第4話
文字数 2,367文字
この界隈でぼくは、みんなに、「松田さん」と呼ばれている。
男子も女子も、あるいは上級生も下級生も、のみなみならず先生も用務員さんもこぞって、ぼくのことを、みんな「松田さん」と、さんづけで呼ぶ。
中には、母さんのように「カッちゃん」と呼ぶ人もいるにはいる。それでもけれど、そういうふうに呼ぶ人は、せいぜい四五人程度の、とりわけ親しい間柄の人だけだ。
もちろん、例外は何人かいる。が、それ以外の人はたいていぼくのことを、「松田さん」と「さん」づけで呼んでいる。
それって、あれじゃない――こんな声が、どこからか聞こえてきそうだ。
残念ながら、それは的を射ていない。そもそもうちの学校に、そのような校則などないからだ。
それに、つい二三年前まで――つまり、小学三四年生ぐらいまで、ぼくは、そういうふうに呼ばれていなかった。
では、どのように呼ばれていたかというと、だいたい、こんな感じ。
たとえば、女子なら「松田くん」と「くん」づけで呼んでいたし、男子なら、タケシのように「おい、カツユキ」と無愛想に呼ぶ者もいれば、それ以外の男子なら、ごくふつうに「松田」と呼び捨てだった。
また、上級生、なかんずくガラの悪い先輩たちからは、ドスの利いた低い声で「おい、カツ」と、恫喝まがいに呼ばれてもいた。
決定的にぼくは負けず嫌い。だから、たとえそう呼ばれたとしても、表面上は臆した容子などおくびにもださない。
でも内面はとても、ビビり。だから、そう呼ばれるたびに、肩がピクンと跳ねあがり、心臓がドキッ、となってはいたのだが……。
それからまた、下級生の中には、それほど親しくもないのに「まっちゃん」となれなれしく呼ぶ者もいた。
もしも、そういう彼らに、強面の先輩たちと同様に「おい、カツ」と呼ばれたら、どうしよう―ービビりながら、涙目で滲んだ星空を見上げる、ぼくには、そんな夜がある。
がしかし、彼らのほとんどことごとくが、手の平を返したように、ぼくのことを「松田さん」と、さんづで呼ぶようになった。
いったい、どうして? という疑問が、当然湧いてくる。
もちろん、理由がある。
ぼくには二つ年上の、姉ちゃんがいる。
ぼくはいま、小学六年生。だから、あたりまえのように、足し算すれば、姉ちゃんは中学二年生といことになる。
名前を、“やさしいこ”と書いて、
「ここは重要なポイントだ。だから、かならずテストに出る。なので、しっかり覚えとくように」
ちなみに、学校の先生なら、しかつめらしい顔で、そう宣うところだ。
それはさておき、ぼくん家はいわゆる二世帯住宅で、二階に、
ぼくはある日、二階で、祖父ちゃんと一緒に、テレビを見ていた。祖父ちゃんとぼくはなぜか、馬が合う。
画面に流れていたのは、全日本柔道選手権大会。試合は、淡々と、進み、あっという間に、決勝戦。
「さあ、いよいよ、日本一が決定します。対戦するのは、太田まさる選手と
テレビのアナウンサーが、それぞれの選手を紹介する。
見ると、太田という人はとても、図体がデカい。一方で、小山という人は、かなり小柄で、おまけに細身だ。二人の体格差は歴然である。
「これ、ちょっと不公平じゃない」
そう言って、ぼくは、祖父ちゃんに不平を洩らした。
けれど、祖父ちゃんは「いやいや」と首を振って、こう言うのだった。
「この体格差を見れば、カツユキがそう思うのも無理はない。でもな、いろんな大会がある中で、この全日本柔道選手権大会だけは特別なんだ」
「特別?」
「ああ、そうだ。この大会は無差別級なんだ。ま、いわば、真の日本一を決める大会というヤツかな。だから、こういう対戦になることが、間々、ある。が、それも、この大会の醍醐味のひとつなんだ」
ふーん、そうなんだ。よし、なら、ぼくは小山選手を応援しよう。がんばれ、小山選手。
画面にじっと目を凝らして、ぼくは内心小山選手にエールを送る。
「はじめ!」
主審の合図ともに、いよいよ、試合の開始。
試合はけれど、お互い決め手のないまま漫然と進み、泣いても笑っても一発勝負で雌雄を決する、ゴールデンスコアへともつれ込んだ。
手に汗を握りながら、固唾を飲んで見ていると、ほどなく、小山選手が太田選手のデカい図体を、強引に、背中にかついだ。
「お! 背負い投げだ」
祖父ちゃんが身を乗り出すようにして、声をあげた。
投げが、放たれた。
一瞬、場内に、なんともいえない沈黙が降りる。
「一本! それまで」
その沈黙を破って、場内に、主審の雄叫びが轟いた。わずかな間のあとで、やんややんや、とわれんばかりの歓声と拍手の嵐。
「小山選手が太田選手を豪快な投げ技で破り、見事、日本一の栄冠に輝きました。柔よく剛を制す、これぞまさに柔道の真髄です!」
アナウンサーが感極まったように声を張り上げて、一気に、まくしたてた。
やったー、よかったね、小山選手。
控えめにガッツポーズして、ぼくは内心小山選手に祝福を贈る。
「いやあ、それにしても、実に豪快な背負い投げ。名は体を表す、とはいみじくも言ったもんだな」
そう言って、祖父ちゃんはいかにも感心したように、小さな目をめいいっぱい見開いた。
小柄な“
なるほどね、それで、名は体を表す、か。そのときぼくは初めて、このことばを知った。
しかもそれと同時に、うん⁈ と違和感を覚えてもた。
それって、矛盾じゃないの?
少なくともぼくには、そう思えたからだ。
つづく