第10話

文字数 2,873文字

「痛みを与える。それが俺たちと人間が会話する――意思疎通する手段だ」
 トンはマサトとのやり取りを簡潔に伝えたのち、そう結んだ。「痛みを与える」という物騒なワードに、チズコは顔をしかめた。ナツバもまた「穏やかじゃない方法ですねえ」と訝しむ。
「それしかないでの」
 自然と皆のたまり場のようになっているウメばあさんの家で、主である彼女はやはり一ミリも動じない。この展開を予測していたということだろう。謎の液体をすすり「今日はちと苦いな」とぼやいた。それに微妙な差異などあるのか、とサトウはそっちのほうに驚く。
「でも、痛みを与えても、その回数だけで、文章を、伝えるなんて、無理じゃないかなあ」
「モールス信号だ」
 トンの答えに、ナツバが「なるほど」と応じる。
「回数だけでなく、長さや組み合わせで文字にしてつなげるということですね。しかし、気が遠くなる作業だなあ」
「私がエンドレスにぶっ刺してやるわよ」
「それはただの攻撃だよねえ」
 いきりたつハチミにナツバが苦笑いを浮かべる。さらに「痛みといっても、そこまで強いものでは相手の警戒を誘う」とトンがとりなした。
「そもそもおまえのことをマサトは警戒している」
「じゃあ誰がやんのよ。人間に媚び売ってるあんたができるわけ?」
「サトウの強さが適任だろう」
 サトウは体を大きく震わせた。予想はしていたものの、実際に名指しされると指が迫ってきた恐怖ばかりが思いだされる。
 確かにマサトは面白い。遠目で観察しているぶんには飽きないし、なかなか興味深いだろう。しかし、接触するとなるとやはり話は違ってくる。向こうはなにかの弾みで、サトウを簡単にひねりつぶせるのだ。最初から背負うリスクが大きすぎて、サトウはただ閉口した。
 そんなサトウの心情を慮ったのか、ナツバが「でもねえ」と渋ってみせる。
「もう少し穏やかな方法はないものですかねえ。僕たちが文字を覚えるとか、僕たちの声を大きくするとか」
「時間があればそれもいいだろう。ただし喫緊にこちらの要求を伝えるには、まずこれしかない」
 トンの決意は固い。マサトはああ見えて、落虫町の長だ。彼をクリアすれば、当面の平和は保障されると踏んでいるのだろう。
「落虫町の連中は、昆虫食を推奨してるでの」
 途端に皆の体がこわばった。サトウは過敏に反応し「なんで知ってるの?」とかみついた。ウメばあさんはそっとサトウを見つめ、
「年取るとな、情報なんぞ勝手に入ってくるでの」
 と、答えにならない答えを言った。ウメばあさんが物知りであるのは間違いないが、それだけではサトウは引きさがれない。サトウの不満を悟ったのか「我には動ける若い衆がおるでの」とつけくわえた。
 ウメばあさんのもとには名前も生態も判明しない迷い虫が身を寄せる。その虫たちに安心と役割を与えるのが、ウメばあさんの務めだった。物陰の隙間にひそんでいたり訪問の際に入れ違いになったりと、サトウも見知らぬ虫との遭遇はよくあったので存在は認めていた。要はその迷い虫たちが、動かないウメばあさんの手となり足となり情報を収集しているということか。
 サトウは事情を飲みこみ、うなずいてみせた。多くを語らずして、要点のみを伝えるウメばあさんの思慮はさすがというほかなかった。皆も同様に納得した表情を浮かべている。
「落虫町にはそもそも虫を食べる習慣があったでの。年寄り連中は自分らが再び時代の流行になる、と気づきつつあるでの。マサトという人間が耳障りのいい横文字ばかりの施策を講じても、年寄りには馬の耳に念仏じゃ。それよりは自分らが昔から推奨してきたもんを盛りたてて、町を活性化させていきたい。そういう考えに傾いておるようだの」
 淡々とした語り口には信憑性があった。実際、サトウたちは年寄りしかいない町の様子をその目で見ている。若者であるマサトのほうが流行に乗りおくれているというのは不思議なものである。サトウのそんな思いを読みとったのかのように、ナツバは「時代はまわるからねえ」とささやいた。
「誰が先頭に立つかなんて、その時々でわからないものさ」
「しかし、年寄り連中の目論見が一致してるなら、やはり急務になるな」
 トンは険しい顔を作ってみせた。
「マサトは孤立している。そこを一斉にたたみかけられたら、連中の希望をあっさり承諾しかねない。あいつは気が優しいぶん、優柔不断で自分の意見がない」
「人間のこと、よくご存知だこと」
「俺が知ってるのは、マサトだけだ」
 嫌味を真っ向から返されて、ハチミは憮然とした。トンは状況を冷静に分析している反面、マサトへの情をまるで隠さない。サトウはトンの心情がわかる気がした。ハチミも悪態ばかりをついているが、恐らくマサト個人に対する大きな嫌悪感はないはずだ。相手の毒気を抜くという意味では、マサトは調停役にはうってつけの人材のはずだった。
「どうだ、サトウ。やってくれないか」
「……僕は怖いのはごめんです」
「もちろん全力でサポートする」
「……トンさんは人間をどう思ってるんですか」
 一瞬、虚を突かれたような表情を見せたトンだが、すぐに立てなおした。
「人間という大きな枠組みで考えられるほど、俺はやつらを知らない。こんな事態でもなければ興味もない。さっきも言ったとおり、俺が知ってるのは、あくまでもマサトだけだ。ただし、その一人に限るのであれば――悪くないと思ってる」
 トンはほんの少しだけためらいと恥じらいを見せた。ハチミはそっぽを向いたが、サトウの目にトンの姿勢はとても真摯に映った。
 そうだ。人間というカテゴリについて、善悪や好き嫌いを見いだすには無理がある。そしてサトウがどれだけ考えても無駄なことだ。世界中の人間のことを知れるわけでもなし、知らないからこそ想像するしかない。同じ人間でも、一人一人まるで違うのだ。サトウと仲間たちが違うように。
 ならば目の前にいた、目の前でへらへらと笑っていた、あの人間を信じてみよう。マサトに賭けてみたい。そう漏らした自分の気持ちを信じよう。
 サトウはちっぽけな体を奮いたたせて、
「……やります」
 と、宣言した。
 トンの目が光を帯びた。ハチミは「火ぃつくのが遅いのよ」と憎まれ口をたたく。ウメばあさんは小さくうなずく。チズコはまだ不安げで、ナツバがその背中をそっとさすってやる。サトウは身震いした。これは恐怖ではない。きっと武者震いだろう。深く呼吸をくりかえし、腹をくくる。
 そこに、迷い虫が一匹こそこそと天井から壁を伝って、ウメばあさんに何事か伝令した。やたらと足の多い、得体の知れない虫だった。サトウをはじめ、誰もが不安に駆られる。それに呼応するようにウメばあさんの表情がゆがむ。
「どうしたの、ウメばあさん」
「人間が一人、こちらに向かってるとな」
 皆が一斉にどよめいた。ついさっき固めたはずの覚悟はどこへやら、サトウはちょこまかあわてふためきながら「緊急事態発生!」と叫んだ。
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