第7話 Please don’t  leave me.

文字数 3,667文字

 絵のモデルを引き受けたこともあり、エリクソンが日本滞在の間借りている部屋に、綺莉絵は通うことになった。サイクスも一緒だというが姿は見なかった。彼もエリクソンやヴァルカンと同じで人間ではないのかとふと思った。
「サイクスさんはどこ?」
「ギターを見に行った」
「ああ、ギターとか好きそう。上手なの?」
 長髪であの格好はロックが好きな人がしそうだと綺莉絵は思った。
「彼はギタリストだ。プロだったんだよ。もう引退してしまったが、日本にもツアーで来たことがある。三十年ほど前だよ」
「サイクスさんはいくつなの?」
 下手すれば二十代くらいにしか見えないのに、三十年ほど前ってことは彼もやはり人間ではないのだ。
「確か、六十」
「あなたはいくつなの?」
「……四百五十三歳?ごめん。我々にはいくつもの生年月日があって混乱してしまうんだ。つまり我々ヴァンパイアと人間と見かけは変わらない。だが年の取り方が違う。人間にとっては我々はいつまでも若く年を取らないように見えてしまう。だから人間に紛れて暮らす以上、ある一定の年月を過ぎれば別人になる必要がある。今の名前も身分も生年月日も偽物だよ。エリクソンという姓だけは本当だ。母方の名字なんだ。母は北欧の出身だ」
 綺莉絵は途方もない年月だと思った。自分を偽らなければいけないなんて凄く辛いだろうなとも……。
「君に嘘はつきたくないんだ。君の知りたいことに何でも答えるよ」
「……ヴァンパイアって本当にいると思わなかった」
 綺莉絵が彼らについて知っていることといえば、人を襲って血を吸うことくらいだ。エリクソンも伝説や物語の中のヴァンパイアみたいに、人の首に噛みついたりするのだろうか?
「私が血を吸うのか聞きたいの?」
 エリクソンは綺莉絵の考えていることをお見通しだった。綺莉絵は動揺してしまって言葉が続かなかった。
「綺莉絵、こっちにきて」
 エリクソンはキッチンに移動して、冷蔵庫を開けた。
「覗いてごらん」と促されて、中を見ると殆ど何も入っていない中に、透明のチャック式の袋の中に赤いカプセルが幾つか入っているのを見つけた。
「これが私たちの食事。それを取ってる。ヴァンパイア専用の血液カプセル、サンジェルマン社製だよ」
 綺莉絵も知っている医薬品メーカーの名前だ。そんなものを作っているのかと驚いた。もちろんそんなこと表沙汰にはできないだろうが……。
「サンジェルマン社の創始者はセイントジャーメイン伯爵といって、ヴァンパイアだ。彼は元医者で私の育ての親だよ。尊敬できる人物だ。元々人間だったし、人間と友好的な関係を築いていきたいと思っている。だから血は人を殺して手に入れたものではない。相当の対価を払って取引したか、善意で提供されたものだ」
 綺莉絵はそれを聞いてホッと安堵したものの、また別の疑問が出てきた。
「元人間?」
「詳しく言っていなかったけど、吸血鬼には四種類いるんだ。まず純血種、これはヴァンパイア同士から生まれた者、ヴァルカンがそうだ。私とサイクスのようなヴァンパイアと人間の混血をダンピールという。そして、人間がヴァンパイアに噛まれてヴァンパイア化するのを転向者、コンヴァーテッドという。噛まれた時点でほぼ助からず死ぬと考えていい。ほんの僅かなものだけが生き残るが、伯爵のように知性を残して転向するものは滅多にいない。あとはゾンビみたいな怪物になる」
 物語とか伝説のようにやっぱり噛むんだ、そして血を吸われた者はヴァンパイアになるんじゃないかと綺莉絵は思った。
「私が怖い?」
 エリクソンが訊ねてきた。そして慌てて付け加える。
「絶対に君を傷つけたりしない。誓うよ」
「分かっている。あなたはそんなことしない」
 そこは確信していた。
「血がないと生きられないんだ。呪われているよね。怖がられて当然だよ」
「血を吸うことが怖くないといえば嘘になる。ごめんなさい」
「そうだよね……」と顔を曇らせるエリクソンにドキッとする。こんなに美しい優しげな顔しているのに、血を吸わなきゃ生きていけないなんて信じられない。
「もうここへは来ない?」と恐る恐る訊ねるエリクソン。いつもの堂々とした彼からは信じられない。綺莉絵はちょっと可哀想になってきた。
「まあ、絵のモデルは引き受けたからこれからも来る」
 綺莉絵がそういうと、彼の顔色がパッと明るくなった。

 スケッチ画の絵のモデルをしている間、エリクソンの視線が綺莉絵は恥ずかしくて仕方なかった。時々彼とバッチリ目が合うと、顔から火が出そうに感じた。エリクソンの自分を見つめる瞳がとても優しくて、顔の表情も何とも柔らかくてしあわせそうなのを見ると、胸の奥がじんわりと温かくなってくる。
 一時間ほどすると、彼が紅茶をいれてくれるという。手伝いを申し出ると「リンツのチョコレートが冷凍庫に入っているから取って」というので、冷凍庫を開ける。チョコレートとは別に棒アイスが入っていた。手作りっぽい。イチゴ味?手にとって何気なく香りを嗅いでみたら物凄く違和感があった。血の臭いだと分かった瞬間、綺莉絵は慌ててそれを元に戻した。エリクソンに見られていないと思っていたが、手遅れだった。彼はまた悲しそうな顔になっていた。
「それはサイクスの好物なんだ……」
 綺莉絵は何て返したらいいのか分からなかった。そのあとの紅茶の味も大好きなリンツのチョコレートの味も覚えていない。家に帰ってから、彼女はひどく落ち込んだ。彼のことを悲しませたくない。彼とのことをどうしていいのかわからなかった。ちょっと泣いた。泣く自分も許せないと思った。



 サイクスがソファーに寝そべって、アイスバーを食べている。赤く染まった唇が口紅を塗っているようで、長髪で美しく優しげな顔立ちのサイクスはまるで女性のよう。
 彼はさっきからチラチラとエリクソンの様子を窺っている。
「何?何か聞きたいとこととかあるの?」とエリクソン。彼は向かい側のソファーで本を読んでいる。でもさっきからページはあまり進んでいない。
「今日、綺莉絵が来たんだよね?」
「来たよ」
「どうだった?」
「……怖がられた」
「何があったの?」
「その血液アイスだよ。綺莉絵がそれを普通のアイスと間違えて……臭いで気づいたみたいだけど、顔がひきつってた」
「そりゃ、ビックリだろうな」
「他人事みたいに言わないでくれよ」
「俺が綺莉絵の立場だったらそう思うから言ったまでだよ。困難や障害は承知のうえだろ?いきなり前世とかヴァンパイアだとか、彼女に受け入れられると思ってたわけ?」
 サイクスだって散々辛い目にあってきた。自分がヴァンパイアであるせいで、友人や好きな女の子を失ったり、彼らから自分の記憶を消したり、姿を消さなきゃならなかったこともある。嘘ではなく本当に人間との関係を構築していくこと、ありのままの自分を受け入れてもらえることがどれだけ難しいことか、サイクスはそのことを言っているのだ。
「そりゃ、兄さんの気持ちは分かるよ。舞い上がっちゃうよな。あんなに魅力的で可愛い女性、性格も良くて、しかも前世の記憶まである。俺だって兄さんの立場なら、もう運命としか思えないってなるよ。でも綺莉絵は前世の影響で兄さんに惹かれているんだ。前のキリエと全く同じ人ではない。前のキリエが受け入れてくれたからって同じとは限らないんだ。彼女を好きだからって性急に事を急いで、追い詰めてはダメだ」
「そうだよな。焦りすぎなのかも」
 もうどっちが兄なのか分からないなとエリクソンは思いながら、相槌を打った。
「そもそもヴァンパイアに生まれた時点で、人間の女性を好きになるってダメ元なんだしさ」
 サイクスはそう言って、また血液アイスを頬張った。そして思い出したように続ける。
「エツコって人間だよな?」
「人間だね」
「何故ヴァルカンと結婚したんだろうな?」
「よく知らない……でも結婚して四十年って言ってたな。すごく仲睦まじい感じがするよな」
「え?エツコっていくつなの?」
 サイクスは相当驚いている。
「六十過ぎだと思う」
「信じられない……シミシワ一つもない。そしてあの美貌と気品。あんな六十過ぎいる?エツコほどの女性を周りの男は放っておかないよ。苦労するって分かっていて、何でヴァルカンを選んだんだろうな?」
「深い愛情なんだろうな。兄上もエツコのことを深く愛しているのが伝わってくる」
「綺莉絵もエツコに相談すればいいんじゃないの?」
 サイクスに言われて、エリクソンはそれは盲点だったなと思った。確かにヴァンパイアと結婚したエツコならば適任だ。綺莉絵がエリクソンとのことを考える参考になるだろう。
「エツコに頼んでみようかな……でも、ついこの間知り合ったばかりの彼女にそんなこと頼めるのかな?」
 エリクソンが躊躇していると、「綺莉絵とエツコは大分長いんだろ?エツコは兄さんと綺莉絵のことを気に掛けてくれているんだし、頼んだりしなくとも自然に相談ってことになるんじゃない?」とサイクスが返す。
「そうだよな」
 実際、その通りになった。





 


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み