第6話  She knows.

文字数 5,507文字

 綺莉絵は通訳兼世話係として、エリクソンにつくことになった。それも急な話だった。綺莉絵はミセスヴァルカン、エツコ夫人に呼び出された。彼女はヴァンミア研究家で、夫のジョー・ヴァルカンはヴァンミアコレクターで有名な人だ。今回の展覧会も夫妻の持ち込み企画のようなことから始まったらしいと聞いていた。
 綺莉絵とエツコはヴァンミアの絵を巡る旅で知り合った。同じ日本人、ヴァンミアの大ファンということで仲良くしていたら、相手はこの絵の発見に関わった人物で専門家だったというわけだ。実は美術館の仕事を紹介してくれたのが彼女だった。
「最初通訳は要らないって話だったんだけどね。日本語で講演となるとやっぱり自信がないって仰るのよ。それで急で申し訳ないのだけれど、通訳をあなたにお願いしたいんですって。安心して。事前の資料はここに用意してある。あなたが絵を観る感性があるって仰って、気に入られたみたいよ」
 知性と美貌、いつも気品に満ち溢れるエツコは綺莉絵の憧れの人だ。その人に頼まれたら嫌とは言えなかった。渡された資料を読み込んで、翌日の講演に備えた。
 記念講演ではエツコ夫人がヴァンミアについて話し、夫のヴァルカン氏が著名なコレクターとして、エリクソンも画家としてコメントした。エリクソンは英語で話し、綺莉絵が通訳を務めた。エリクソンは目を守るためだろう、色のついたメガネをかけていた。客席からは顔を見たいという声が上がっていた。そういえばこの講演のパンフレットの写真も色付きの眼鏡をかけたもので、彼の顔出しはNGのようだった。ルックスがいいのに勿体ないと思ったが、絵の実力だけで勝負したい人なのだろう。
 講演終了後、綺莉絵にセクハラした男がエリクソンに挨拶に来た。綺莉絵はできるだけ平静を装ったつもりだった。彼はエリクソンが日本語ができるとは知らないのか、英語で会話していた。エリクソンも英語で応えている。そうなると綺莉絵はエリクソンの横でただ立っていればいい。男の話はかなり長く、途中、エリクソンが綺莉絵にもう休憩をとるように言う。通訳する必要はないかもしれないが、仕事は仕事、綺莉絵が食い下がるとエリクソンもいいからと譲らない。仕方なく綺莉絵はその場を離れた。しばらくしてエリクソンが探しにやって来た。
「ごめんね。君が彼を怖がっているように思えたからあんなことを言ったんだ。彼に何か嫌なことをされたの?」
 今まで誰も気付いてくれなかったのに。綺莉絵は思わず涙をこぼした。この人は男の人なのにわたしのことを分かってくれる。綺莉絵がエリクソンに心を開いた瞬間だった。
「話したくなければ話さなくていい。でも感情を抑えてばかりいるのはよくないよ。話したくなったらいつでも私が聞くから」
 綺莉絵はエリクソンにあの一件を話した。平気な振りをして実は随分我慢をしていたんだよと彼に言われた。君はどうしたいの?とも。このまま何もされないようであれば、大袈裟なことにしたくなかった。エリクソンは君がそういうならと異を唱えなかったが、セクハラ男は次の週には別の美術館に異動になった。急な異動で、エリクソンがヴァルカン夫妻に働きかけたとしか思えなかった。
 講演会など本来の仕事が終わっても、エリクソンは綺莉絵の好きな花を贈ってきたり、食事に誘ってきたりと、明らかに彼に好意を持たれているのは分かった。綺莉絵がどうしたらいいかエツコ夫人に相談すると、彼女は意外そうな顔をした。
「あの方もあなたも独身なんだから何の問題もないでしょう?誠実で素敵な人だと思うけれど。迷惑ならはっきり言った方がいいわ」
 迷惑ではない。男の人に好かれるのに慣れていないだけだ。あんな素敵な人なかなかいないと思う。でも何故自分なんだろう?付き合っている人がいそうだし、周りの女性たちも放っておかないだろうに。軽い人にも見えないし、一体どういうつもりなんだろう。

 絵のモデルになって欲しいと言われたのは、展覧会の最終日、京都にあるヴァルカン夫妻の山荘に招待されたときだった。桜と夜景が綺麗だからとのエツコ夫人の勧めもあり、二階の和室に上がり二人で見ていた。
 綺莉絵は闇の黒と桜の白のコントラストに圧倒されていた。満開の桜の眩しさと黒く沈む闇。生と死。綺莉絵は桜の樹の下には屍体が埋まっていると言ったのは梶井基次郎だったなと思った。画家であるエリクソンも感じるところはあるようで、熱心に見つめていた。
「エリクソンさんは日本の桜を見るのが初めてですか?」
「そうだね。初めてかな。故郷には桜によく似た樹があった。アーモンドだよ。そっくりの花が咲くんだ。桜に比べてちょっと匂いががきついかも」
「アーモンドが桜の花に似ているなんて知らなかったわ」
「意外だな。君は知っているかと思ったよ」
「どうして?」
「どうしてかな?何となく」
 エリクソンはあまり会話に身が入らないようだ。やはり芸術家だから、インスピレーションを掻き立てられるものに神経がいってしまうのだろうと、綺莉絵はエリクソンを一人にしようかと思った。そっとその場を離れようとしたとき、エリクソンが言った。
「知っている?白と黒は正確には色ではないんだ。明度が最大になったのが白で、全くないものが黒なんだ。見てごらん。白と黒、生と死、美と醜、有と無、始まりと終わり、究極に正反対のものがひとつの空間に対峙しているこの光景を。なんて凄まじいんだ。恐ろしいほど美しい。凄絶すぎて圧倒されるね。是非絵に描いてみたい」
 この人はわたしと同じことを考えていると綺莉絵は感動を覚えた。彼と握手したいくらいの気分になった。さすがに彼は画家だけあって、それを表現する術を持っている。
「わたしも見てみたいです」というと、エリクソンは意味ありげに微笑んで、綺莉絵の方に向き直った。
「今は君を描きたいと思っている」
 そして、これに着替えて欲しいと、ハイブランドの洋服で有名な店の名前が入った大きな紙袋を渡された。その中に綺麗に包装された箱があり、さらにその中にドレスが入っていた。シンプルだが少し変わったデザインで、生地の質が良く、色も落ち着いた深い赤で、相当高価なものだと思った。着替えるために隣室に移った。障子を閉めようとして気がついた。隣室からも夜桜は見える。アーモンドの花と桜が似ているのかと、綺莉絵はもう一度窓の外に視線を向けた。この部屋の窓から手を伸ばせば触れられるくらいの近さだ。手を伸ばして触れると、勢いで花を少し折ってしまった。その瞬間に綺莉絵の頭の中にある光景が浮かんでいた。
 月夜、満開の花の下で、綺莉絵はあの大好きな人と一緒にいた。彼が手を伸ばし枝を少し手折って、髪に挿してくれた。甘い変わった香りがした。桜って思っていたけれど、まさかアーモンドの花?
 明るい月光と自ら発光しているかのような白い花のせいで逆光になり、彼の顔はよくわからない。でも胸の動悸が高まる。彼が顔を近づけてくる。ああ、キスされる。
 もう夢ですらなく、フラッシュバックのように甦る存在しないはずの記憶だった。生々しいにもほどがある。匂いまで感じるなんて。綺莉絵はどう考えていいかわからず、考えるのを止めた。長い時間をかけているので、エツコ夫人が心配してか部屋の外から声を掛けてきた。慌てて、綺莉絵が隣室に戻ると、ヴァルカン夫妻たちもいた。
「まあ、よく似合っているわ。あなたの黒髪によく映えること」
「本当だね。よく似合っている」
 夫妻にそう言われ、恥ずかしかった。エリクソンはニコニコしていたが、綺莉絵の側に来て、とても綺麗だよと囁いた。そしてモデルになって欲しいと続けて頼まれた。
「お願いだから断らないで」とエリクソン。エツコ夫人も「どうやら綺莉絵さんはすっかりエリクソンさんのミューズ(女神)のようね」と笑っていた。
 それからエリクソンの弟のサイクスに紹介された。長身、ウェーヴがかかった金髪は腰まで長く、ブルーグレーの瞳の超絶美形で、一言でいうと少女漫画に出てくる王子様のようだ。そして、どことなくエリクソンに似ていた。母親が違うからあまり似ていないとエリクソンは言っていたが、二人はやはり血を分けた兄弟だと思った。
「君は兄の天使だよ。頭の中は君で一杯なんだ。いつも冷静な兄が、こんなこと本当に珍しいんだよ」とサイクスは笑顔で言った。エリクソンが横で慌てていたが、彼はお構いなしで続けた。
「兄を失望させないであげて。本当に君に夢中なんだ」
 周りが猛プッシュしてくるってエリクソンは余程この人たちに愛されているのだろう。綺莉絵はちょっと戸惑いながらも、好意的に受け止めていた。
「 わたくしとジョーからもプレゼントがあるのよ。これアンティークなんだけれど素敵でしょう?」
 エツコ夫人が箱から取り出したそれを見て、綺莉絵は心臓が止まるかと思った。あの赤いチョーカー。夢に出てきた真珠のついたそれそのもの。
「エリクソンさん、つけてあげて」
 エツコ夫人はエリクソンに手渡す。彼は綺莉絵の背後に回り、慎重につけてくれる。ベルベットの感触と触れそうで触れない彼の指先。意識せずにいられない。突然、まるで雷に打たれたかのように、綺莉絵の全身に衝撃が走った。悟ったのだ。
 この人だ!夢の中のあの男の人はこの人に違いない。綺莉絵は後ろを振り返って、彼を見つめた。何も言うことはできなかった。何かを感じ取ったらしい。彼も無言で彼女を見つめ返す。重苦しい時間が流れていく。
 先にヴァルカンとサイクスが無言で部屋の外へ出て行った。エツコ夫人も慌てて後に続く。沈黙を先に破ったのは綺莉絵の方だった。
「わたし、ずっと前からあなたを知っているような気がして仕方がない。でもこんなの説明がつかない。怖い」
 相手を困らせるだけだと分かっていても、綺莉絵は言わずにいられなかった。彼は何か言いかけて、また口をつぐんだ。やがて意を決したように、静かだが熱のこもった口調で言った。
「これだけは信じて欲しい。月並みな言葉になってしまうが、君を大切に思っている。誓って君が望まないことはしない」
「何を知っているの?教えて。わたし、このチョーカーだって見たことがあるの。初めてじゃない」
「落ち着いて。君はどうしてそう思うの?」
「繰り返し夢に見るの。夢の中でわたしはヨーロッパにいて、すごく好きな人がいる。今の時代じゃない。昔、中世だと思う」
 終わりまで言えなかった。強く抱き締められたから。でも一瞬のことで、すぐに放された。この人、泣いている。普段のエリクソンからは想像もつかない。可哀想なのか、愛おしいのか、よくわからない感情が込み上げてきて、気が付くと綺莉絵は右手を伸ばしていた。彼の頬に触れ、涙を拭ってあげた。彼は無言で綺莉絵の手を取って、そのままそっと唇を押し当ててきた。手にキスされて、綺莉絵は自分がおかしくなってしまったと思った。嫌ではなかったからだ。あんなに男の人に触れられるのが苦手なのに。この人はわたしを求めているんだ。この人に抗うとかわたしには無理だ。綺莉絵はむしろそれに応えてあげたいとすら思った。
「キリエ、こんな私を愛してくれたのに、守ってやれなくて死なせてしまい、すまなかった。君は私たちは絶対にまた逢えると約束してくれた。でも君を見つけたとしても、私を憶えていないだろうと覚悟していた。それでも君に逢いたかった。私を忘れていても君ともう一度話せるなら、笑顔が見られれば、それで十分だった。まさか記憶が残っているなんて」
「キリエって?わたしと同じ名前?あなたの言っているキリエはわたし?どういうことなの?」
「そうだよ。名前も同じ。君はキリエの生まれ変わりだ。姿は違っても魂は同じだから、私には分かる。君も私が分かっただろう?」
「夢の中の好きな人があなただとは思ったけれど、理解が追いつかない」
「私の気持ちは変わらない。君を愛しているし、一緒にいたいよ。でも君の気持ちは違うかもしれないとは考えた。その場合は受け入れるよ。この一ヶ月、君と過ごして本当に嬉しかった。もう少し一緒にいて。せめて君の絵を描かせて欲しい」
 この人は本当に彼女のことを好きなんだ。こんなに一途に想われるなんて羨ましいとも思った。でも彼女の生まれ変わりだと言われてもピンとこない。確かに今自分に起こっている不思議な夢や記憶は前世と結びつければ説明がつくかもしれない。だからといって、「はい、そうですか」とすぐ納得するわけにもいかない。そもそもエリクソンが何故そう思うに至ったのかさっぱりわからない。
「あなたにも前世の記憶があるの?」
 綺莉絵が尋ねると、エリクソンはハッとしたようだった。やがて意を決したように言った。
「私は人間じゃない。いや、純粋な人間じゃないと言うべきか。私は十六世紀から生きている。生まれ変わってはいない。前世ではなくて、この私が経験してきたことの記憶だよ」
 それを聞いて、綺莉絵はますます理解を越えてきたなと思った。そして何より知りたかった。
「わたしに教えて。キリエとあなたの話を」
 気が付くと、その言葉を口にしていた。
 
 エリクソンが話し終えたときにはもう朝になっていた。綺莉絵は涙を流していた。自分ではないキリエの感情が自分の中に溢れ出てくるような、何とも不思議な感覚だった。
「考える時間を頂戴」
 そう言うのがやっとだった。
「わかった。いくらでも待つよ。でも絵のモデルは引き受けてくれるね?」
 エリクソンはそこは譲る気はないようだった。断れる雰囲気ではなく、綺莉絵は承諾してしまった。

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