第12話

文字数 4,776文字

「人数は一人。ノブオという高齢の爺さんだの。が、年齢に見合わぬ足腰の強さで矍鑠としとる」
 迷い虫の報告を受け、ウメばあさんが淡々と伝えた。
「目的はなんだ」
「新種の虫捕獲とな」
「僕たちのことですかねえ」
「ほかにありえないでしょ」
「私たち、捕まえて、食べられちゃうのかなあ」
 口々にささやかれる不安に、サトウは「緊急事態発生!」とぐるぐるその場を小回りした。プチパニック状態の彼をハチミは冷ややかな目で見たが、ナツバは紳士的に「まあまあサトウくん」と落ちつかせた。彼のまとう甘い香りが、サトウの泡立った気持ちを静まらせる。サトウはようやく足の動きを止めて、疑念を口にした。
「……マサトは知ってるんでしょうか」
「いや、恐らくノブオという爺さんの単独行動だろう」
「なんでわかるのよ。マサトの気が変わって、捕獲命令出したのかもしれないじゃない」
「マサトの言うことを聞くほど、あの町の人間はマサトを受けいれてない」
 マサトの寂しげなぼやきが思いだされて、ハチミもぐっと言葉を詰まらせた。
「でも、じゃあマサトに直談判したところで、昆虫食を回避させることもできないんじゃ……」
 思わず浮かんだサトウの疑問は核心を突いたようで、トンも苦い顔をする。「そうよ、意味ないじゃない!」とハチミはトンを小突く。「仲間割れは、だめだよ」とチズコが涙ぐむと、ハチミはそれ以上攻撃を仕掛けるのをこらえた。
「サトウの言うとおり。俺たちは昆虫食を断念させるだけじゃだめだ」
「つまり……代案を出さなきゃいけないってことですか」
 トンは小さくうなずいた。サトウはめまいを覚えた。意思疎通をするだけでも困難且つ急務であるのに、さらに落虫町が息を吹きかえすような代案をひねりだすなんて。しかも、
「でも、今は、それどころじゃないよね」
 チズコの指摘するとおりだ。今はノブオという魔の手から、いかにして逃れるか。ハチミはすでに迎撃する気でいるようだが、逆上した人間はなにをしでかすかわからない。それどころか危険な虫がいるから退治しなければいけない、などと進言されれば、マサトも町の安全のために首を縦に振らざるをえないだろう。
 さらに悪い知らせが舞いこんだ。ノブオは森歩きに慣れているらしく、また神経質な性格なのか怪しいとにらんだところは隅々まで点検する。巣がありそうな場所を徹底的に荒らしているようだった。ただ、逆にお目当てでない虫に遭遇したときは、一切手を出していないらしい。
「ここは人間にしてみれば、かなり死角だけどねえ」
「なかなか鋭い嗅覚の持ち主のようだの」
「足音が近づきはじめた」
 トンが声をとがらせる。ハチミはそれを合図にぶん、と羽を震わせ飛びたった。
「ハチミちゃん!」
 チズコの呼びかけも無視し、ハチミは勢いよく屋根の小枝を突きやぶっていった。
「なぜ、おまえは入口から出ていかぬ!」
「ウメばあさん、ハチミちゃんはいっつも、いっつも、そうなの」
 そう言いながら、チズコものそのそと身をくねらせ地面を這っていく。後を追うつもりだ。
「チズコちゃん、だめだよ」
「ハチミちゃんを、ほっとけない」
「チズコ。ハチミは俺が追うから、おまえは――」
 ここにいろ、とトンは続けるつもりだったのだろう。それは言葉にはならず、全員の目前に巨大な生き物が現れた。土の色と同化しており、表面はごつごつとささくれている。それは意思を持って迫ってくる。
 人間の指だとわかった瞬間、サトウたちに戦慄が走った。入口からわずか数ミリ飛びだしていたチズコが、いとも簡単に持ちあげられる。「きゃっ」という短い悲鳴も、「チズコちゃん!」というサトウの叫びも、もちろんその荒々しい手つきには届かない。
 マサトの指も太かった。だけど、色も質感もにおいもまるで違う。今、チズコをさらった指は、森と見事に調和している。距離の縮め方は自然で、しかし獲物と対峙した瞬間、一気に獣の殺気を放つ。自然と一体化しているぶん、きっと容赦がない。サトウはそれを察して、助けたいのに足がすくんで動けなかった。
「おお。こりゃ、当たりかもしれんな。芋虫みたいだが、めずらしい色してやがる。おまえ、チズノコってやつか」
 ノブオだ。ガラガラにしゃがれた声は、聞いているだけでも恐怖心をあおる。ノブオが唾を飲みこむ音が響いた。サトウはぞっとした。
 もしかして、今ここで食べようとしているのか?
「なるほど。発酵した……チーズみたいなにおいだ。美味そうだな」
 サトウは混乱と絶望で、意味もなくまた小回りをしはじめた。サトウ自身の意思とは関係なく、そのままウメばあさんの敷地から出てしまいそうなところをナツバが必死に食いとめる。
「サトウくん! 気をしっかりもちたまえ! 君までさらわれたらっ……!」
 思わずこぼれた叫びだろうが、チズコは助けられないと悟っているかのようで、ナツバはサトウの体を捕まえながら悔しさに目を伏せた。ナツバの葛藤が皆に伝染する。密着させた体はもはやどちらが震えているのかわからない。サトウはかつてないほど、己の無力さを痛感した。
 ノブオはチズコをなめまわすように観察している。この場で食べるべきか、連れてかえるべきか思案しているようだ。チズコは一切助けを求めなかった。そうすれば一網打尽にされることを予想しているからだろう。
「ウメばあさんっ……!」
 チズコの気持ちが痛いほどわかる。だからこそ、どうにかしたい。助けたい。自分ではなにもできない歯がゆさに、サトウは長老であるウメばあさんの名を呼んだ。ナツバもすがるように視線を向ける。トンは羽を揺らめかせ、飛ぶ準備をしていた。
「代案を用意するでの」
 ウメばあさんの言葉に、サトウは一瞬固まった。
 今? ここで? どうやって? クエスチョンマークが次から次へと湧いてくる。そのうちにウメばあさんは迷い虫たちになにか命令を下し、トンに向けても「協力してくれるかの」と問うた。トンは無言で力強くうなずいた。
「こいつの巣を見つければ、今ここで一匹くらい試食してもかまわんよなあ」
 ノブオからさらに獣のにおいが発せられた。濃厚で、むせるほどの強烈なにおい。それだけでサトウは失神しそうだった。チズコは泣き声一つ上げない。もしかしたら彼女はすでに意識を手放しているのだろうか。自然とサトウの目に涙があふれた。みるみる溜まり、大粒の涙がこぼれ落ちようとしたとき――
「いってえっ……!」
 ノブオは苦悶の表情を浮かべ、手を押さえてうずくまった。チズコは空中に放りだされたが、地面にたたきつけられる寸前に、トンがすばやく低空飛行をしてキャッチした。まさに間一髪だった。
 ノブオは顔面に脂汗をにじませた。チズコをつかんでいたはずの右手は、みるみる腫れあがっていく。患部が赤黒い色に変色し、ノブオは悶絶する。
「人間ごときが、私の親友に手ぇ出してんじゃないわよ」
 啖呵を切ったのはハチミだった。ぶいんぶいんと威嚇するようにノブオの頭上を飛びまわっている。針はいつも以上に尖り、ギラギラと光っている。
 トンがふわりと戻り、抱えていたチズコをそっと横たわらせた。チズコは気を失っているらしい。「無茶をするやつだ」とトンは苦笑した。
「ぬううう……ハチか。くそっ。毒はないだろうな。子どもんとき以来だ、刺されたのは……本当に昔から好かんやつだ」
「そりゃどーも、光栄だわ。もう一刺しいきましょうか?」
「うわっ、こらっ。やめろっ!」
 ハチミは高速でノブオの周りを旋回し、混乱を誘った。声が聞こえているわけでもないのに、会話が成立しているのが不思議だった。敵意同士はぶつかりあうだけで言葉は不要らしい。
 でも、それでは一時的な解決にしかならない。ここでノブオを撃退しても、また脅威はやってくる。
 ノブオはその場で地団太を踏み、地面は大きく揺れた。弾かれたようにポケットからライターを取りだし、火をつけた。揺らめく炎に、初めてハチミはひるんだ。一気に形勢が逆転する。ノブオはライターをあたりかまわず振りまわし、ハチミが逃げまどうかたちになった。
「生意気なハチが! あぶりころしてやる!」
 ノブオが黄ばんだ歯を見せて笑った。狂気的な笑顔だった。炎がハチミの針をなでる。ハチミの飛行バランスが崩れた。焦げたにおいは、ハチミツのような甘さも漂わせた。
「おまえも立派な昆虫食になりそうだ……うおっ」
 痛々しく腫れたノブオの右手めがけて、得体の知れない液体が放水された。あの気味の悪い色は――いつもウメばあさんが飲んでいる謎の液体だ。
 放ったのは迷い虫たちだ。空洞になっている茎をホースとして利用し、提灯の形をした花をポンプに、ノブオの右手めがけて何度も何度も謎の液体を発射している。
 ノブオは新たな攻撃なのか迷い、戸惑いを見せた。そのうちに彼の肥大化した右手はみるみる元通りになっていった。痛みも引いていくのか、ノブオはその驚くべき効果に目を見開いた。右手をしげしげとながめ、握っては開いてを繰りかえす。
 サトウはウメばあさんを見た。長老は不敵な笑みを浮かべていた。
 ダメ押しのようにトンがふわりと舞い、ノブオの顔に謎の液体を振りまいた。「うわっ」とノブオは反射的に目を閉じたが、口の中にまで謎の液体は落ちた。もしかして美味しいのか、と期待を寄せたサトウだったが、ノブオは「苦え!」とうめいた。
 だが、口内で舌に残った味を転がしていくうちになじむのか、ノブオは不思議そうに首をひねりはじめた。果たしてこれはただ不味いだけなのか。はたまた良薬は口に苦しなのか。悩んでいるうちに、乾燥でかたくなったノブオの肌が少しだけほぐれていく。深く刻まれたしわもゆるんでいくようで、険しい表情は徐々に軟化していった。
 ノブオはますます混乱した。空を仰ぐと、謎の液体を振りまいたトンボが悠々と泳いでいる。木々の隙間から入りこむ日差しがまぶしい。透きとおった羽が光を虹色に変えて、ノブオの顔を照らす。
 きれいだ。柄にもなくノブオは見惚れた。トンはその様子を見下ろしながら、どんどん高度を上げていった。
 そのあいだにハチミはウメばあさんのもとへ避難した。針の周辺に少し火傷を負っている。表情は曇っているが、そこまでひどい怪我ではない。ウメばあさんは無言でハチミにも謎の液体を振りかけた。ハチミは「ひゃっ」と声を上げたが、みるみる火傷の赤味や黒焦げた部分は薄くなっていく。
 トンは空に溶けていくように、自然とノブオの視界から離れた。美しい羽が見えなくなっても、ノブオはまだ空を見上げていた。木漏れ日を受けた木々の葉は、複雑な模様を描いていた。その線を目でなぞっていく。森の上を通過する鳥たち。風に揺れてささやく木の実。頬をなでる陽光。ずっとながめていても、飽きない。
 ノブオは自分の右手を太陽にかざした。腫れはほとんど引いている。ハチに刺されたのが嘘みたいだった。ゆっくりと、その手を握る。美しい陽射しを、手の中に閉じこめておくように。
 ノブオはやがて考えこむようにうつむいた。そのまま重い体を引きずり、たっぷり時間をかけて一歩一歩森から立ちさっていった。
 一同に張りつめていた緊張の糸が切れた。サトウの目から涙がこぼれおちる。
「我らの言葉、伝わったかの」
 ウメばあさんは目を細めた。ナツバはサトウの背中をさすった。それを合図に、サトウは安心して泣きじゃくった。
 上空からトンが降りてくる。相変わらず愛想はないが、はためかせた羽は誰もがきれいだと認めるだろう。涙越しに虹色の羽を見て、サトウはそんなふうに思った。
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