第12話

文字数 2,631文字



  ふいに、アルコールとはちがった臭いが、かすかながら、ぼくの鼻をついた。
  セラミック⁇ そう、これはセラミックの焦げた臭いだ。でもぼくは、この臭いはあんまり好きじゃない。眉をひそめて、ぼくがそう心の中でつぶやいた、その次の瞬間――。 
 わ、わああ!!! 
 だしぬけに、悲鳴に似た叫び声――。 
 ド、ドン! 
 少し遅れて、床を叩く、鈍い音。
 あまりにも唐突に、そうした声と音とが、闇を切り裂いて、教室に轟いた。  
 肩がぴくんと跳ねて、思わず心臓がドキッとする。
 すんでのところで、ぼくは勝負を捨てて逃げ出すところだった。でもそれは、どうにかこうにか、とどまった。 
 と、とにかく、落ち着け。落ち着いて、状況に距離を置いて柔軟に眺めるんだ――そう、強く、ぼくは自分に命令すると、いま一度、懐中電灯をギュッと握り直した。
 恐る恐る、声のしたほうに、懐中電灯の灯りを向ける。 
 うん⁈ ユウジ? ど、どうした⁇ 
 見ると、顔面蒼白になったユウジが、だらしなく、床に尻餅をついているのが目に入った。 それも、よく見れば、人差し指をブルブルと震わせながら、あれ、あれ、という感じで、宙空に向かって指を差している。 
 え⁈ な、なに? ま、まさか、そこに、おぞましい何者かが、いるとでもいうの。
 ははは……半笑いで、懐中電灯の灯りをそこにあてようと試みた。 けれど、腕に力がうまく伝わらない。 
 や、やっぱ、もう、ムリ。とてもじゃないが、我慢の限界……。 息が苦しい。悪寒も走る。勝負なんてもう、どうでもいい。いますぐにでもわが家に戻って、ただひたすら眠りたい……。 
 い、いや、ダメだ! ダメだ!!! 
 けれどすぐにぼくは思い直す。イサムにだけは、なにがなんでも負けたくない――そういう思いが、ぼくの弱気の虫を退治しようとする。
 灯りだ。灯りを、あてるんだ。 
 弱気の虫を払拭したぼくは自分にそう強く命令して、懐中電灯の灯りを、えいっ! とそこにあてる。 
 ヒ、ヒエッ!!!!! 
 一目そこを見るなり、思わずぼくはうなって、二三歩後ずざってしまう。 その上、ユウジ同様、情けなくも、その場に尻餅をついてしまった。 
 もちろん、イサムが、この騒動を聞きつけないわけがない。 
「なんだ、なんだ……おい、カツユキ、どうした?」 
 漆黒の闇の中、イサムが手にした懐中電灯の灯りが、チラチラとぼくを照らす。 
 たぶんぼくは、顔面蒼白になって、唇をぶるぶる震わせているのだろう。 
「あれあれ、カツユキくん、腰抜かしちゃったのかい」 
 え……ああ。
 わずかながら、ぼくは自分を取り戻す。けれど、腰が抜けて、その場から立ち上がることができない。おまけに、声までも……。   
 決定的にせっかちなイサムは言葉を失っているぼくから、あっさり、灯りの宛先をユウジに移した。 
 静寂な気配の中、イサムの声だけがぼくの耳にふれる。 
「うん⁈ ユウジ。その指先に、何者かがいるとでもいうのか。よし、どれどれ……」 
 一瞬、居心地のわるい沈黙。
「あはははは」 
 わずかな間のあとで、イサムが沈黙を破って、さも可笑しそうに笑った。 
 え⁈ な、なにが、そんなにおかしいんだよ? 
 けげんそうば顔で、ぼくは、小首をかしげた。 
 
 

「おい、カツユキ。よく見てみろよ」 
 イサムはそう言うと、また、あはは、と愉快そうに笑った。 
 やがて、やっとのことで、ぼくは意識と気力を取り戻す。 
 そこでぼくは、イサムが照らしている灯りのほうに、やおら目をやる。 
 な、なんだ、ちくしょうめ……。 
 一瞬、ムッとした。がすぐに、腹立たしさは薄れて気恥ずかしさになり、やがて、それは情けなさに変わった。 
 そんな感情のにじんだ息をついて、ぼくは、ゆっくり、立ち上がる。それから、ユウジのほうに歩み寄る。 
 ふだんは、生真面目で、優しくて、宿題の答えを教えてくれときは、本当に頼りになる。でもこういうときには、からっきし、頼りにならない。 
 ユウジ――優士。
 ユウジは名前の通り、優しい男だ。だれかさんとちがって……。 
 おそらく、くしゃみはしてないだろう。だって、あしたの試合にそなえて、いまは、大きなイビキをかきながら爆睡しているはずだから……うちの姉ちゃんは。 
「ユウジ、大丈夫か? もう怖がらなくていいよ。ほら、だって」 
 そう言って、ぼくは、さっきまで二人が怖がっていた何者かに、指を差す。 
「ああ……なんだ、バカみたい」 
 ユウジはわれに返ると、さもくやしそうにつぶやいた。
「ガイコツの模型とはね……」 
 真っ暗な闇の中、二人は顔を見合わせて、クスッと笑う。 
「へん、これで、勝負ありだな、カツユキ」 
 イサムはそう言うと、また、あはは、とあけすけに笑った。
 そのとたん――。 
 コン、ガラン! わああ!!! ドテ! 
 いきなり、そうした一連の響きが、窓際のほうで轟いた。  
 うひゃ!!! 
 追いかけて、そういう悲鳴も。 
 な、なに? 
 ぼくとユウジは、頬をこわばらせて、顔を見合わせる。 
 それからぼくたちは窓際に、こわごわ、懐中電灯の灯りをあてる。 
 あれ、ライト。ライトが尻餅をついている。灯りをずらす。
 あらら、イサムまでもが尻餅を――。つまり、さっきの悲鳴は、イサムのものということになる。 
「び、びっくりするじゃないかよ、ライト。いったい、どうしたっていうんだよ」
「う、うん……な、何かが、足に……あっ、なんだ、これ、ゴミ箱じゃないかぁ」 
「ば、ばっきゃろう! 気をつけて歩けよな。あげなくてもいい声をあげちゃったじゃないかよ、まったくう」
「ご、ごめん……」 
 それでなくても、弱々しい声。それを、いっそう弱々しくして、ライトが、イサムに謝る。 
 にしても……とぼくは内心苦笑を洩らす。
 墨で塗りつぶしたような真っ暗な空間の理科室。
 その中を、気をつけて歩けって言うのは、どうなのよ、そう思って。
 そんなふうに、冗談のひとつでも口にできるようになると、俄然やる気が出てくる。そこでぼくは、イサムに意趣返しをしてやる。
「ざまあないね、イサムくん。これで、おあいこってところだね、ふふふ」
  真っ暗な闇の中、イサムの舌打ちと、くやしそうな歯ぎしりとが、やたら大きく耳にふれる。
 イサムのやつ、よっぽどくやしかったみたいだな。 
 そう思ったら、ぼくは「あはは」と、声を出して笑っていた。
 
 
つづく
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