第2話
文字数 2,136文字
外に出ると、八月の明るい光がアスファルトに白く反射して、陽炎のようにたゆたいにゆれていた。
ふと、隣家のガレージに目をやる。見ると、真っ赤なポルシェ。
ここは、赤色を好む画家としてつとに有名な、町村安里画伯の自宅だ。
もっとも、ぼくは隣家の住民ながら、いままで、彼の作品を一枚しか見たことがない。
その一枚とは、ティッシュケースくらいの大きさの真っ赤な箱が、黒いテーブルのその広い天板の上にたったひとつぽつんと置かれているという、なんともシュールな作品。
不謹慎ながら、ぼくには、この作品の良さがちっともわからない。ぼくは彼の作品を、だから一度見てからというもの、ふたたび目にしたいという欲求がさっぱり湧かない。
愛用のポルシェがガレージにあるということは、たぶん画伯はきょう、自宅で過ごしているのだろう。
そんなことを考えながら、ぼくは、学校に向かって刻み足でいそがしく歩く。するとそのうち、遠くに、小学生のオアシス駄菓子屋がぼんやりと見えてくる。
ただ、ぼくはこの駄菓子屋の近くにくると、ひどく気が滅入っていた。
滅入っていた――過去形ということは、いまはちがう、ってことだ。
そう、気にしなければいいんだ。どうせ、幽霊なんて、幽霊の正体見たり枯れ尾花――にすぎないんだから。
このことばを知って以来、ぼくは気が滅入ることはなくなった。たぶん……。
やがて、店頭に通りかかる。いつものように、悪ガキども、もとい、同年代の少年少女らがうごめくようにしてたむろしている。
いまでこそ、こうして、繁盛しているこの店だが、ほんの一年前までは、むしろ閑古鳥が鳴いていた。
もっとも、昨こんでは、この店にかぎったことではないらしい。
昔、どの街角にもあたりまえに見られた駄菓子屋も、このところ、大きく減少しているという。
要因として、コンビニエンスストアの台頭や遊びが多様化したことにくわえ、消費税の影響も大きいと、先日、父さんが教えてくれた。
「たとえメーカー側が値上げしても、ふだんから子どもたちに寄り添っている駄菓子屋さんとしては、おいそれと値上げできない。結局、つらい思いをするのはいつも、弱い立場の者なんだ」
父さんはそう言うと、力なく首を振ってため息をついていた。
その例に洩れず、この店も、昨年のいまごろは青色吐息だったのだ。そこにもってきて、とどめを刺すような事件が、さらに起きた。
「何でも、あの駄菓子屋さんの二階の角部屋。あそこ、夜な夜な幽霊が出るそうよ」
そのような噂が、にわかに人の口の端にのぼったのだ。
これはのちに知る。その昔、この屋敷で暮らしていたある一家の娘さんが、二階の角部屋で首を吊るという、とても切ない事件が起きた、ということを。
「自殺した娘さんってさ、町村画伯の大ファンだったそうよ。なんでも首を吊ったロープが赤色だったともっぱら噂よ」
その噂を耳にしてからだった。この店の近くを通るたびに、ぼくが、ひどく気が滅入ってしまうようになったのは――。
しばらく空き家になっていたこの屋敷を、五年前に、いまの駄菓子屋が購入した。
この屋敷が事故物件だったというのを、いまの駄菓子屋が知らなかったはずがない。
が、それにもかかわらず、購入したのだ。
なぜ?
という疑問がぼくの胸でくすぶっていたものだ。
いずれにせよ、その噂のせいで、この店はみんなの間で、こう囁かれていた。
「とうとう、あの駄菓子屋さんも店じまいの憂き目を見るのかねえ」
こうして、一時はどうなるかと思われた、この駄菓子屋だった。それが、今ではどうよ。むしろ、以前より繫盛しているではないか。
これには、さしもの楽天家を誇る母さんでさえ、「あしたの天気だって当たんないんだもの……ちょっと先の未来なんて当たりっこないわね」と言って、浮かない眉をひそめていた。
苦笑交じりに、それを聞いていた父さんが「とかく、人の心の中はいろんな感情がいそがしいもんさ」と言って、こうつづけた。
「その感情のひとつに、怖いもの見たさってのがある。ある日突然、シュールな事件が起きたりすると、無意識のうちに、その感情が人を突き動かすんだ」
そうするとどうなるか――それを、父さんが母さんに、得々と語る。
面白そうだから、ぼくも、傍らで耳をかたむける。
「この店でいえば、その感情に突き動かされた近隣の人たちが、店に、顔を覗かせる。要は、怖いもの見たさでな。そうすると、訪れたついでに衝動買いで駄菓子のひとつでも買っていく。その結果として、あの駄菓子屋は大復活を遂げたっていうわけだ」
「へえ」
「ふーん」
たぶんぼくと母さんは、いや、少なくともぼくは、よくわかってもいないのに、さもわかったようにうなずいていた。
それを観た父さんが満足そうになおも、つづける。ただ、その声はなぜか、ささやくような低いものではあったのだけれど……。
「幽霊の噂を奇貨にして復活を成したのか、それとも、店があんな噂を故意に流したから、そうなったのか。まあ、真相は藪の中だけどな……」
それを聞いたぼくは一瞬首をかしげ、すばやく、スマホを手にした。
えーと、きかにして?
ふーん、なるほど、そういう意味ね。
つづく
ふと、隣家のガレージに目をやる。見ると、真っ赤なポルシェ。
ここは、赤色を好む画家としてつとに有名な、町村安里画伯の自宅だ。
もっとも、ぼくは隣家の住民ながら、いままで、彼の作品を一枚しか見たことがない。
その一枚とは、ティッシュケースくらいの大きさの真っ赤な箱が、黒いテーブルのその広い天板の上にたったひとつぽつんと置かれているという、なんともシュールな作品。
不謹慎ながら、ぼくには、この作品の良さがちっともわからない。ぼくは彼の作品を、だから一度見てからというもの、ふたたび目にしたいという欲求がさっぱり湧かない。
愛用のポルシェがガレージにあるということは、たぶん画伯はきょう、自宅で過ごしているのだろう。
そんなことを考えながら、ぼくは、学校に向かって刻み足でいそがしく歩く。するとそのうち、遠くに、小学生のオアシス駄菓子屋がぼんやりと見えてくる。
ただ、ぼくはこの駄菓子屋の近くにくると、ひどく気が滅入っていた。
滅入っていた――過去形ということは、いまはちがう、ってことだ。
そう、気にしなければいいんだ。どうせ、幽霊なんて、幽霊の正体見たり枯れ尾花――にすぎないんだから。
このことばを知って以来、ぼくは気が滅入ることはなくなった。たぶん……。
やがて、店頭に通りかかる。いつものように、悪ガキども、もとい、同年代の少年少女らがうごめくようにしてたむろしている。
いまでこそ、こうして、繁盛しているこの店だが、ほんの一年前までは、むしろ閑古鳥が鳴いていた。
もっとも、昨こんでは、この店にかぎったことではないらしい。
昔、どの街角にもあたりまえに見られた駄菓子屋も、このところ、大きく減少しているという。
要因として、コンビニエンスストアの台頭や遊びが多様化したことにくわえ、消費税の影響も大きいと、先日、父さんが教えてくれた。
「たとえメーカー側が値上げしても、ふだんから子どもたちに寄り添っている駄菓子屋さんとしては、おいそれと値上げできない。結局、つらい思いをするのはいつも、弱い立場の者なんだ」
父さんはそう言うと、力なく首を振ってため息をついていた。
その例に洩れず、この店も、昨年のいまごろは青色吐息だったのだ。そこにもってきて、とどめを刺すような事件が、さらに起きた。
「何でも、あの駄菓子屋さんの二階の角部屋。あそこ、夜な夜な幽霊が出るそうよ」
そのような噂が、にわかに人の口の端にのぼったのだ。
これはのちに知る。その昔、この屋敷で暮らしていたある一家の娘さんが、二階の角部屋で首を吊るという、とても切ない事件が起きた、ということを。
「自殺した娘さんってさ、町村画伯の大ファンだったそうよ。なんでも首を吊ったロープが赤色だったともっぱら噂よ」
その噂を耳にしてからだった。この店の近くを通るたびに、ぼくが、ひどく気が滅入ってしまうようになったのは――。
しばらく空き家になっていたこの屋敷を、五年前に、いまの駄菓子屋が購入した。
この屋敷が事故物件だったというのを、いまの駄菓子屋が知らなかったはずがない。
が、それにもかかわらず、購入したのだ。
なぜ?
という疑問がぼくの胸でくすぶっていたものだ。
いずれにせよ、その噂のせいで、この店はみんなの間で、こう囁かれていた。
「とうとう、あの駄菓子屋さんも店じまいの憂き目を見るのかねえ」
こうして、一時はどうなるかと思われた、この駄菓子屋だった。それが、今ではどうよ。むしろ、以前より繫盛しているではないか。
これには、さしもの楽天家を誇る母さんでさえ、「あしたの天気だって当たんないんだもの……ちょっと先の未来なんて当たりっこないわね」と言って、浮かない眉をひそめていた。
苦笑交じりに、それを聞いていた父さんが「とかく、人の心の中はいろんな感情がいそがしいもんさ」と言って、こうつづけた。
「その感情のひとつに、怖いもの見たさってのがある。ある日突然、シュールな事件が起きたりすると、無意識のうちに、その感情が人を突き動かすんだ」
そうするとどうなるか――それを、父さんが母さんに、得々と語る。
面白そうだから、ぼくも、傍らで耳をかたむける。
「この店でいえば、その感情に突き動かされた近隣の人たちが、店に、顔を覗かせる。要は、怖いもの見たさでな。そうすると、訪れたついでに衝動買いで駄菓子のひとつでも買っていく。その結果として、あの駄菓子屋は大復活を遂げたっていうわけだ」
「へえ」
「ふーん」
たぶんぼくと母さんは、いや、少なくともぼくは、よくわかってもいないのに、さもわかったようにうなずいていた。
それを観た父さんが満足そうになおも、つづける。ただ、その声はなぜか、ささやくような低いものではあったのだけれど……。
「幽霊の噂を奇貨にして復活を成したのか、それとも、店があんな噂を故意に流したから、そうなったのか。まあ、真相は藪の中だけどな……」
それを聞いたぼくは一瞬首をかしげ、すばやく、スマホを手にした。
えーと、きかにして?
ふーん、なるほど、そういう意味ね。
つづく