第15話

文字数 2,357文字


 その翌日――。 
「ごちそうさま……プールに行ってくる」
 そう言うが早いか、ぼくはもう、「いってきまーす」と玄関のドアに、背中を押しつけていた。 
 家を出た瞬間、ぼくはいつも、気分が弾む。弾むのはもちろん、窒息しかかった自由を取り戻せるからだ。 母さんのくびきからの……。
 でも今日のぼくは、ちがう。
 ほら、だってゆうべ、シュールな体験をしたばかりじゃない。
 それだけに、きょうは、あまり気分が弾まない。いや、むしろ、沈みがち。 
 それでも、ぼくは母さんのくびきから逃れたくて、いつものように、玄関のドアに背中を押しつけていた。 
 あまりにも唐突に、イサムはゆうべ、悲鳴に似た叫び声をあげると、たちまち理科室から消え去っていた。
 そこに取り残されたぼくたち三人は、そのあと、真っ赤なラジオのほうへ、おずおずと歩み寄った。 
 ゆうべ、イサムは、テープがなんとかかんとか言っていた。ラジオに歩み寄ったぼくは、ああ、なるほどね、とすぐに合点がいった。 
 そこにあったのは、祖父ちゃんの部屋で見たことのある、カセットデッキ。昭和の時代に流行ったレトロな代物だ。
 といって、これは近ごろ、ふたたび、注目を集めているらしい。 
 なにしろ、カセットテープに録音できるのにくわえ、それを再生することもできるし、おまけに、ラジオまで聞ける。これは、そういう優れものだ。 
「た・す・け・て・く・だ・さ・い……」 
 たしかに、そこにたどり着くと、カセットデッキから、そんな声が再生されていた。 
「ね、ぼくの言った通りでしょ」 
 そう言って、ライトが胸を張って見せる。けれどすぐにライトは、いつものように、はにかんでしまった。 
 ただ、いつものライトなら、胸を張って見せることさえありえない。めずらしく、ゆうべのライトは貧弱な胸を誇らしげに張っていたのだ。 
 そんなライトを見て、ぼくはふと、思った。 
 母さんのくびきから逃れたぼくが心を弾ませるように、ライトもイサムのくびきから逃れられたら、もっと心が弾むんだろうな、というふうに。 
 
 
 カセットデッキが再生している内容は、たしかに、ライトがイサムに伝えていた通りだった。 
 もっとも、ライトの口から聞くのと、実際に耳にするのでは、かなりの差があった。 
「た・す・け・て・く・だ・さ・い……」 
 なんともいえず切なく、途切れ途切れに耳にふれる少女のか細い声。 
 それを耳にしたぼくはふと、既視感を覚えた。
 それは、あるアニメの一場面。地獄に堕ちた餓鬼が切なく喘(あえ)ぎながら、助けを求めているおどろおどろしい声。
 なんとなく、それに聞こえたのだ。
 もしかして、イサムはこの声に怖気をふるってしまった?
 それで、あんなふうに大袈裟に驚いて、理科室から姿を消した? 
 とはいえ、なんのことはない、あれはテープに録音された声だった。正体を知ってしまえば、怖くもなんともない。
 カセットデッキからテープを取り出すと、まったく声は聞こえなかったのだから。
 いくらなんでも、だからあれはおぞましい『何者か』の声ではない……。 
 そうだとすれば、たぶんあれは、だれかがみんなを驚かそうとして、仕掛けたものだろう。
 ちょっと笑っちゃうけど、イサムは、それにまんまと騙されたのだ。
 イサム同様に、それを聞いただれかが、おぞましい『何者か』と勘違いして、あんな噂を流したといわけだ――。 
「ねえ、ユウジ、そういうことだろう」 
 一緒に泳ぎにきていたユウジに、クラスで一番かしこいユウジに、ぼくは、そう尋ねる。 
「うん、まあ、そんなところだろだろうね……いくつか疑問があることはあるけど……」 
 落ち着いた口調で、ユウジが相槌を打つ。なんといっても、ユウジはこういうときには頼りになる。 
「疑問があるって、どんな?」 
「うん、まずは、ゆうべかっちゃんも言ってたけれど、学校って、その警備を民間の警備会社に委託してるよね」 
「うん、そうなんだ」 
 ぼくは大きくうなずいて、こうつづける。 
「なのに、ゆうべは正面玄関の鍵がかかってなかった。だからこれっておかしくないかいって、ぼくは、イサムに訊いたんだ」  
 そう言って、ぼくは何気に、ユウジに目をくれる。 
 うん⁈  
 ユウジが、ぼくに仔細ありげな眼差しを向けている。 
 なにか訳があるってこと? 
 そうぼくは思って、小首をかしげる。
 実はこれ、ふだんからよくあることなのだ。なので、阿吽の呼吸で、ぼくはユウジの意図が理解できる。
 しばらく考えて、思わずぼくは「あ!」と声を上げた。 
 そう、どう考えたって、疑問が残るじゃないか。
  たとえば、こうして、昼間、プールにきたとき、校舎の中に入ろうと思えば、簡単に入ることができる。だから、理科室の前をたまたま通った人が、あのテープを聴いたということがあったかもしれない。 
 でも昼間に聞いたとしたら、事件になる。
 ほら、だって、「た・す・け・て・く・だ・さ・い……」 っていうのを聞いたとしたなら、直接助けるか、もしくは、警察に通報してしまうからだ。
 なので、夜に耳にした人が、勘違いしたということになる。
 ところが、夜は警備会社がちゃんと管理しているので、中に入るのはムリだ。
 よしんば、入れたとしても、ゆうべのぼくたちのような、レアなケースだけだろう。となれば、夜半にあのテープを聴くことはできないということになる。
 それにもかかわらず……。 
 そういうことだよね、とぼくはユウジに目で訊く。 
「うん、そうなんだ。じゃ、いったい、夜半に、だれがあれを聴いたんだろうって、疑問が残るんだよ……」 
「たしかに」
 うなずいて、いったい、どういうことなんだろう、とぼくが首をかしげた、その次の瞬間――。 


つづく
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