第5話

文字数 3,349文字

 サトウは昔から怖がりで自虐的、引きこもり傾向……というわけではなかった。子どものころはそれなりに無邪気で向こう見ず、好奇心のまま動くこともままあった。
 ちょこまかちょこまか外へ飛びだし、見知らぬ穴にもぐってみたり名もなき草を食べてみたり。ハチミあたりからすれば鼻で笑われそうなレベルかもしれないが、サトウにとっては毎日が冒険だった。多少怪我をしてひるんでも、次の日になれば忘れてまた転ぶ。そんなふうに笑っていた時期もあったのだ。
 ある日、フントウアリの仲間たちが集まってうわさ話をしていた。サトウもそこに「なになに?」と加わる。
「最近、人間の子どもがよく森に来るらしいんだよ」
 今のサトウなら心臓が跳ねあがるだろうが、昔のサトウは「へえ」と応じるだけだった。森といっても広いし、自分には関係ないだろうと高をくくっていた部分もあったかもしれない。
「それが俺らの縄張りまで来そうなんだ」
「しかもすごい量の砂糖を持ってくるって!」
「もう砂糖を大量に食べたってやつもいるよ」
「なんでかはわからないけど食い放題いいよなあ」
 仲間たちはうっとりと夢想する。サトウはそんな近くまで人間が、とほんの少し怖気づいたが、楽天的な仲間たちと一緒にいると大量の砂糖の山のイメージが勝った。食べても食べてもなくならない砂糖。転げまわって全身砂糖まみれになる自分を想像して、サトウはにやついてしまう。
「うわ、サトウよだれ垂らすなよ~」
 言われて気づき、サトウはあわてて口の周りをぬぐった。仲間たちがけたけたと笑う。
「そんな人間なら会ってみたいよな」
 誰かがつぶやいた。サトウもそれにうなずいた。うなずきながらも遭遇することはない。盛りあがりながらも人間は自分とは縁遠い生き物だ。サトウだけでなく仲間は全員そう思っていたに違いない。でなければ、本当に人間を目の当たりにしたとき、その圧倒的な存在感に絶句したりしないだろう。
 言霊というのはあるのかもしれない。サトウたちが冗談半分で人間との遭遇を所望した次の日、すぐにそれは実現してしまったのだ。
 サトウたちは木の実を蹴りまわして遊んでいた。ゴールはなく、ただただ木の実を相手から奪い、ひたすらに走る。距離をかせげばかせぐほどすごい。勝敗もルールも設定しない、とにかく仲間と走ることを楽しむ。なんでそんなことが面白いのか、と問われても答えようがない。熱中すれば周囲からの評価も関係ない。自分の世界に没頭できる。そこに理由など要らないのだ。
 恐らく、サトウたちが出会った人間の子どもも同じだったのだろう。
 仲間の一匹が木の実を強く蹴飛ばした。思いのほか遠くへ転がり「しまった!」と「よっしゃ!」という声が混ざりあう。
 全力で追いつこうとした先に、突如巨大な岩が現れた。あまりの大きさに、サトウたちは進路を一気にふさがれる。急ブレーキをかけて全身で止まり、おそるおそる視線を上にもっていくと、目の前の障害物が岩ではないことがわかる。
 人間だ。人間の子どもだ。人間の子どもの足だ。その巨大さにサトウたちは言葉を失った。子どもなのにでかすぎやしないか――そんな間の抜けたことを思った。
 しゃがんでいる子どもの瞳を見て、サトウはぎょっとした。黒くくりっとした目からは、なんの思考も読みとれない。感情が欠落しているのだろうか、と勘ぐってから、違う、とサトウは悟る。
 感情しかないのだ。理性が一切備わっていない。
 その異常な無垢さに、サトウは金縛りにあったみたいに動けなくなった。うわさ話でしかなかった人間の子どもと、本当に出会ってしまった。うわさ話よりも、ずっとずっと大きかった。うわさ話にはできないほど、シャレにならない脅威だった。
 ただ、うわさ話のとおりに、人間の子どもは砂糖を大量にばらまいていた。その白い山には、すでに同士はもちろん、見知らぬ虫たちも大量に群がっている。
 甘い香りがただよう。サトウの体が意識とは相反してうずく。あの山に体ごとダイブしたい衝動に駆られる。
 逡巡するサトウを尻目に、仲間たちは我先にと言わんばかりに突進していく。彼らはサトウよりも勇敢であり無謀だった。
 白い山の一角が崩れる。ざざざざ、となだれが起きても、虫たちはわらわらと歩きまわり、貪欲に砂糖の波を泳いでいく。
 遅れをとったサトウもその様子に魅せられて、ついに踏みだそうとした。が、純粋な瞳に一瞬凶暴性が生まれた。その鈍い光にサトウの体は完全に凍りついた。
 高々とそびえ立っていた白い山が、まばたきの間に消えた。いや、消えたという言い方は適当ではない。一気にかさが減ったのだ。代わりに洪水が起きた。人間の子どもが、上から大量の水を注いだのだ。
 急な水攻めに遭った仲間たちの悲鳴は聞こえなかった。甘い罠に夢中で、わけのわからぬままに流されたのかもしれない。辺り一面が大河と化し、黒い点がぽつぽつと浮いている。サトウは叫ぼうとしたが声は出なかった。
 人間の子どもは笑った。屈託のない、素敵な笑顔だった。きっといい子なんだろう、と不思議とサトウはそう思った。
 ぷかぷかと浮いていた仲間たちは我に返り、岸辺を目指そうとする。フントウアリは水くらいでは死なない。そこら中にいたずらで掘った穴が散らばっているはずだ。そこに逃げこめば心配ない。
 が、人間の子どもは見逃してはくれなかった。仲間の一匹をつまみあげ、指と指のあいだにはさみ、つぶした。
 サトウは目を見開いた。きゃらきゃらと笑う、高い声が響きわたる。その声だけで頭を大きく揺さぶられたような感覚に襲われる。
 人間の子どもはそこから弾かれたように何匹も何匹もつぶした。指で、手のひらで、足で。サトウの仲間たちも、最初からおびきよせられていた同士たちも、次々とつぶされていった。そこに戸惑いや迷いは一切見られない。そこにアリがいるからつぶしていく。ただ、それだけだった。
 サトウは重い体で一歩、一歩と後ずさる。人間の子どもがこちらを向こうとした瞬間、ようやく呪縛が解けたように走ることができた。必死で逃げた。サトウの頭にあるのは逃げることだけだった。仲間や同士を悼む気持ちよりも、生存本能が勝った。そのくらい圧倒的すぎる。人間は天災と一緒だ。
 サトウはがむしゃらに走って、走って、走りぬいた。そうしてウメばあさんの家へ転がりこんだ。迎えてくれたウメばあさんと目が合ってはじめて、サトウはがくがくと震えだし、大粒の涙をこぼした。
「……サトウは初めてかの。人間との遭遇は」
「……うん」
 泣き声を抑えようとすると、普通の返事にも詰まる。ウメばあさんはなにがあったかお見通しのようだった。
 人間なんてうわさ話だと思っていた。自分には関係ないと思っていた。一緒に騒いでいた仲間たちもそうだった。だからこそ無責任にはしゃいでいられたのだ。
「つらかったの」
 ウメばあさんはそれだけ言った。きっとウメばあさんは数えきれないほど、人間の被害に遭ってきたのだ。短い言葉に宿った重みに、培ってきた過去があることがわかった。ウメばあさんだけではない。きっと虫であれば誰もが通る道だろう。サトウは今日まで、たまたま運がよかっただけだ。
 理不尽な正論を飲みこむのは、なんと苦しいんだろう。
 サトウは大声で泣いた。ふええええええ、うわああああああ、おおおおおおん、と。
 泣きながらわかってもいた。こういうことは何度でも続く。何度でも続けば、そういうものだとあきらめてしまう。考えれば考えるほど理不尽だ。小さな生き物は我慢ばかりだ。
 悲しみは遅かれ早かれ引いていく。サトウは早いほうだった。たまたま知らなかっただけの悲しみは、実はずっとすぐそばにあったことに気がついたのだ。
 ただ、サトウはそのときから引きこもりがちになった。インドア派になっただけ、とサトウは言うが、体は遊びまわっていたころを記憶しているのか、足が時折ちょこちょこと動くのは止められなかった。
 狭い穴の中で、サトウの足は高速で地団太を踏む。立っていた場所が、少し沈むくらいに。悲しくはない。ほんの少しやりきれないだけなのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み