「関係改善」B

文字数 5,914文字

エリカに破壊された太盛の部屋は無事普及された。

しかしあの事件以降、太盛は自分の部屋で過ごすのが
嫌になり、マリンの部屋へよくお邪魔するようになった。

マリンも生粋のパパっこなので遠慮はいらなかった。
太盛はベッドに仰向けに寝た。ふて寝である。

「お父様。音楽は何をお聴きになりますか?」

太盛はバッハの無伴奏チェロ組曲を頼んだ。

CDは二枚組になっている。オランダ人の演奏家の作品だ。
この曲は文字通り伴奏を伴わない、チェロの独奏曲であり、
ヨハン・バッハの傑作のひとつである。

甘ったるい中低音から、低くうねる低音。
チェロの弦が息を吐くかのごとく、音を奏でていく。
マリンの部屋には太盛が指定したオーディオが設置している。

チェロ演奏者の表情とか、演奏のニュアンスまで
スピーカーから伝わってくるほどの再現度の高さった。

「お父様、お体は大丈夫ですか?」

「少し胃が痛むね。でもダイジョブだよ。もう少しで……」

といったところで扉が開き、胃薬と水を持ったユーリが
入って来た。太盛が薬を頼んでおいたのだ。
ユーリもマリンと同じように心配そうに太盛に言った。

「お薬をお持ちいたしましたわ。具合はどうですか?」

「神経痛だね。たいしたことはないんだ。  
どうもありがとうね。薬はテーブルに置いておいてくれ」

「はい」

ユーリは踊るような優雅さでテーブルにお盆を置き、
すぐに去ろうとしてしまう。

「少し話がしたいな。君と話すのは久しぶりじゃないか?」

「……奥様の機嫌を損ねるかと」

「そんなことは気にしなくていいよ。
  あいつの嫉妬狂いは何があっても治らないんだから。
  今の時間が無理ならあとでもいいよ。
  少し時間を取ってくれないか?」

「なら、今でいい?」

「ありがとう。その辺に適当に座ってくれ」

ユーリはカチューシャを外した。後ろでまとめていた髪を
ほどくと、ウェーブのかかった長い髪が肩から下へと垂れる。

冷静な瞳の奥に熱が宿る。心を許した男性を見つめる目だった。

マリンは驚いた。ユーリが椅子に腰かけて足を組んでいたからだ。
ここまでリラックスした姿を見せるのは太盛の前だけだ。

ユーリはこの時間を休憩時間とした。彼女の中で
綿密に組まれたスケジュールのわずかな空き時間が今だった。

屋敷の清掃と管理は、要領さえ分かっていれば
時間をずらして行うことも出来る。

「品のいい音楽ね。チェロの独奏曲か。たぶんバッハね」

ユーリは欧州製のスピーカーを見て言った。
彼女は幼少の頃、親に連れられて定期コンサートへ
よく足を運んだものだ。

「ねえ太盛。あれから奥様とはどうなったの?」

「おかしなことにエリカは仲直りしたいらしいんだ。
  あいにく僕は家庭の中では赤の他人でも構わないと
  思っているんだけどね」

「話し合いはできたの?」

「それが……喧嘩になってしまってね」

「なにやってるの。言い争ったら逆効果じゃない。
 せめて軽くあしらうとか、方法を考えなさいよ」

「違うのユーリ。喧嘩したのは私……ですわ」

とマリンが申し訳なさそうに言う。
ユーリは納得した顔でうなづいた。

「はっきり言ってマリン様とエリカ奥様の愛称は最悪です。
  2人を同じ場に引き合わせちゃだめだよ」

「全くその通りだ」

と太盛が言う。

「実は僕もマリンと同じ気持ちだよ。最近エリカが近くにいるだけで
  いらだってしょうがないんだ。倦怠期夫婦っていうのかな?
   仲直りしようとか、そういう気持ちにすらならない。
   マリンの写真に黒マジックでいたずらされて僕は
   心から腹が立った。いまだにあいつのことは許せない」

「気持ちは分かるけどさ……太盛のしてることだって
 人のこと言えないでしょ。ここは少し大人にならないと」

「分かってるつもりだけど、僕も人間だからどうしてもダメなんだ。
  なんであんなのと結婚してしまったのかと悩む毎日だ。
   結婚したことを心から後悔している。下手したら
   エリカよりジョウンのほうがまともかもしれない」

「そう……。重症ね。そこまで深く悩んでるなら、
 考える時間を作るべきね。今は無理にでも奥様から
  距離を取って、しばらく外仕事とか趣味に没頭すればいいのよ。
  そうすれば考えも変わるわ」

「なるほどね。押してもだめなら引いてみろってか。
  やっぱりユーリは頼りになるね。相談すべきは、
  良き隣人。良き家族ってか」

「なによそれ? おだてても何も出ないんだけどなぁ」

マリンは、父が相談役として信頼しているユーリに少し嫉妬した。
マリンは子供だから父から本気の相談事を
一度もされたことはない。それは当然なのだが、ませた
マリンにはそれが不満だった。

父はマリンの前で愚痴一つこぼさない男だった。
今年の2月で34になった太盛。実年齢より
内面はずいぶん大人びていると、会社勤めをしているときから
よく言われていた。温厚で達観したところがあるためだ。

太盛はエリカと距離を取ることにした。
直接妻にそう話したと時は険悪な雰囲気になったが、
関係改善のために必要なことだと説明して納得してもらった。

5月になり、本土ではGWでにぎわう時期になった。
ラジオの交通情報がゴールデンィークの高速道路の込み具合を
報じている。島暮らしの彼らには混雑など無縁である。

夜、良く晴れた空には満天の星空が並んでいた。
本土と違い、光害がないため星空がはっきり見えるのは
孤島最大のメリットの一つである。

太盛はマリンとレナを連れて天体観測をしていた。

レナが双眼鏡を見ながら言う。

「ねえパパ。あれが北斗七星だよねぇ? 頭の方にある一番星はなにぃ?」

「あれはアークトウルスと言って、うしかい座の目印になる星なんだよ」

「そーなのぉ? 真上の方にあるから首が疲れちゃうねぇ」

「双眼鏡を三脚でよく固定してみなさい。
 疲れたら芝生に寝転がってみるのもいいよ」

太盛たちは外用のリクライニングチェアに腰かけ、星空を見上げていた。
マリンは暗闇で光る星座板を見ながら、星空と星座の位置を確認していた。

レナは星が大好きで、風のない夜は父を誘ってよく星空を眺めたのだった。

「宇宙って広いんだね-。星を見てると嫌なこと全部ふっとんじゃうよ」

「宇宙に比べたら僕ら人間なんてちっぽけなもんだよ」

レナが無邪気に芝生に寝ころび、はしゃいでいる。
太盛も隣に横になり、組んだ両手を枕代わりにして空を見た。

レナの言うように空はどこまでも広い。島の夜空は、
まるで宝石箱をひっくり返したかのように美しい。

三脚に備え付けたニコン製の大型双眼鏡から見る星空は、
まさしく英語で言うところのスターダスト(星屑)である。
今夜は風もなく晴れているので星空観察に最適だった。

「あ、流れ星……」

マリンが言い終わる前に星は流れてしまう。
マリンが首からかけた双眼鏡を構えるころには遅かった。

「残念ですわ」

「元気出しなよぉマリン。
GWの終り頃にふたご座の流星群っていうのが
見えるらしいよぉ?」

「あらそうなの? でも早朝とか明け方でしよ?」

「夜の十時ごろってパパが言ってたよぉ。ね、パパ?」

「ああ。ネットで調べたらそう書いてあったよ。
  六日の夜だから三人で一緒に見ような」

「うん!!」 「はい」

レナとマリンの順で返事をし、
この日はたっぷり星空を堪能してから屋敷へ戻った。

「なにかしら?」

マリンが一瞬だけ後ろを振り返ると、流れ星や流星群と違う、
不思議な軌道を描いて飛ぶ物体があった。

それは飛行機のジェットエンジンの軌道に見えた。

マリンは特に深く考えることもなく、その日はそのまま寝た。

次の日のニュースで、北朝鮮が長距離弾道ミサイルの発射実験を
成功させたと報じた。

太盛はエリカと子供たち三人で朝食をとっていた。
夫婦はぎこちない会話を中断し、ラジオに傾注した。

国営放送のアナウンサーはこのように報じた。

「北朝鮮の弾道ミサイルは、米国西海岸一帯へ到達する能力を
  持つとのことです。また、これに搭載する核弾頭の準備も
   進められており、米国は韓国、豪州と
  連携して迎撃に当たる姿勢を見せています」

そして米国国務長官と副大統領の会見が行われ、必要とあれば
さらに艦隊を日本海付近へ派遣すると答えた。

現在派遣されている艦隊は、米国第七艦隊に属する、空母第一打撃軍である。
この艦隊は、原子力空母を中心とする護衛艦や潜水艦など六隻からなる。
各護衛艦は最大で150発ずつミサイルを搭載可能であり、
空母の艦載機は80を超える。

護衛艦はイージスシステムを搭載しており、対空、対潜など、
すきなく迎撃をすることが可能となる。
この艦隊だけでおよそ小国の軍事力を上回るとさえ言われていた。
高度に組織化された精鋭艦隊なのである。

米国はこの艦隊をさらに六セット持っており、今回は
さらにもう一セットを朝鮮海域へ向けるというのだ。



「太盛様は今回のニュースをどう見ますか?」

とエリカがいつものように聞いた。
口調は穏やかだが、表情は硬い。

「ここまで米朝間で緊張感が高まったことは
 今までないね。はっきりいって非常にまずいと思うぞ」

「やはりご党首様がおっしゃっていたように
 戦争の可能性が見えてきましたか?」

「それは……」

太盛が言いよどんだのは、マリンとカリンがじっと
太盛を見ていたからだった。2人とも夫婦が緊張しているのを
見て食事が止まってしまっている。

戦争の危機は高まった。しかし、子供たちの前で米朝戦争が
始まりそうだと言うわけにはいかない。

「まだ分からないよ。
  米国大統領は朝鮮労働党の委員長と会談を申し出た。
  朝鮮側に攻撃の意図がなく、専守防衛のための
  措置だと米国が理解すればどうにでもなるさ」

「パパ。北朝鮮から攻める気はないのね?」

早熟娘のカリンのつっこみに太盛が返す。

「その通り。北朝鮮は小さい国だから
  米国と戦っても最後は負けるんだよ。
  カリンは自分が負けると知ってたら戦いをいどむ?」

「しないわね。ばからしいもの」

「だろう? だったら、あとは話し合いでも
  平和に終わらせたほうがお互いのためさ」

エリカは複雑そうな顔をして食後のコーヒーを飲んでいた。
娘と旦那のやり取りを黙って見守っている。

カリンが続けて質問する。

「北朝鮮ってサリンとか持ってるんでしょ?
  毒ガスとか生物兵器とか危険なものを
  集めて、とんでもない国じゃん、
ああいうのを打たれたら日本はどうなるの?」

「うーん。まあけっこうな被害が出るんじゃないかな。
  もっとも戦争になる可能性がほとんどないから
   心配することはないと思うよ」

「パパ。誤魔化さないで真剣に答えてよ。
私は本当に気になったから聞いてるのにさ」

「パパだって難しいことはよく分からないんだよ……」

太盛は第一次世界大戦の戦記を大学時代に
さんざん読んでいる。マスタードガス、ペリオットなど
毒ガスを食らった兵隊たちがどれだけ苦しんだかを知っている。

ガスのために目の神経をやられ、顔に包帯を巻いた英国兵が
長蛇の列を作っている写真を思い出してぞっとした。

兵隊たちは一時的に失明し、一命を取りとめても
内臓器官に後遺症が残った。毒ガスと言えば、あの
ナチスのアドルフヒトラーも従軍時にフランス軍の
攻撃で被害にあった。彼は一週間失明したという。

そんな話をどうして可愛い娘たちの前でできようか。

子供には知らなくていいことが山ほどある。
それなのにカリンやマリンは知的好奇心が高すぎて
何でも質問してくるのだった。

この食堂の席は不思議なもので、太盛という先生に対して
エリカや子供たちが生徒のように質問してくる。

「あの、お父様」

「なんだいマリン?」

「北朝鮮から攻める気はなくても、アメリカから攻撃
 する可能性はあるということですよね?」

「……まあ、そういうことだね」

「アメリカの偉い人たちが空母艦隊を増やそうと
しているのは、アメリカに攻撃する気が
あるからではないのですか?」

「……うむ。どうしてそう思うの?」

「湾岸戦争やイラク戦争の時も空母艦隊の空襲から
 始まったとお父様がおっしゃっていたからです。
 過去の歴史が証明しているではないですか」

これは今回のニュースの核心をついていた。
エリカと太盛は目を見開き、あまりにも知恵が回る
マリンを羨望と恐怖の眼で見た。

天才とは、物事の要点を説明せずとも一瞬で理解
出来る人のことをいう。わずか10歳の娘が、この島で
生活してきたマリンという幼い子供が、ここまで
優れた頭脳を持つに至ったのは偶然か、あるいは奇跡か。

実は太盛もマリンと同じ考えを持っていた。

米国はかつて日本帝国に真珠湾を奇襲攻撃され、
わずか一日で太平洋艦隊が壊滅した。
それ以来、全ての領土で厳重な警戒を解いたことはない。

特に太平洋のど真ん中にある真珠湾はその経験を
十分に生かしている。

イージス防御システムや洗練された空母艦隊にも太平洋戦争で
日本軍の執拗な攻撃を防ぎきれなかったことを教訓に
作られており、それをベトナム戦争や湾岸戦争でさらに
発展させた。

米国は、日本帝国との戦争で待っていたら攻撃される
ことを学んだ。つまり、機先を制することを是正とした。
やられる前にやれである。

今回の空母打撃軍の増派は、先制攻撃することが
ほぼ確定なことを意味している。

「マリン……。君はいつも良い質問をするね。
  出来の良すぎる生徒を持つと先生は
  困ることも時にはあるんだよ」

「あ……もしかして答えにくいことをまた
  聞いてしまいましたか?」

「答えは、そうかもしれないってことだね。
  いいかいマリン。軍事とは可能性の学問だと
  昔の偉い人は言ったんだ。ドイツの参謀なんだけどね。
  未来のことは誰にもわからないのさ」

「そう……ですか」

父の困り顔にがっかりしてしまうマリン。

最近父はマリンが質問するたびにこういう反応を
するようになったので逆にマリンが困ってしまった。

マリンは、自分の質問が核心をついているとは思っておらず、
純粋に気になったことを聞いただけであった。

食堂がきまずい空気になるが、レナがそれを破った。

「北朝鮮さぁ。マジかんべんしてほしいよねぇ。
  サリンとか、困るんだけどぉー!!」

歌うように話すので大人たちは笑った。
つられてマリンとカリンも吹いてしまった。

「なんでみんな笑うのぉ?」

不思議そうに言うレナがおかしくて、一同はさらに笑った。

レナのくったくのない明るさが、孤島で生きる
彼らに希望すら与えてくれたのだった。

(僕の可愛い娘達よ。この子たちから平和を奪おうと
 している北朝鮮が僕は憎い)

太盛は笑顔の裏でそう考えていた。

(最悪僕とエリカは死んでもいい。娘たちは
 なんとしても未来を生きてもらうんだ。
 だが、戦争になったら本土への帰還など……)
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