちょうどいつも、おばさん達はカラカラに乾いたシーツを取り込み畳んでいるところだった。スコールが降り出した時は大騒ぎで、とにかく大きな声を響かせよく笑った。ついでに畳んでくれていた私の洗濯物を受け取った後、シャワーで汗を流し、早速、陽をいっぱいに浴びたTシャツに袖を通す。そして、バルコニーに置かれた鉄のゆったりとした深い椅子に腰かけ、今日を去りゆくメキシコの陽が暮れるのをじっくりと眺めた。

 好むことだけを好き勝手並べた日常も、やがて終わりへ。クライマックスに訪れる男……
 夜空に潜んでいた雲を遠雷の閃光が暴き、遅れてやって来た雷鳴に耳を傾け、椅子に深く腰掛け私は詩を書く。遠くの建物の一室に開け放たれた窓、灯りの消えた部屋の中に映るテレビ、青白い光が移り変わりながら室内を照らす。
 時折、風に乗って甘い香りが辺りに漂い、いつも決まった同じ時刻に中年の背の低い男が音も無く現れる。皴一つない誇り高き白いシャツ、黒いスラックスのセンタープレスが歩くたびに上品に揺れ、手に持ったプラスチックの白いバケツで鉢植えの花々に水を与える。眠りについた赤子にそっと毛布を掛けるように。
 毎夜、彼とは軽い会釈を交わしつつ、私は詩作に耽り、彼は花に水をやり、それぞれの夜の時間を過ごした。ブーゲンビリア、バラ、ハイビスカス、彼の去った後に残された鉢の下から漏れる水は、排水口へと続く溝にチョロチョロと流れ込み、昼間の陽光に十分なほど熱せられた床の上の水の軌跡は、しばらくすると跡形もなく蒸発した。
 ソカロにある大聖堂の双塔の鐘が午後十時の鐘を鳴らし、一日が終わる。

 最後の夜、時間になっても彼は現れず、しばらくして昼間の受付の馴染みの若い女の子がバケツを両手で股の間に重そうに持ちながら、水をバシャバシャとこぼしながらやって来た。私は水を運ぶのを手伝うと、彼女はハキハキとお礼を言った。
 土に染み込んでゆく水、幕は下りる。彼の声を聴くことは一度もなかった。今夜も午後十時の鐘の音が街に響く。
 ちょうど一週間の公演だった。
 ある日の夜、見上げた夜空の下で、彼の花々に水をやる静かな水の音を想い、耳を慰める。
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