第1話ースーパーのバイトー

文字数 1,158文字

スーパーのバイトに思い入れなどない。
久松は自転車のペダルをこぐのを止めて坂を下る。
見慣れたグレーのアルミ扉を押すと、そこにはちょうどマネージャーの山本がいた。
「お疲れさまです」
声をかけると、山本は挨拶をかえしてくれたが、まったく心がこもってないお手本のような声だった。
おそらく好かれていないことはわかるが、何か特別なことをした覚えがない山本はそそくさと更衣室へ向かった。
制服の上着を羽織り、仕事道具の軍手とボールペンをポケットに入れて、扉を開けた。
大きな音で音楽が鳴っている中、虚空に向かってお辞儀をして店内を進む。
先に商品を並べているパートの尾崎に声をかけ、仕事を引き継ぐと、尾崎はほかのパート仲間と今日の特売品について情報交換をして歩いて行った。
久松は、漏れ出た声が思いのほか大きく驚いた。慌てて周りを伺うが誰もいない。
胸をなでおろすと、商品を手に取って並べだした。

いくつか並べたあと、冷凍食品とアイスクリームを取りに冷凍倉庫へ向かう。
冷凍倉庫に入るには、自分以外の誰かに声をかける必要があり、また社員などが決まった時間に点検にやってくる。久松にとって、パートの尾崎には声をかけやすいが、山本に声をかけるのはなんとか控えたいと思っていた。
夏の暑い時期にはいるのは好きだし、おまけに今日はここに来る前に自転車を漕いで汗をかいていたので涼みたい。しかし、山本に声をかけるのが憂鬱だし、声をかけないという不真面目な行為をできるほど久松はルールを破れるわけではない。
さっと声をかけるだけ。それだけがどうしてもできない。なんとか山本が別店舗に行くか、休憩に行くまで、と思って別の商品を並べていたが、とうとう冷凍食品とアイスクリームを並べる仕事しか残っていない。
いやいやながらも山本を探して店内を歩いていると、結局一番最初にのぞいた事務所に山本はいた。
自分の運のなさを少し恨みながら冷凍庫へ行くことを告げると、相変わらず心のこもっていないお手本の声で返事をする。そうか、こういう声に傷ついているんだと感じるほどの自己認識が持てない程度に、久松は自分に自信がなかった。

冷凍庫の中で数度呼吸をするだけで、体の中が冷えていくのがわかる。手早く荷物を台車に乗せて冷凍庫から出て、台車を押す。
古い台車は、自然と右側に向かっていってしまうので、少し力を加減しながらまっすぐになるように押していく。
バックヤードの暗い廊下を大きな音を立てて台車を押していくと、夜の時間帯のバイトたちがぞろぞろとタイムカードの前に列を作っていた。
小さな声であいさつをすると、小さな声であいさつがかえってくる。気の強そうで自分とは縁の遠そうな男子大学生の前を横切るとき、少し息を止めて小走りで駆け抜ける。
後ろで笑い声が聞こえてきて、胸のあたりがざわざわとした。
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