第11話 Here I go again.

文字数 3,412文字

 閉館後の展示室で一人、綺莉絵はその絵と対峙していた。

 絹糸のような金色の髪、抜けるような白い肌、濡れたような榛色の瞳、繊細な鼻筋、薔薇色の頬、艶やかな唇は何かを言いかけているよう。圧倒的な存在感。実際にこの可憐な少女が目の前にいるかのように、手を伸ばして触れたくなるような絵だ。
 これがキリエ。あのエリクソンが愛し、四百年も探し続けた少女。自分の前世の姿だと言われてもピンとこない。
 ――今のわたしとかけ離れている――
 綺莉絵がキリエの生まれ変わりだとエリクソンは信じきっているが、たまたま色々な出来事が一致するだけのように見えるだけではないのか?実感がないまま、エリクソンとのことをどうするか考えるのは違う気がする。そうはいっても自分に前世なんて分かるわけないのだから、いつまでたっても決めかねてしまう気がする。これからどうしていいか分からない。
 いつの間にか傍らに人が立っていたので、綺莉絵は我に返った。ヴァルカンがいた。車椅子ではない。自らの足で立っていたので、綺莉絵は驚いた。気配が全くしなかった。
「驚かせてすまない。実は少しなら歩ける」
 ヴァルカンは悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「思い悩んでいるようだな」
 妻のエツコから聞いたのだろう。
「色々一度に有りすぎて……」
 綺莉絵はそう答えながら、ヴァルカン夫妻が自分に親切にしてくれたのは、キリエの生まれ変わりだと思っていたからなんだなとぼんやり考えていた。
「キリエの死に関して責任を感じている。守ってやれなかった。私がしっかりしていれば、キリエは村に戻ることもなかった。死ぬこともなかった。弟が錯乱し、あのような恐ろしいことになることもなかった。結果的に多数の人間の命を奪った弟の罪が消えるとは思わぬ。でも避けられたのだ。私が奴らの動きにもっと早く気付くべきだったのだ」
 彼も苦しんできたのだ。その後、弟に会って詫びようとしたが拒絶された。それは弟も彼なりに考えてのことだと伯爵から聞いたが、ヴァルカンは苦しんだ。どうすべきだったのか分からない。謝らなければ気が済まない。だが、たとえあの時彼の口から兄上のせいではないという言葉を引き出せたとしても、ヴァルカンの心は晴れなかっただろう。
 それより弟の方がずっと辛かったはずだ。キリエのいない世界で罪を背負い生きなければいけない。死ぬことも許されない。
「弟は君との約束を守るため、君を探し求めて、君に逢えることを心の支えに、この長い長い苦しい年月を耐えてきたのだ。分かってやって欲しい」
 綺莉絵は何も言えなかった。ただ黙って聞いていた。
「彼は君の気持ちを第一に考えている。君にそう簡単に受け入れられるとは彼も思ってはいない。それを百も承知で彼は君に打ち明けたのだ。君はただ自分の心に正直でいればいい。性急に答えを出さずともよい。よく考えることだ。種族を越えて愛し合うのは並大抵の苦労ではない。訊きたいことがあるなら、私もエツコも喜んで答えよう」
 綺莉絵は先日エツコに二人の馴れ初めを聞いたが、ヴァルカンからはまだ聞いていなかった。
 何故人間のエツコを愛したのか。自分よりもずっと早く死んでしまう、たかだが数十年しか一緒にいられない、それが分かっていて何故結婚したのか。現に今彼はエツコを失うことに怯えているのではないか。エツコはそんな夫を心配している。この状況で綺莉絵がそれを訊くのは酷な気がした。
「奥様は本当にあなたのことを愛していることが分かります。あなたのために義理の娘さんを日本に呼び寄せたのだと、そして今回エリクソンさんとの再会も……」
「エツコは自分が亡くなった後のことを考えている。娘や弟たちが私が生きる理由になると思っているのだ」
 エツコのいない世界で生きていくなんて耐えられない。自分の半身のようなエツコ。今までも妻という立場の女性は彼女の他にもいた。一番最初の妻はヴァンパイアの貴族出身だった。いわゆる政略結婚で、好き合って一緒になったわけではなかった。それでも努力はしたつもりだったが、結局妻の不貞で別れることになった。許嫁だったユヴェントスといい、最初の妻といい、実の母といい、これまで女性に裏切られてばかりだった。
 本当の意味で彼が愛した最初の女性は人間で、日本人のセツ子だ。彼女も彼を愛したが、周りの反対や戦争もあり、泣く泣く引き裂かれるような別れ方になってしまった。だが、彼女を通じて、ヴァルカンは後々彼が日本で生きていく縁のようなものを結べた。親友とも呼べる大切な友人もできた。そして今の妻エツコはセツ子の生家鈴木家の分家筋の子孫に当たる。そのせいか雰囲気が似ている。勿論、エツコはかつて愛した女性の身代わりではない。娘のマデリンを産んだマリアとも真剣だった。本気で愛したのだから、人間のマリアに自分がヴァンパイアだと打ち明けられなかった。彼女に去られるのが怖かった。結局、勘づかれて、関係は破綻したのだ。エツコだけが自分の傍から去らなかった。
「エツコは私がかつて愛した女性、鈴木セツ子の遠縁に当たる。私とセツ子とは一緒になることができなかった」
 エツコとセツ子の繋がりはどう考えればいいのだろうと綺莉絵は考えを巡らせていた。エツコからは何も聞かなかった。ひょっとして自分達と同じなのか。
「エツコさんはセツ子さんの生まれ変わりだと思いますか?」
「いや、違うと思う。エツコが産まれた後にセツ子は亡くなっているからね。エツコと私の出会いは偶然ではない。ヴァンパイアである私はセツ子を愛していながら、人間の彼女をしあわせにする自信がなく、困難に立ち向かう勇気もなく、彼女を諦めてしまった。だが未練だけは残り続け、彼女がどうしているか、様子だけは鈴木家から知らせてもらっていた。彼女が亡くなるまでそれは続いた。鈴木家には親友がいるのだ。ある時、彼から鈴木家の人間で美術を学びに海を渡る者がいると聞いた。そちらに行くから何かと気にかけてやってくれと言われた。それがエツコだ。エツコにとっては私は最初留学先での保護者だった。そして長い友人関係を経て結婚した」
「それまで友人だったのに何をきっかけに変わったんですか?」
「きっかけはマリアが私の正体を察して去ったことだ。そのことで私が学んだのは嘘の上に成り立った関係は必ず崩れるということだ。エツコを失いたくなくて私は自分の正体を打ち明けたのだよ。彼女は私のもとを去らなかった」
「ええ……奥様もそう仰っていました」
 綺莉絵は自分がエツコのように決断できるとは到底思えなかった。ヴァンパイアと人間では何もかも違いすぎる。
「君が気になっているのはヴァンパイアと人間の寿命の違いではないのかね?勿論、その問題は私たちも考えたよ。それでも一緒に生きることを選んだ」
 分かっていたはずだろうとヴァルカンは自問自答していた。エツコが自分よりずっと先にいなくなってしまうことは……。彼女をヴァンパイアにコンヴァートさせることを考えたことはある。彼女が自分と同じヴァンパイアになる。そうすればずっと長く一緒にいられる。ただそれは一か八かになってしまう。コンヴァートの急激な肉体の変化と凄まじい苦痛に適応できなければ、エツコは死んでしまう。死なずとも何かも忘れて血への欲望しかないゾンビのようになってしまう。愛し合ったことも忘れてしまう。そんなこと耐えられない。それに彼女はヴァンパイアになることを望んでいない。しかし癌が見つかったとき、ヴァルカンは彼女をコンヴァートさせていればと後悔した。だが、彼女はそれは運命なのだと言った。
――わたくしは仕事も十分頑張ったし、あなたと結婚して女としても本当にしあわせな人生だった。もう十分です。自分の人生に後悔はない――
 どうすべきだったのか迷っているのは私なのかもしれない。自分達に今起こっていることは弟と綺莉絵の未来でもある。いや、まだ結ばれてもいない二人にその言葉を使うのは適切ではないのかもしれない。
 ヴァルカンはキリエとの会話を思い出していた。コンヴァートの話をしたときのことだ。
――ではわたしもコンヴァートすれば彼とずっと一緒にいられるのですね――
 そう言って目を輝かせていたキリエ。その後すぐ、彼女は殺されてしまった。一方、今、目の前にいる綺莉絵は浮かない表情をしている。
 今度こそ二人が添い遂げられればいいのだが……。
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