第4話  These dreams

文字数 3,067文字

 綺莉絵は一体いつ頃からその夢を見るようになったのか、はっきり覚えていない。最初は十代の頃だと思う。どこか中世ヨーロッパのようなところで暮らしていて、幼い妹がいる若い女性になっていた。妹は金髪で天使のように可愛く、彼女の世話をするのは楽しかった。彼女とレースを編んだり、布に刺繍もした。その手触りすら夢のなかで感じた。見るもの全てが日本のものとは違っていて、面白かった。
 成人してからはあまり見なくなっていたが、最近またよく見るようになった。
 そのうちその女性に誰か大事な人がいることに気づいた。その人と森へ散歩に出掛けて贈り物をもらった。大きな真珠のついたチョーカー。とても美しい。首に巻く部分は赤いベルベット。手触りも良かった。嬉しくてしょうがない。その人のことが好きで好きでどうにかなってしまいそう。つけてもらうとき心臓の鼓動が高鳴る。でも肝心の男の人の顔もどんな格好をしているのかもわからない。
「キリエ……」
 名前を呼ばれた。ああ、なんて素敵な声だろう。とても深くて低い声だった。
 綺莉絵は目覚めてから、夢の中の世界はヨーロッパだから、綺莉絵って日本人の名前で呼ばれるのはおかしいよねと思った。夢を見ている最中は何か理屈に合わないことがあっても変に思わないものだ。
 なんでこんな夢を毎日のように見るのだろうと綺莉絵は疑問に思っていた。実生活で恋愛などしていない。では願望?もうすぐ三十路だというのに、男性と二人きりになるのは苦手だ。綺莉絵は男の人に触れられるのが嫌だ。例えば書類を渡そうとして手が触れそうになるのでさえ緊張してしまう。すぐ傍や背後に立たれただけでも落ち着かない。だから男の人相手だとぎこちない対応になってしまう。
 今の職場の美術館は女性が大半で、男の人はいても大抵自分の父や祖父のような年齢だ。かといって、全く嫌なことがないわけではない。若くない男からでも言葉での、または身体的セクハラを受けることがある。
 この間も体調が悪くなり休憩室で休んでいると、大分年上のそれも社内的地位のかなり上の男性に、体調を気遣われ熱を測る体で額を触られた。まさかそんなことされるとは思わなかった。指は冷たくてゾッとした。人間に触られた気がしなかった。綺莉絵は仕事場でその人としょっちゅう遭遇するわけではなかったが、職場に行くのは気が重かった。誰にも相談できなかった。そんなつもりで触っていない、体調を気遣っただけと言われたら、それで通ってしまう気がした。でもその人を避けるために今の仕事を辞めるのは嫌だった。
 綺莉絵は美術館の受付の仕事が好きだ。英語も使えて、時間きっちりであがれる。土日休めないのが嫌だったが、学芸員の資格もない自分が、大好きなアートに関わる仕事ができるのが何より嬉しかった。
 今度の展覧会はジャン・ヴァンミア。謎の多い画家で生没年不明。十七世紀ヨーロッパの市井の人々の何気ない日常を描いて人気がある。現存する作品はたったの四十点ほど。世界各国に散らばった彼の作品を巡る熱心なファンもいる。綺莉絵もその一人だ。そのとき現地で知り合ったこの業界の日本人にこの仕事を紹介してもらった。
 展覧会の開始前日、スタッフの役得で『約束』を見に行った。途中警備員が急に呼ばれたとかで、綺莉絵はその絵と二人きりになった。
 ヴァンミアの代表作『約束』。絵の中の少女がちょうどこちら側を振り返っていて、じっと見つめられているような気にさせられる。濡れたような瞳。何か伝えたいのか、開きかけた艶やかな唇。いつまでも見ていたい、切ないような気持ちになる。誰もが魅了されてしまう。この絵は傑作といわれ、存在だけが文献に記されていたが、実物は長い間行方不明だった。六年前の発見後、初のお披露目をヨーロッパでしたとき、綺莉絵は一度その絵を観ている。
 時を忘れて、その絵を見ていたとき背後に人が立ったのがわかった。
 呼ばれたような気がした。振り返ると、警備員ではなく、見たこともない男の人がいた。背が高く、白いスーツを着た金髪の若い外国の人。綺莉絵が訝しげな表情で見てしまったのだろう。相手も戸惑っている。薄い色の瞳に動揺があった。左がブルー、右がヘーゼルで色が違う。とても珍しいし、綺麗過ぎて驚いた。綺莉絵は陽光煌めく海と風そよぐ草原を連想した。あまり見つめては失礼だろうかと目を逸らし何か言おうとしたが、日本語と英語どちらにしようか一瞬躊躇した。
「美術館の方ですか?」
 驚くほど流暢な日本語で先を越された。
「そうです。……あの、あなたは?」
「エリクソンです。一日早かったのですが、早くこの絵が見たくて……。ミセスヴァルカンには了承を得ています」
 ミセスヴァルカンはこの展覧会の運営責任者の一人だ。ここで納得がいった。この人は明日の記念講演に招待された画家だ。エリクソンは現代のヴァンミアと呼ばれていて、彼の作品も明日からここに展示される。綺莉絵も何度か彼の絵を美術館で見たことがあった。柔らかい光と色調が特徴で、観る者を絵の中の静謐な世界へ誘う。そこはよく似ているのだが、綺莉絵は何故だか彼の絵の方が晩年のヴァンミアより老成していると思った。ただエリクソンはまだ三十代だという。期待の若手なのに目を悪くして引退の危機だと言われており、残念に思っていた。
「失礼しました。エリクソンさん。わたしはもう行きますので、お一人でゆっくりご覧ください」
 替わりの警備員はまだ来ないが、エリクソンならば問題ないだろう。それに彼はこの少女と二人きりで向き合いたいだろうと思った。慌てて去ろうとすると、エリクソンは首を振った。
「あなたもこの絵がお好きなのでしょう?誰かとこの絵について話したいと思っていました。少し一緒に鑑賞してみませんか?」
 その誘いに綺莉絵は頷いた。しばらく無言で二人で絵を見つめていた。何度見てもこの少女の虜になる。
「私はこの瞳を忘れることができない。彼女が何を考えていたのか知りたい。あなたはどう思われますか?」
 エリクソンはこの絵に並々ならぬ情熱を持っているように思えた。
「何か大事なことを言いかけているようですね。何だろう?相手の人はこの人にとって大切な人だったのではないかと思います。深い愛情のようなものを感じます」
 応えながら綺莉絵は少女に同化するような気持ちになっていった。その綺麗な瞳で誰を見つめているの?分かる。凄く好きなのね。その人のことが……。
「わたしたちはまた会えるわ」
 無意識に口にした言葉に綺莉絵は自分でも驚いた。変に思われはしないだろうか。だがエリクソンは意外にも深く頷いていた。
「だから約束というタイトルがついているのでしょうね」
 それからまたしばらく時が止まったかのような気がした。
「あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
 エリクソンが急に思い付いたように尋ねてきた。
「龍泉綺莉絵です。ここの受付スタッフです」
「ファーストネームがキリエ?」
「はい。そしてタツミがファミリーネームです」
 再びの沈黙。ややあって、エリクソンの口許がフッとほころんだ。        
「とても素敵な名前ですね。キリエと呼んでいいですか?私のことはエリクソンと呼んでください」
 名字で呼ぶの?と思った。確か彼のファーストネームはケントじゃなかった?わたしの名前は下の名前で呼ぶのに?欧米人で名字で呼ぶって珍しいことなんじゃないの?綺莉絵はちょっと不思議に思ったが、エリクソンの優しい笑顔を見ていたらどうでもよくなった。









 
 
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