第二章 奪われた顔

文字数 3,397文字

    第二章 奪われた顔

 白い珈琲カップの内側にできた年輪のような染みは、陽の当たるカフェテラスの午前の時の中にあった。そして、何も手に付かず、私は狭い通りの向こう側にある不自然なものをずっと眺めている。
 黒い布を頭からすっぽりと被った人らしき得体の知れぬ何かが、開け放った扉の前の石段に、微動だにせず腰掛けているようだった。そして、顔があるであろう辺りも布で覆われ、光に満ちた陽溜まりの中、布の隙間から伸びる二本の枯れた枝のような手、それが、膝の上の辺りに転がっている。
 しばらく見ていても、まったく動きはなかった。誰も気付かないのか、気にも留めないのか、通行人も車の運転手も見向きもせずに通り過ぎる。その間に、少し陽が傾き、徐々に影は足元から腰の辺りへと這い上がってきた。影が黒い布と混じるように侵食する最中、あの枯れた手がゆっくりと懐の辺りを弄り、柄の付いた小さな金の鐘を取り出した。
 チリン、チリン…… 極めて細く高い音の余韻が消え去ると、暗い建物の奥から全身黒尽くめのタイトなTシャツとズボンをはいた薄い褐色の肌の青年が現れた。青年は黒い布をゆっくりそっと抱いて起こすと、背中の曲がったように見える黒い布の折れそうな枯れた手を引いて建物の中へと連れていった。陽の届かない扉の中の様子はあまりに暗く、こちらからは何も窺えなかった。
 あれはいったい何だったのか…… 煙草に火をつけ、適切な言葉を思案していると、先程の青年が静かに再び現れた。まな板のような木の看板を壁に掛けると、建物の奥へと消えた。煙は立ち上り消滅する、正午になろうとしていた。

 カフェを出た私は、奇妙な力で引き寄せられるように向かいの看板へ近づいた。そこには、スペイン語で「仮面」と書かれ、いくつかの小さなお面の画が装飾のように文字を囲んで彫られていた。あの黒い布が居た石段を上り、暗い建物の中へ。
 白昼に在った眼が暗闇に馴染むと、部屋の一番奥の光の手が届かない隅に、あの青年が低いカウンター越しに座っていた。音も無く、ひんやりとした室内を包む石壁には様々な鉱石が無造作に飾られ、それらは理科室の標本のようだった。身体を圧迫するほどの薄暗い静寂の中、鉱石を一つ一つ鑑賞していると、それらの硬質な物体は、地殻変動の長い時を経た、自らの生い立ちを凝縮した音の表情そのものだった。五感の欠落、宿る豊かな力は…… 眼に聴こえた。
 眼で鉱石の叫びを眺めている傍らで、青年の動く気配がした。そちらへ眼をやると、さらに奥の部屋へと続く扉を開け、私を手招きする青年の姿があった。先へと進む青年に、なぜか不気味さや不安を抱かなかった。そのしなやかな足取りは、教会の聖職者を思わせた。闇に浮遊する私を誘う……

 続く隣室は、ひときわ暗く、入口の脇で何かを擦るような、か細い音がシュッ…… シュッ…… 小さく闇を切り割いていた。私が部屋の中へ入ると同時に、音は切れたまま止んだ。距離が掴めない闇には新しい木の香りが漂っていた。頭上に微かな淡い光を感じ見上げると、低い天井に備え付けられた一つの電球のフィラメントが、じわじわと熱を帯びて輝き出した。
 秘儀の始まり…… 大地の目覚め…… 母親の胎内から飛び出した赤子が初めて見たこの世の光か……
 そして、あらゆる顔が私を見た。たくさんの仮面だった。大小様々な人の顔、動物や判別できない奇妙な何か、悪魔のような形相に、空虚な骸骨と物悲し気な表情、そして、優しく微笑む神の面影…… それらは石造りの壁一面、それほど大きくはない部屋に所狭しと掲げられていた。

 部屋の中央で私は独り立っていた。見回すように、ゆっくりと振り向くと、片隅で、あの黒い布がうずくまり、部屋の入口の側に立つ青年のその顔は、微笑むように映った。
 黒い布の手が動きだし、シュッ…… シュッ…… というあの音を再び聴いた。あの枯れた枝のような手が小さな仮面に紙やすりをかけていた。その周囲にはナイフや彫刻刀のような刃物が整然と並んでいる。青年は、入口の横に置かれた木の椅子に腰を掛けると、老人の作業を見守るように眺めた。
 明かされたこの状況をすぐに理解することなどできず、一通り部屋を見渡し、おもむろに仮面へと近づいてみる。全ての仮面は木地そのままに、一切着色はされていなかった。骸骨のように眼の辺りがぽっかりと空いたものもあれば、こちらを凝視する眼球が彫られたものもあった。牛のような動物には太い角が生え、猫のような動物の口は目尻まで裂け、今にも喰いつきそうな尖った牙が並んでいた。顎髭を蓄えた鼻の高い悪魔のような顔、大きな耳飾りの民族装飾をまとった顔、とぼけた寝起きのような顔、どの仮面も、色彩がないだけに無駄な表情をこちらへ寄こさず、木目に浮かぶ電球色のオレンジと黒い影のコントラストが顔の表面に潜んでいた。

 足早に立ち去ることもできたが、そのような気は全く起きなかった。むしろ、一つ一つの仮面を吟味し、どれか一枚、私のための仮面を選んでいた。百枚を優に超える仮面と対峙しながら、どれほどの間、眺めていたのかも分からなかった。
 全てを見終えたところで、私は青年に分かるように一枚の仮面の前で指を差した。青年は椅子から立ち上がると静かにこちらへやって来て、私の指差す仮面にそっと手を掛け壁から外した。
 売り物かどうかも分からず、もし買えるとしても値段が気掛かりだった。手作業で作られた一点ものの民芸品のような類であれば、それなりの値が付いて当然だった。青年は仮面の裏にぶら下がる値札をこちらへ見せた。そこには、安宿数泊分程度の金額が無造作に書かれていたので、そのまま支払った。

 選んだのは女性の仮面だった。もしかしたら女ではないのかもしれない……
 ただ、私には愛しい顔をした仮面に思えた。青年は黒い布の傍らに積まれた新聞紙を一枚取り出しバサリと広げた。久しく聴かなかった大きな音に怯むのも束の間、いとも簡単に宙で仮面を包み隠す所作は、手品のように巧みだった。そして、掌をかざすと、私に黒い布の前へと来るよう施した。
 青年が黒い布の側に屈むと、肩らしき辺りを何かの合図のように、ゆっくり三度軽く叩いた。黒い布はやすり掛け作業の手を止めると、じわじわと上体を起こし、枯れた手で頭の辺りを覆う黒い布を捲り上げた。白髪の老婆だった。
 髪を後ろに束ね、小さな顔には無数の皴が刻まれていた。彼女の瞳の中には黒目がなかった。
 老婆は布の裾で手の粉を払い落し、小刻みに震えながら両手を掲げると、青年は立ち上がり、私の肩に優しく手を掛け、床に沈み込ませるように屈ませた。懺悔をする人のような姿勢で跪く私のすぐ眼の前に老婆の震える手はあった。青年の手が、私の後頭部に触れ、そのままゆっくりと押し出すように、老婆の手の中に私の顔を差し出し、私は眼を閉じた…… 
 老婆の指が私の肌に触れると震えは止まり、軽い力で確かめるように、顔の輪郭や凹凸をなぞり始めた。高鳴る胸の鼓動がやけに大きく身体の内側から響いてきた。指先から香る木香、老婆の手は、滑らかで冷たく…… 閉じた瞼の先に明滅する緑色の光を見た、そこから、様々なイメージが高速で迫り、私の眼を突き抜けていった…… もしくは、私が高速で前方へと向かっているのか…… この浮遊する間隔のまま、私はどこへ向かうのだろうか……
 額から流れ落ちた一滴の汗が老婆の指を濡らし、老婆の手は動くのを止めた。ゆっくりと顔から離れていった。

 私は青年から仮面が包まれた新聞紙を受け取ると表へ向かった。
 外の変わらない街並が眼に眩しく押し寄せ、薄眼を開きながら石段を一歩ずつ下りる私は、明らかに不用心だった行動を戒めた。
 だが、私の顔を覆った、あの盲目の老婆の枯れた手が知るであろう質感、幾多の記憶やあらゆる感情、それらが今も鮮明に焼き付いているこの経験を否定できず、その先にあった掴めない幻影のようなものが、どうしても気掛かりだった…… 私は買った仮面の包みを急いで破いた。白日の下、現れた仮面は死んだような顔をしていた。いつの日か、私によく似た死に顔も、あの石壁に並ぶのだろうか……
 カフェの入口には時計があり、針は、まだ昼下がりを差していた。テラス席の私が座っていたテーブルには、まだカップが片付けられず残っていた。
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