第9話

文字数 6,559文字

「いや、あんたオスじゃん」
 ぶーん、と荒々しい音を立てながら、並行飛行するトンにハチミは鋭いツッコミを入れた。トンは「ああ」と短く答えた。
「トンボに話しかけるって……そいつヤバくない?」
「ああ」
「昆虫食も考えてるんでしょ?」
「ああ」
「それ、あんたに話すなんて無神経すぎない?」
「人間なんてそんなもんだ」
 憤怒の炎を瞳に宿したハチミは、急速にスピードを上げた。「きゃーーーーーー!」と絶叫したのは、ハチミではなくハチミにぶらさがっているサトウだった。唐突にGがかかり、振りおとされそうになるのを、サトウは必死で耐えた。
「ハチミちゃん! やめて! 速い速すぎる!」
「あ、そっか。あんたいたんだっけ。うるさいなあ」
「そっちが勝手に連れてきたんだろおおおお!」
 人間に飼われている。トンの衝撃的な告白を受けて、動じなかったのはウメばあさんだけだった。ざわつく若者たちに「落ちつくでの」と冷静にたしなめた。誰一人聞いてはいなかったが。トンはウメばあさんにだけは事情をすべて伝えていたようだった。
 詳細な説明もないままに「なんとかする」とだけ宣言して、トンは旅立とうとした。動揺が残る一同の中、待ったをかけたのはハチミだった。
「あんたのこと、私はそこまで信用してない。どうするつもりなのか監視させてもらう」
 トンはハチミを一瞥しただけでなにも言わなかった。好きにしろ、ということだろう。人間も見惚れたという羽をぴん、と張りつめる。
「サトウ、あんたも来なさいよ」
 まさかの名指しを受けて、サトウは声も出ぬほど驚いた。沈黙をイエスと受けとったハチミは「行くわよ」とトンの背中を追う。サトウはあわてて抗議する。
「え、ちょ、ちょっと待って。なんで僕?」
「昆虫食のことで騒ぎだしたのはあんたでしょ。けじめつけなさいよ」
「いや、僕はテレビ観ただけで……」
「ハチミちゃん。私、一緒に行くよ」
「チズコは危ないからだめ」
 のそのそと申し出るチズコを、ハチミは優しさをもってすっぱりと切りすてた。その愛情を十分の一でいいから、どうして自分にも向けてくれないのか、とサトウはふてくされた。
「でも、僕飛べないんだけど……」
「使えないわね」
 これがチズコ相手なら「仕方ないわね」に置きかわるのだろうか。不平等だ。サトウはますますへそを曲げた。曲げているあいだに強引に手を引かれ、背中を押され、気づいたら後ろから抱えられ、宙を浮いていた。常日頃地面を這っている自分が、地面から手足を離している。
「きゃーーーーーー!」
 アトラクションさながら、サトウは興奮と感動が入りまじったまま、気づいたら同行するはめになっていた。サトウの体が軽いことも、ハチミに選ばれた要因だったかもしれない。
 ぐんぐん上昇し、下で「気をつけて」と見送るチズコとナツバが小さな点になっていく。ウメばあさんもじっとこちらを見上げていた。
 ばたついていたサトウだったが、初めての光景にやがて恐怖よりも好奇心が勝った。かつての冒険心が少しだけよみがえったのかもしれない。
 サトウは興奮とともに手を振ってみせた。下にいる仲間たちからは、じたばたもがいているようにしか見えなかったかもしれないが。
 上から見るだけで、いつもの場所も別世界だ。あんなに大きかった石ころはちっぽけで、根元が土まみれだった草は青々としている。背の高い花がいくつも咲いている。誰かの巣が散らばっている。少し道をそれれば水たまりが待っている。何個も何個も新しい発見があり、サトウは喜びに胸が高鳴った。空を飛ぶという行為が、こんなにすばらしいものだなんて。
 そんな初めての魔法が解けたのは、皆の姿が完全に見えなくなり、森を抜けさらに上昇し、町へと繰りだしてからだった。未開の土地。人間の気配。文化の音。引きこもりのサトウには、すべての刺激が強すぎた。
 なにより普通に空を飛んでいるが、これは自身の力ではない。ハチミが少しでも手をゆるめれば、たちまち自分は落下してお陀仏だということをようやく理解したのだ。ハチミに気がつかれぬよう、サトウは両手にぐっと力をこめた。落ちるのはもちろん、ハチミにとがめられるのも嫌だ。二重の恐怖の板挟みになりながら、サトウはじっと息を殺した。
 それからハチミとトンが会話を交わすのを黙って聞いていたのだが、突然の猛スピードに弾けるように悲鳴を上げたというわけだ。人間が遊園地で絶叫マシンに乗っているのをよくテレビで観るが、あれに近い体験なのかもしれない。信じられない。こんな恐怖を楽しむなんて、正気の沙汰じゃない。サトウは魂が抜けたようにぐったりとしながら、人間との交渉を早くもあきらめかけていた。
「ちょっと、あんた寝てんじゃないわよ」
 こちらの心情など歯牙にもかけないハチミは、無神経にサトウの体を宙で揺らした。「ひいっひいっ」とサトウは半泣き状態になる。今、寝たらもう起きられないだろ、と心の中だけで言いかえした。
「あそこだ」
 トンが先導する。道案内をしているから当たり前なのだが、ハチミはそれすら気に入らないらしく「ふん」とスピードを上げ、肩を並べようとする。その乱暴なギア転換に、サトウはまたしても寿命の縮む思いだった。
 まばらに住居が散らばっていた。その代わり、こぢんまりとした田畑はいくつも続いている。腰の曲がった老婆や、歯の抜けた老爺が仕事や家事に勤しんでいる。子どもはまだ学校にいる時間なのだろうか。姿が見当たらない。それはサトウにとっては、ありがたいことだった。子どもほど謎めいた脅威はない。
 テレビの中で観る、華やかな世界とはまるで違っていた。もっとにぎやかで、チカチカと光輝いていて、人がごったがえすというイメージは見事に覆された。町はとても閑散としていて、良く言えばのどかだが、どこか陰気な印象さえ与えた。
 トンが目指したのは、ほかの住宅とは少し毛色の違う、洋風の家だった。真っ白に輝く壁が、茶色と緑色の土地では浮いて見える。新築であることも、よそ者の住まいということを周りに知らしめているようだった。
 二階のベランダの物干し竿で、確かに虫かごが揺れていた。いい天気なのに、それ以外はなにも干されていない。
「……その人間はここに一人暮らしなんですか?」
 サトウが尋ねると、トンは「ああ」と応じた。こんなに立派な住み家に、たった一人。
 サトウは引きこもりだが、自分の身の丈にあった空間で暮らしている。必要以上に余白があると、寂しいとか悲しいとか、余計な感情が生まれてきてしまいそうだ。いずれ家族を増やすつもりなのかもしれないが、トンの話を聞くかぎりではその人間はずいぶんと孤立した生活を強いられているようだ。自分なら耐えられるだろうか、とサトウはまだ見ぬその人間に少しだけ同情した。
 虫かごは空色のプラスチックでできた、簡易的なものだった。扉もまた、風が吹けば開閉しそうなほど頼りないスライド式だった。わずかに開いていた隙間から、トンが身をよじって入っていく。ハチミは抵抗があったようだが、すぐに逃げだせると判断したのか、ゆっくりとその後に続いた。中に入った瞬間、あっさりと手放されたサトウは虫かごの中で転がり、そのまま腰を抜かした。
「ひどいよ、ハチミちゃん! もっと丁寧に……」
「その人間はいつ来るわけ?」
 ハチミはサトウの訴えを完全無視して、トンに問うた。
「わからん。マサトの仕事は不規則だからな」
「なに、あんた。名前で呼んでんの」
「ああ」
「向こうはあんたのこと、ただのトンボとしか思ってないのに」
 ハチミの蔑みに、トンは無言で返した。サトウは意外だった。トンはもっとクールで、人間に興味なんてないと思っていた。なのに今、トンははっきりと傷ついているのがわかった。その人間――マサトに対しては、特別な感情を抱いているのが伝わってくる。
 トンにかける言葉を考えあぐねていると、突如ベランダの窓が開いて、サトウはあわあわと隅っこへ這う。ハチミは臨戦態勢に入る。
「あれ。おまえ、今日は友達連れてきたのかあ」
 青白く細面の男性がそこに立っていた。くたびれたシャツにネクタイ。弱々しい笑顔は疲れを隠せない。それでもトンに話しかける声は、どこか優しい。
 これがマサト、とサトウは目の前に迫ってくる人間におびえながらも、ついまじまじと凝視した。
「こんなやつと友達なわけないでしょ」
「うわっ。ハチじゃないか。それに……アリ? おまえ、なんていうかグローバルな交友関係だなあ。すごい社交性あるんじゃないか? 分けてほしいよ」
「はあ? こいつに社交性なんて皆無だけど」
「でも、ハチは怖いなあ。勘弁してくれよ。俺、刺されたことあるんだよ」
 ハチミがいきり立つたび、マサトは少し後ずさりする。言葉はもちろん通じてはいないが、人間にとってもやはりハチミは脅威であるらしい。ハチミは面白がって「刺してやろうかな」と不敵に笑う。トンは「やめろ」とそっとたしなめて、自身がふわりと旋回し、マサトのほうへ飛ぶ。かごの網目越しに話しかける。
「マサト、話がある」
「やっぱり、おまえの羽はきれいだなあ」
「マサト、大事な話だ」
「今日もさあ、ウチダのじいさんに怒られたよ」
「マサト、俺たちを助けてほしい」
「畑仕事してたからさ、精が出ますねって声かけたんだよ。それでも無視されてさ、手伝いましょうかって言ったら、年寄り扱いするなって怒られるし……皆、全然受けいれてくれないんだよ。落虫町のためにああしましょうこうしましょうって講演しても、鼻で笑われるし。どうしろっつーんだよ、なあ」
「マサト」
「いや、無理でしょ」
 粘りつづけるトンを、今度はハチミがたしなめた。当のマサトはずっと管を巻いている。あれやこれやと言えば言うほど不平不満があふれてくるようで、相当ストレスがたまっているらしい。ここまで露骨にくたびれた人間をサトウは初めて見た。テレビの中の人間たちは疲れを隠してでも、皆一様にキラキラと輝いて活力に満ちみちている。マサトのあまりに深く盛大なため息に、サトウは体が浮いたような気さえした。
「てか、なんなのこいつ。ずっと愚痴ばっか言ってるけど」
「俺、転職したほうがいいのかなあ」
「テンショク? なによ、それ」
「ああ、またやっちまった。おまえに……今日は友達もいるか。おまえたちに話したって仕方ないのになあ」
「気づくのおっそ」
「こないだ聴いた『疝気の虫』みたいに、おまえらと会話できればいいんだけどなあ」
「え、なにそれ。話せるの? そんな方法あるの?」
「ああ、でもそれじゃあ、最終的におまえらのこと退治しちまうオチになるよなあ。あはは」
「あはは、じゃないわよ!」
 ハチミの導火線に火がつき、ぶんぶんと派手に音を立てて飛びまわった。小さな体をためらいなく、虫かごのあちこちにクラッシュさせる。揺れる虫かごの中、サトウはしがみつきながら目を白黒させた。マサトは本当にハチミが怖いらしく「うわわわっ、ごめんごめん!」と後ずさりして必死に謝っている。
「よせ、落語という作り話だ。マサトも本気で言ってるわけじゃない」
「本気じゃないなら、なお腹立つわ! 人間は冗談交じりでひどいことができる生き物でしょ! 悪気がないのが一番許せない!」
 ハチミの怒りは鎮火せず、とうとう虫かごを飛びだそうとした。トンがすばやく扉の前をふさぎ、二匹の睨みあいが始まった。サトウは遠巻きに静観することしかできない。
 そんなこう着状態のかごの中を見て、マサトは感心したようにつぶやいた。
「なんか、おまえら……ちゃんと意思を持ってるんだなあ。ハチを引きとめるトンボなんて初めて見たよ。トンボ、ハチはおまえの彼氏なのか?」
 てんで的外れな読みに、ハチミの機嫌はますます悪化する。どうしてこうもいいかげんなことを、とサトウもまたすっとぼけた顔の人間にあきれた。が、こともあろうにその人間の目線が今度はサトウにロックオンした。
 サトウの小さな心臓が思いきり跳ねる。後退したいのに、ぐらぐら揺れる虫かごでは身動きが取れない。マサトの太い指が眼前にぬっと姿を現し、どんどん迫ってくる。サトウの血の気がさっと引いた。人間の子どもに仲間たちをつぶされた、忘れていたはずの暗い記憶が脳裏をよぎる。つぶされる――そう思っただけで声も出ない。
 実際にはその指は、虫かごの外部をなでるだけだったが、隙間からはみだしてきた肉は確実にサトウに触れた。その圧力だけで、サトウは押しつぶされそうになる。腰砕けの体を必死でよじった。苦しい。苦しい。
 マサトはそんな思いをさせているとはつゆ知らず「アリは一人ぼっちかあ」などと、のんきなことを言っている。圧迫感はますます強くなる。
「おまえは俺と一緒だなあ」
 マサトの一言で、サトウの鈍い防衛本能にもようやく火がついた。無神経に距離を詰めてくる指を、精いっぱい体ごと押しかえそうとしたがびくともしない。頭に血が上り、サトウはついに牙を剥いた。
「ち・が・う!」
 掛け声に合わせて、力のかぎりマサトの指を噛んでやった。「痛えっ!」という悲鳴とともに指を引っこめられ、今度は前のめりにバランスを崩しそうになる。
 だが、撃退してやった。ふうふうと激しく息をしながら、サトウはまだ興奮していた。ハチミもトンも睨みあいをやめ、サトウの奮闘ぶりを見下ろしていた。
「やるじゃない」
 と、ハチミは笑った。めったに聞けないお褒めの言葉に、サトウの血はますます熱くなるようだった。
 しかし、マサトの第二撃があったらおしまいだ。自分から手を出してきたくせに、返りうちに遭うと人間は逆上する。案の定、マサトは目の色を変え、再び指を突きだそうとしてくる。
 逆ギレやん――いつだかテレビで芸人が言っていた文句が、サトウの頭に浮かんだ。
「……おまえ、強いんだなあ」
 マサトはへらりと笑った。予想に反して、マサトの指はサトウの目の前で止まり、もう押しつぶそうとはしてこない。
「なんだ、拍子抜けね」
「おまえと違ってマサトは平和主義なんだ」
 ハチミがすかさず針で刺そうとしたところを、トンは涼しい顔でかわした。サトウはマサトの指をながめた。太く、武骨な指だ。白い筋が何本も何十本も層になっている。これが指紋というやつだろう。スマートフォンという機器のロック解除に使うやつだ。浮気疑惑のある芸人が、寝ているあいだに妻に指紋認証をさせられていた。サトウはテレビで観た光景を思いだす。
 指だけでこんなにも不可思議な造りをしているなんて! 
 人間の構造の複雑さ、奥深さにサトウは感心した。
「しっかし、おまえ三回も噛んだだろ。なんだよ、俺とおまえは『ち・が・う』ってことかあ」
 瞬間、時間が凍りついたようにサトウは絶句した。空中でじゃれあっていたハチミとトンも、きれいにフリーズしている。マサトだけが「誰もかれもつれないよなあ」と指を引っこめ、そのまま頬をぽりぽりとかいた。
「……今、伝わったってことですかね」
「偶然でしょ偶然」
「かもしれないが……」
「ああ、腹減った。じゃあまたな、おまえら。お疲れさん」
 マサトは自分が虫たちの議論の対象になっているとは夢にも思わず、手をひらひら振って部屋へと戻っていった。どうもおおらかというかマイペースな性格らしい。頼りがいはないが、どうにも憎めない。少なくともサトウは悪い印象を抱かなかった。いや、むしろ。
 面白い人間だ、と思った。
「どうすんの。あいつ家入っちゃったけど」
「マサトは飯を食ったら、もうベランダには来ない。今日は撤退しよう」
「敵の姿確認して終わりってわけね」
 ため息をつくハチミに「敵じゃないよ」とサトウは言った。ハチミは怪訝な表情を浮かべる。
「僕は彼に賭けてもいいと思います」
 トンがきゅっと目を細める。太陽がゆっくりと沈みはじめる。高い建物のないこの町は、均等に橙色へと染まっていった。
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