[4]過去と現在
文字数 3,301文字
用を済ませ、自分を映した鏡の前で、クウヤは悔しそうに奥歯を噛み締めた。
自分がリーダーを務めるアメリカのチームで、偽造が見つかり研究所を追い出された二年前。全米各所の機関で新たな席を求めたが、何処にも受け入れられずやむなく帰国となった。日本でも同じ分野の研究所は全て訪ねた筈だ。が、いずこもアメリカと同じく、話すら聞いてもらえずに門前払い。クサクサした結果、階段を転げ落ちるかの如く、『博士』から今の地位まで転落したのだった。
あの偽造が誰の
『ムーン・シールド』──今の地球も、今のクウヤも、これを発端として出来上がっている。
七十年前、南半球を震撼させた巨大な隕石は、地中深くのマントル上部まで達していた。地表を覆う地殻の下、内部660キロメートルまでをマントル上部、その奥2900キロまでがマントル下部と呼ばれている。そのマントル上部およそ500キロ深部に、スピネルと呼ばれる鉱物相が広がっている。スピネルとは酸化鉱物の一種で、和名は
ムタチオンとは「変異」を意味するドイツ語である。月を思わせる白色に変化を遂げたことが『ムーン』と呼ばれる由来だが、後々の研究によって、その光波に大気汚染を浄化する作用のあることが判明した。抽出された成分をシート状に加工、シールド化に成功し、地形に応じて二キロから十二キロ上空を覆う、まさしく地球に降り注ぐ恵みの月光となったのは約四十年前だ。
隕石の落下で始まった気象変動により、荒廃の一途を辿っていた地上は、そうして全ての平穏を取り戻した。これを機に爆発的な技術革新を起こした人類は、『ムーン・シールド』を二重に張り巡らせ、その中に新たな街を造るというとてつもない構想を立てるに到る。が、そんな遥か彼方と思える夢を夢でなくしたのが、七年前クウヤの所属した
シールドとして張り巡らされた『ムーン』が、その内包された大気の流動を、高いレベルで安定させることは早い内から確認されていた。しかしどうして『ムーン』が宙空に維持出来るのかという要因は、依然解明されていなかった。これを発見するきっかけに導かれたのが、当時まだ十六歳で駆け出し研究生のクウヤであり、彼が導かれた物、それが『エレメント』と呼ばれる『ムーン』の原型、つまり隕石そのものの要素であった。
この時の隕石はオーストラリア南部を直撃したため、街名からアデレード隕石と名付けられている。通常隕石の名は、落下した地区の郵便局名を付けるのが慣習とされてきたが、さすがに大き過ぎたこの隕石の、最寄りの郵便局など見当も付かなかった。
アデレード隕石は地球内部を深く
クウヤがこの『エレメント』を見つけたのは、ほぼ偶然に等しかった。それが師と仰ぐ高科教授によってアデレード隕石の一部であることに辿り着いた時、発見者であるクウヤと高科教授の名声が轟いたのは、もちろん言うまでもない。
それから数ヶ月の調査・研究によって、『エレメント』の持つ幾つかの特徴の中に、『浮力』の存在が確認・証明された。ある一定の力を与えられた『エレメント』は、空中に浮かび上がり、その状態を維持することが出来るのだ。高科教授のこの大発見は、世界の交通を根底から
こうして気象の安定した世の中に、便利な仕組みまでが付与された。お陰で地球は益々快適な世界に進化したが、クウヤには自分にまつわる全ての流れは
そんな経緯の始まりは、フィールド・ワークを兼ねて訪れたアリゾナの荒野だった。苦労して研究室メンバーという地位を勝ち取った先輩方にとって、最年少でスカウト入室となったクウヤは気に入らない存在だったのだろう。目の出なかった天文学者の父親をバカにされ、悔し紛れに足元の石ころを蹴飛ばしたのがそのキッカケだった。勢い良く目線まで上がった石は、重力に従うことなく宙で静止した。何が起こったのかも分からぬままポカンと開けた口は呼吸を止めたが、とにかく嫌味な年上共には渡すまいと慌ててその小石を握り締めた。こっそり教授に打ち明けて、それが知れた時の彼らの歯ぎしりの音と表情と言ったら──ちっとも面白くもない過去の内でも、これだけは気持ちのスッキリ出来る爽快な想い出かもしれない。
けれどそれから三年後、研究室を卒業し、高科教授の元を離れてから更に三年、新たな研究所ではレポートの偽造や改ざんというぬれぎぬを着せられ、行き場を失って戻った東京では、その日暮らしの貧しい生活といったありさまだ。反面自分の
こんな状況にあってはもはや底辺から抜け出すことは難しく、最先端の情報にもすっかり
それでも『ムーン』と名の付く製品は、『ムーン・シールド』上の街で開発された、という説が有力視されていた。『ムーン・シールド』から得た恩恵を敬って、というのが理由らしいが、既にブランド化されてしまった名前は氾濫し、今ではどれが本物で、どれが高性能製品なのかも見極められないほど乱用されている。
「『エレメント』なんて見つけるんじゃなかったかな……」
独り鏡の中の自分にぼやいた時、大柄な男性が入ってきた。この煌びやかな店には似合わないフテくされた顔をジロジロと見回され、それを隠すようクウヤは乱暴に顔を洗い出した。男が後ろを通り過ぎ、個室へ消え去ったのを認めて外へ出る。
──全てを水に流して、今宵くらいは楽しもう。
両手で顔をはたき、背筋をピンと伸ばした。気持ちを改め直して、颯爽と自分の席へ歩を進めた──。