[7]流氷と氷山の一角
文字数 4,794文字
「『エレメント』って……」
クウヤの困ったような一言で、止まった時が流れ出した。
「此処、感覚がございますか?」
「え?」
視界の下方に微かに見える女性の左手首がスッと近付き、その眼が焦点を当てている辺りを指先で押したように動いたが、クウヤ自身には触れられたような感触はなかった。
「い、いや……」
その返事に女性は体勢を上げ静かに見下ろす。再び自分の席に戻り、もう一度脚を組んで頬杖を突いた。
「クウヤ様がウィスキーのロック・アイスと思われた物は『エレメント』でございました。ご存知なのは重々承知ではありますが……『エレメント』は近くの物質に擬態を致します。今回取引された物は南極で発見され、つまり流氷に擬態しておりました」
「流氷……」
クウヤは唖然とし、説明された単語を知らず繰り返していた。
「クウヤ様が喉に痛みを感じましたのは、その氷に擬態した『エレメント』を呑み込んだから、だけではございません。人体用スキャナで確認しましたので経路は把握しておりますが、『エレメント』は食道を突き破り、外皮まで到達して……現在鎖骨中心の下部に留まってございます」
「──え? ……えええ!?」
余りに訳の分からない状況を突きつけられ、クウヤは「え」しか発せられないまま、それでも内容を理解した。自分の胸元を覗き込もうと頭を上げるが、さすがにそんな場所は寄り目にしても見えなかった。
「お、おいっ! いいかげん俺を自由にしてくれ! デス・シロップが相棒の仕業だって判った今、あんたに危害は加えないし、手に入れた大切な品を呑み込んじまったのも謝るから!!」
抑えつけられている手首の先をジタバタと動かし、クウヤは必死にシートを叩いた。が、彼女はもう一度クウヤのために腰を上げてやる気はなさそうだ。
「わたくしはクウヤ様が、わたくしに危害を与える恐れを感じて拘束しているのではございません。『融合』が成されるまでは痛みを伴っておられたようですし、苦しんで喉元を掻きむしられ、商品を傷つけられてはわたくしも主人に合わせる顔がないからでございます」
「融合……?」
暴れても謝っても無理、との結論に到ったクウヤは仕方なしに、大人しく彼女の理由を聞いた。が、『融合』とは一体何なのか?
「わたくしも正直、排泄物と共に体外へ排出されるものとばかり思っておりました。ですが先程ご説明致しましたように、内壁を破り外皮に一部を露出にして、既に定着しております」
「定……着……」
『融合』『定着』その二文字二つに、クウヤはもはや後戻り出来ないような不安を感じ、言葉を零した唇はわなわなと震え出した。それに気付かぬように──もしくは気付かぬ振りをして? 彼女は話を続けた。
「『エレメント』を体内に取り込んだ人類は今のところ確認されておりませんので、今後同様のことが起きましても、全てがクウヤ様と同じ結果となるかは確定出来ませんが、良い事例となりましたことは間違いありません。あ……ご安心ください。『エレメント』の通り道は、どのような理由かは存じませんが、もう治癒されているものと思われます」
あくまでも冷静沈着を貫きつつ、女性は名刺サイズの透明フィルムを自分の眼にかざした。先程会話に出てきた『人体用スキャナ』なる物らしいそれで、クウヤの食道を今一度確認し、口角が弓なり、というだけの涼しげな笑顔を返した。
「良い事例って……俺をモルモットと一緒にしないでくれ! もう治癒してるって言われても、こいつはこれからどうなるんだ? あんたは一体どうするつもりなんだ!? いや……あの、まさか適当に切開して摘出する気なんかじゃないよな!? 喉詰まらせて死にそうになった挙句に、今度は出血多量で死ぬなんて……もううんざりだ!!」
一方動揺を隠せず噛みつくクウヤ。女性は軽く息を吐き、クウヤの首と胸の間──『エレメント』の埋まった場所をスキャナなしで鋭く見据えた。
「わたくしにも手に負える品とは思えませんし、今言えますことは「とりあえずクウヤ様の一部として『エレメント』が安定した状態にある」ということです。ですからしばらくはこのまま様子を見させていただき、主人の元へ向かいたいと思います」
──安定なんてしないでくれっつうの! い、いや、体内で暴れられても困るんだけどさ~。
彼女の矢のような視線に
「分かった……こっちも「とりあえず」だけどな。で、あんた……ずっと訊きそびれていたが、まずお宅の名前は何ていうんだ? それから「主人」って奴の名前。ラストに、どうして俺の名前を知ってる?」
再びの複数の質問に、女性は背筋を伸ばし答えた。
「メリル、と申します。クウヤ様」
「了解、メリル。英語圏の名前だな」
フッと僅かに瞳を細め、メリルは次の質問に答えた。
「主人の名は、まだお答え出来ません」
「え……? 何でだよ!?」
「此処が『ムーン・シールド』の下であるからです」
「ああ?」
矢継ぎ早に返されるも、意味は全く分からなかった。いや……クウヤは途端脳裏に思い出された噂を引っ張り上げてメリルにぶつけた。
「あんたのご主人様は『ムーン・シールド』の上にいるってことか?」
「その通りでございます」
『ムーン・シールド』の上には街がある。平民以下には知らされていない事実は真実だった──クウヤは苦笑の裏に仄かな衝撃を感じていた。が、例えそうだとしても、名乗れない理由はいまいち分かりかねるが。
「最後の質問ですが、クウヤ様のお名前は『グランド・ムーン』でのお連れの男性から伺いました。お名前が分かれば、殆どの情報が得られる時代でございますから、現状クウヤ様の九割以上は既に把握しております」
「きゅ……九割!?」
その割合に切れ長の目が大きく見開かれた。現代は情報過多だが、反対に個人情報は堅く守られている筈だ。なのに自分の九割を知ったというのは、クウヤにはどうにも腑に落ちなかった。
「信じられないと仰いますなら、幾つか挙げてみせますが。如月 空夜様、西暦2070年6月14日15時42分生まれ。血液型はA型、東京都世田谷区出身。身長187.6センチ、体重72.4キロ。視力は両目とも1.2。左利きでしたが、四歳で右利きに矯正、乳歯と永久歯の完全交換年齢は──」
「わ、わーかった、分かった! もう十分だ!!」
自分ですらうろ覚えの経歴も多々あったが、身長・体重・視力に到っては、数日前派遣元で行われた健康診断の結果と見事に一致していた。それも数字だらけの情報を、メリルはそらで答えてみせたのだ。どういう情報網とどういう記憶力を持っているのか──感心と不信の狭間でつい視線が揺らいでいたが、刹那に浮かんだ考えが一気に視界をメリル一点へ向けさせた。
「だ、だったら! 二年前、俺が「嵌められた」論文偽造の犯人も分からないかっ!?」
「犯人……」
メリルは一言繰り返して僅かに表情を変えてみせた。が、おもむろに肘掛けのボタンを押し、一瞬の内に現れた『人体用スキャナ』十倍程の透明フィルムへ次々と視線を動かしていく。視覚操作のタブレットなのだろう。しかし一分程でしなやかな瞳の動きは止まり、諦めたような溜息を吐いて、肘掛けごとフィルムを収納してしまった。
「残念ながら、それはこちらが把握出来なかった一割の中に含まれる模様です」
「そ……っか」
そう上手くはいかないか──クウヤは薄く笑って瞳を閉じた。
「クウヤ様」
それから改めて名を呼ばれたクウヤは、返事代わりに瞼を開いた。メリルが初めて同情を含んだような眼差しで見つめていたので、そんな表情も出来るんじゃないか、とつい口走りそうな唇を苦笑と共につぐむ。
「『エレメント』を傷つけないと、お約束いただけますか?」
「え?」
会話は先の偽造犯に繋がった問いではなかった。それでもメリルがそう尋ねたのは、そこから派生した気持ちの表れなのかもしれない。
「ああ。約束する」
クウヤも応えるように真摯な趣で返した。と同時に首のカフス同様、自動で手首・足首の拘束が解け、クウヤはやっと身体の自由を得た。
「なぁ、鏡でも持ってないか?」
まだ見えないままの首元に指の腹をそっと当て、確かに鎖骨真ん中の真下に直径三センチ程の硬く感覚のない部位を見つけた。
メリルはシートのサイドポケットから、あの『人体用スキャナ』を取り出し、裏返して渡した。どうやらそちらは単なるコンパクトミラーになっているらしい。
「こいつ……まるで俺の皮膚に擬態しようとしてるみたいに、出っ張ってもいなけりゃ引っ込んでもいないんだな」
ついに確認の取れた『エレメント』は、まさしく氷山の一角の如く表面の一部を
「あーまったく! 啓太のお陰で飛んだ展開だっつうのっ。それよりあんた! じゃなくてメリル! いいかげんこの監視
シートに横倒しにされている間、ほぼ頭上を大回りに回転していたサテライトは、起き上がった状態ではシートごと胸の高さを水平回転し、どうしても視界の外へは出てくれなかった。
「申し訳ございません。そちらはわたくしをクウヤ様から守るためではなく、クウヤ様を守るために設置させていただいております」
「俺を守るって……誰から?」
「わたくしから」
メリルの説明の幾つかはなかなか難解で理解に苦しむが、さすがにこれはおかしな話だと、クウヤは不敵な笑みを見せた。
「俺がお宅をごちそうになろうとして、返り討ちに遭うって言うのか?」
「わたくしを召し上がっても美味しいとは思えませんが」
「──!? あ、いや~そういう「ごちそう」じゃなくてー」
カマトト振っている雰囲気もないので、どうやら真剣に答えられた様子だった。となればクウヤも失笑せずにはいられない。それにしてもこの必要以上の色気を放つ外見と、バカ丁寧で生真面目な中身のギャップはどう生まれたものやら?
「まぁ同意のない相手を襲うほど飢えてるつもりもないし、今俺の命を預かってるのはお宅なんだろうから、
クウヤは両手を後頭部に回して軽く上半身を伸ばした。その指先が二つの並んだつむじを探る。これが啓太に見つけられなければ──そんな程度のキッカケで全てはひっくり返されたのだろうか?
「こちらとしましてもクウヤ様を突き落とす予定はございません。『エレメント』がそちらの手中にある限り。それにまもなく到着致しますから、突き落とす時間もございませんし」
「到着って……ご主人様の所にか?」
自分も『上』を拝めるのか──溢れ出した好奇心と期待感が胸をくすぐらずにはいられなかった。
「いえ。『上』へは通行証が必要です。まずはクウヤ様の『ツール』を手に入れます」
「『ツール』?」
「はい。取り急ぎバンコクにある『ツテ』を頼ることに致しましたので、クウヤ様にもそちらに数日滞在していただくことになります。宜しいですね?」
「バッ……ンコク!?」
まさか日本も飛び出して、タイの首都まで飛んでいたとは──驚愕で固まったクウヤの前を
その時見えた左耳にキラリ、涙型のピアスが瞬いた──。
第一章・■Ⅰ■IN TOKYO■・完結