「ルイージ襲撃事件のあと」C

文字数 10,130文字

(あの二人、こそこそ何を話しているのかしら?
  それにさっきの仕草……)

めざといカリンは父の行動を見逃さなかった。
部屋を出る際、自然とユーリの腰へ手を伸ばしていたのだ。

あれは、恋人の距離感であった。おやつを運んだ時のユーリも、
太盛と普通に話しているように見えて笑顔が自然だった。
仕事上の愛想笑いではなく、心を許している女の顔をしていた。

「ねえレナ。パパたち、廊下で何話しているんだろうね?」

「さあ? 仕事の話でもしてるんじゃないのぉ?」

レナはパクパクとケーキを食べ、すっかりご機嫌であった。
能天気な姉を羨ましく思い、カリンはそれ以上聞かなかかった。

(もっと紅茶の砂糖を増やしてもらおうかな。
  これじゃちょっと苦いかも)

と花梨(カリン)が思っていると、太盛が何気ない顔で戻ってきた。

二人で何話していたの、とカリンが利くと、
太盛はちょっと仕事のことでね、と言葉を濁した。

(なんか怪しいな……)

カリンは母の不機嫌の理由がユーリにあると考えて納得した。
彼女は大人向けの恋愛小説をよく読んでいたから、
上流階級で主人がメイドと不倫をする話を知っていた。

けど優しくて子供思いの父が、そんな不潔な人だと思いたくなかった。
それに姉のレナもここにいる。今はまだ聞き出せなかった。

「ゲームにも疲れたから、映画を観ようか?」

「さんせーい」

と歌うような口調で怜奈(レナ)がパパに答える。

「レナとカリンはどんなジャンルが観たい?」

「うーんと、ぶっ殺し系が良い!!」

「私も派手なアクション系か、サスペンスが良い」

「うーむ、分かった。それらしいのを持ってきてあげよう」

太盛は自分の部屋からブルーレイのソフトを持ってきた。
作品は90年代に全世界でヒットしたサスペンス映画である。

猟奇殺人犯と、FBIの新人捜査官が高度な心理戦を
繰り広げて事件の謎を暴くという内容だ。

太盛が日本語字幕なしで再生を始めると、警察や医学に関することなど、
専門用語が多すぎて半分以上理解できなかった。

「ごめんごめん。この映画の英語は大人向け過ぎたね。
  パパも全然わからないよ」

リモコンで字幕表示を有りにすると、カリンが安心してため息をついた。

「そもそもカリン達はアメリカの英語が聞き取れないんだよ。
  イギリスのと全然リズムが違うんだもん」

「へえ。そんなに違うものかな?」

「ずっと高い音が続いて耳が痛くなる。
 なんかオランダ語?とかそういう音に聞こえるよ」

「レナ達はママとミウの英語で慣れちゃったからねー。
  ぶっちゃけパパの英語も映画と同じでほとんど聞き取れないよ」

太盛はショックを受けながら画面を見ていた。
学生の時に見たきりだから、久しぶりに観る映画になる。

映画とは面白いもので、10代の時に見たのと父親になった時では
見る視点がまるで違っている。
それは小説や芸術などにも同じことが言える。

本当に名作といわれるものは時間を空けて観ると
次々と新しい発見があるものだ。

物語が中盤に差し掛かると、牢屋に閉じ込めた犯人と捜査官との
会話劇が中心になる。この会話が見事な心理戦の応酬になるのだが、
レナは退屈になって寝てしまった。

太盛とカリンはハラハラしながら画面を見続けていた。

殺人のシーンに変わった。人は殺害後に被害者の体中の
皮をはがしては喜んでいるキチガイだった。

気持ち悪さに鳥肌が立つカリン。
怖いシーンを見ると急に人恋しくなるものだ。

カリンはソファの隅で寝ているレナを放っておいて、
パパの隣にぴったりと体を寄せた。

太盛の肩に頭を乗せると、優しくなでてくれた。

「パパ……聞きたいことがあるの」

「なんだい?」

「パパはさ……ユーリのことが好きなの?」

心臓を突き刺された気持ちになった太盛は
娘の顔をまじまじと見つめた。

姉妹そろってふっくらした頬。丸みのある体系。
カリンは、母譲りの知性を帯びた漆黒の瞳をしている。

太盛は、カリンが感づいていることを知っていながらも
なんとか話題をそらそうと必死になった。
あたり触りのない返事をする。

「それはそうだ。大切な家族だからね。
 パパはユーリのこともカリン達のこともみんな大好きだよ」

「そういうことを聞きたいんじゃないの」

カリンは少し語尾を強めて続けた。

「男と女の関係なのかって聞いてるの」

「なっ」

さすがに言葉を失う太盛。カリンの質問はあまりにも直球過ぎたのだ。

おませさん、などと可愛い言い方ができる娘ではなかった。
エリカがカリンを苦手にしている気持ちがよく分かった。

男と女の関係といった言葉は、普通の小学生からは出てこないはずである。

(しかし、カリンはいつ気づいたんだ?
  俺がユーリと二人きりになるのは深夜と早朝の森だけだ。
   カリンが見ていたとは考えにくい……。
   まさか、こっそり見ていたミウが告げ口をしたか……?)

太盛が思考をめぐらしている最中も、
カリンは父の引きつった顔をじっと見ていた。

「その顔はやっぱり図星だったんだね」

太盛はカリンのことを怒鳴り散らしたい衝動にかられた。
娘たちは目に入れても痛くないほど可愛いがっている。

それでも、ユーリとの秘密の関係に踏み込まれるのは不愉快だった。
父として、夫として最低のことをしている自覚はある。

それでも動き出した感情は止まらない。
ユーリの過去を知ってしまったから余計に。

「ママが、ここ数日ずっと機嫌悪そうだったよね?
  パパも、もちろん知っていると思う」

「ああ……」

「ママが苦しんでるのってパパが原因なんだ?」

太盛は大きく深呼吸した後にこう言った。

「カリン。ませたことを言うのもいい加減にしなさい」

「そうやって逃げたって無駄だよ。ママがかわいそうだよ。
  このままじゃ離婚するかもしれないよ?」

「……パパとママに離婚はありえないんだよ。
  おじいさんがこの島で暮らすよう命じているんだから。
   おじいさんは絶対に離婚は許さないって、
    婚約してた頃から決めていたんだよ」

「じゃあ、ママはどうなるの? パパに裏切られたまま、
  ずっとこの島で暮らさなきゃいけないの?」

太盛には返す言葉が思い浮かばなかったため、重い沈黙が続く。

映画のセリフだけが部屋に流れている。

カリンも太盛も映画の内容など頭に入っていなかった。


太盛はカリンの聡明さに驚きを通り越して恐怖すら感じていた。
なぜユーリとの関係に感づいたのか、今更聞いても意味がない。

この尋問に近い質問攻めと、鋭い洞察力はエリカの家系である、
ソビエト閣僚の血を受け継いだからだと考えられた。

カリンは無意識のうちにソビエト人がもつような、
疑い深さや執念深さをもっていたのだ。


「失礼します。お父様。わたくしも一緒に映画を観に来ました。
  ご一緒してもよろしくて?」

品のある動作で入ってきたのはマリンだった。白いタールネックの
セーターに赤と黒のチェックのスカート。濃い青のタイツをはいていた。

太盛もベージュのタートルネックのセーターを着ていたので、
上着の種類はお揃いだった。

「もちろんだよ。こっちが開いているから、おいで?」

「はい」

マリンはカリンとは反対側に座る。
父は大型ソファの上で娘二人に左右を囲まれた形になった。

(なんでこんな時に入ってくるのよ)

カリンは良いタイミングで邪魔をしてきたマリンに舌打ちしそうになる。
ニコニコして父の横に座るマリンは、してやってりという顔で
カリンことを一瞬見た。

(マリンのやつ……)

カリンは勘が良いのでマリンの意図を一瞬で察した。
頭の切れる者同士だからこそ分かるコミュニケーションだ。

太盛が知ったら発狂しそうな事実だが、実は太盛と
ユーリの深夜の逢引の件は使用人の間で噂になっていた。

深夜の密会を偶然目撃したミウが後藤に相談したところ、
後藤が口を滑らせてしまい、鈴原の耳にも入った。

マリンは盗み聞きをするのが得意なので、後藤達が
使用人室の前の廊下で小声で話し合っているのを、
通りかかった際に全部聞いてしまった。

(あんた、私たちの部屋の前で聞き耳を立てていたんでしょ?)

とカリンが視線に込めてマリンをにらむと、マリンは
すました顔でとぼけてみせた。このアイコンタクトだけで十分だった。

カリンはさすがにマリンがいるのに尋問する気にはなれず、
それ以降は行儀を良くしてずっと映画を見続けた。




その後も数日間雨は降り続けた。

エリカはクッパが帰ってくるのを待っていたが、雨の中の
下山は危険のため、クッパは熊のごとく地中で休んでいた。

「よくこの寒さで山にこもっていられるものだわ。
 あの方は、山で凍え死んだりしないのかしら?」

「さ、さあ? 
 あの人の生命力は超人並みですから考えるだけ無駄ですよ」

ミウは適当に答えて、エリカの食べ終えた皿を片付けていた。
エリカがユーリを嫌っているのを使用人たちが心得ているので、
二人を関わらせないよう、ミウが積極的にエリカのお世話をしていた。

時刻は7時半。この時間になると国営放送がFMで
西洋古典音楽(クラシック)を流し始める。

今日は声楽曲の日だった。バッハのミサ曲が流れる。
壮大なオルガンの伴奏に合わせて合唱が始めると、
扉が開かれて太盛とマリンが入ってきた。

驚いたエリカが聞いた。

「マリンちゃん……? こんなに早く起きてくるなんて……何かあったの?」

「いいえ。特に理由はないですわ。
  たまにはお父様達と朝ごはんをご一緒しようと思いまして」

理由がないわけがないだろうと、エリカは
口にしてしまいたかったが、軽く流すことにした。

「……あらそう。早起きなのはいいことよね」

自分の子供だったら毎日早起きしなければ叱るところだが、
腹違いの子供を教育する気などなかった。

エリカはそのあと太盛を見て言った。

「太盛さんも、今朝は、お早いんですね?」

たっぷりと皮肉を込めた一言だった。

「ああ……」

太盛は沈んだ声でこう答えるしかなかった。

太盛があの夜から、こっそりベッドを抜け出して
ユーリの部屋に通うようになった。太盛が朝寝坊をするように
なったのは、雨だから仕事がないこと以上に、夜の行為が原因だった。

エリカは夫を刺し殺したい衝動にかられながらも、今日まで黙ってみてきた。

しかし、エリカも人間だから、遠回しに文句の一つも言いたくなる。
監禁や尋問など、薄暗い感情が頭に浮かんでは消えていく。
暗い感情の正体は嫉妬だ。

夫を使用人に奪われた屈辱は、言葉で言い表せるものではない

エリカは目を閉じたままミウに言った。

「ミウ。レナとカリンはまだ寝ているのかしら?」

「先ほど起こしに行ったのですが、着替えをしている最中でした。
 まもなく食べに来ると思いますよ」

「そう。なら娘たちの相手を任せるわ。
  食べ方が汚かったら遠慮なく注意してちょうだい
  私は頭痛がするから部屋で休んでいるわ」

「かしこまりました。お薬をお出ししましょうか?」

「けっこうよ。自分で厨房へもらいに行くわ」

エリカは重い足取りで扉を開けて去っていった。


ミウが朝食の皿をテーブルに並べていく。

今日のおかずはキンピラゴボウ、サツマイモのバター焼きである
この日の朝はめずらしく和食だった。
ご飯と、豆腐とわかめのシンプルな味噌汁。スープの上にセロリが乗っている。

「ありがとうな、ミウ」

「いいえ」

太盛はずっと落ち込んだ顔をしていた。

ミウは太盛と大の仲良しであるが、
今回の件はあえて知らないふりをしていた。

「それじゃあ。マリン。いただきますをしようか?」

「はい。いただきます」

二人でサツマイモの味などを評価しながら、たんたんと食べていく。
マリンは向かい側よりも隣の席を好むので、太盛の左隣に座っていた。

食堂の長テーブルは無駄に席が多いので、ほとんどは空席のままだ。

(エリカに対する気持ちなんて初めからなかったんだ。
  結婚する前から俺は監禁されていたんだぞ?
   俺のしていることは本当に罪なのか?  
   俺は……もうユーリのことが頭から離れられないんだ)

父が考え事をするといつもうつむいて目を閉じるのをマリンは知っていた。
行儀よくおかずも残さずに食べ、デザートにヨーグルトを食べてから言った。

「お父様は悪くありませんわ。私はお父様の味方ですの」

「マリン?」

それはつまり、君は事情を知っているのかと喉元まで
出そうになった言葉を飲み込む太盛。親の浮気事情など
娘の前でする話ではない

マリンは大人っぽく笑って話題をそらした。

「ところでお父様。今日の午前中は雨の予報ですの。
  今日は私と遊んでくださらない?」

「あ、えっと、そうだね。
  昨日は双子ちゃんだったから、今日はマリンちゃんの日にしよう」

カリンと違うのは、マリンには父を責めるつもりが全くないこと言うことだ。
浮気の事実を知っていてもマリンにとって父は父だった。

「マリンは何をして遊びたい?」

「一緒に本を読んでもらいたいんです。
  最近世界史の本を読んでいるのですけど、
  難しくて理解できないところがありますの」

親子で手をつないで階段を登る。

並んで歩くとマリンのセミロングの髪がかすかに揺れる。
今日のマリンは薄ピンクのカーディガンにベージュ色の
スカートを履いていた。いつも以上にフェミニンな格好で
視覚的におっとりした印象を与える。


二階の広い廊下を歩き、レナカリ姉妹の部屋のさらに奥にマリンの一室がある。
扉がゆっくり開かれ、中からユーリが出てきてお辞儀した。

「お掃除はすんでおりますので」

「うん。いつもありがとう」

少し堅苦しく礼を言う太盛。マリンは黙って見守っている。
マリンには、特に怒った様子も悲しんだ様子も見られなかった。

それが逆に太盛には恐ろしかった。

マリンの部屋はレナカリ姉妹の大部屋を少しだけ
小さくした形である。パソコンやテレビは同じものを使っている。
二人掛けのソファと、一人用の巨大ベッド。
二つある本棚は大きくて立派だった。片方は勉強用。もう片方は漫画だった。

レナカノ姉妹の部屋にも漫画はたくさんある。
他にも小説やアイドル雑誌やファッション雑誌など、本は非常に豊富だった。

マリンは勉強用の本棚からハードカバーを一冊取って太盛に見せた。

「これは……ロシア革命史について書かれた本じゃないか。
  マリンの年齢じゃあ、これは難しすぎるよ。
   普通は高校生とか大学生が読むべき本だよ?」

「でも、知りたいんですの。特にロシアのことが」

「どうしてロシアなの?」

「エリカおばさまの祖先がソビエト連邦のご出身なのでしょう?
  家族に関することは何でも知っておきたいと思いまして」

「うーん、勉強熱心なのはすごく偉いと思うんだけど、
  ……政治、経済、歴史に関することはちょっとね」

「お父様はエリカおばさまとは
 朝によく政治の話をしているではありませんか」

「ユーリから聞いたのかい?
  あれは大人の人の会話だから、マリンはまだ早いんだよ?」

「でも……」

マリンが悔しそうに唇をかむので、太盛は何を言い出すのかと身構えた。
マリンは、何かを思い出したのか、はっとした顔をして言いよどむ。

「い、いえ。なんでもないですの」

「そこまで言われたら気になっちゃうな。
  最後まで言ってごらん?」

「言ってしまったら、お父様は私のことを生意気だと思いますわ」

「そんなことないよ。僕がマリンのことを嫌いになったことが一度でも
  あったかい? 怒らないから言ってみて」

「はい。それでは言います。実は私、ずっと前からユーリからお父様の
  ことを聞き出していましたの。お父様の婚約時代のことです。
  エリカおばさまに、その、愛を強制された事件のこと」

太盛は、衝撃のあまり吐きそうになった。
カリンと同じくらい知恵の回るマリンは、持ち前の探偵のような
行動力で、子供たちが絶対に知らないはずの監禁事件のことも知っていたのだ。

「はじめてその事件を知った時は、嫉妬深いエリカおばさまを
  嫌いになりました。お父様がエリカおばさまを好きになれない理由は
  すごくよく分かります。それと、私が生まれた理由も知ってしまいました。
  私は実の母でさえ好きになれません」

クッパの逆レイプ事件のことを言っているのだ。
自分が監禁中に行われた性的暴行の末に生まれた事実を知れば、
不良少女になってもおかしくない。

それなのにマリンは父をここまで気づかってくれる良い子に育った。

「私は、お父様がユーリを選んだとしても、
 仕方のないことだと思っています」

太盛の汚れた心さえ認めてくれるという意味だった。
尊敬する父だからこそ、欠点でさえ許してしまう。
それがマリンの父に対する愛の形だった。

マリンは9歳という若さで
全ての過去を受け入れるだけの強さを持っていたのだ。

太盛は何も言わずにマリンの体を抱き寄せた。

マリンの頭がすっぽり太盛の胸の中に埋まり、少し息苦しかった。
マリンも何も言わずに、父に体重を預けて甘えていた。

(ユーリも、父に抱き締められた時はこんな気持ちだったのかしら)

マリンは、太盛が思うよりもずっと早く大人に近づいていた。
エリカの望んでいた理想のお嬢様とは、実はクッパの娘だったのだ。

マリンがもっとこのままでいたいと言うので、
気が済むまで抱きしめてあげた。マリンの幼い吐息と髪の匂いが、
太盛のセーターに香水のようにつくまで。

その頃、自分の部屋にいたエリカは、恐るべきことに彼らの会話を盗聴していた。
マリンのベッドの下に設置してある盗聴器がすべてを教えてくれていた。

「どうして……太盛様はわたくしからどんどん離れていきますの……。
  マリンも実の娘とはいえ、陰でイチャイチャして……自分が
   彼女にでもなったつもりですか……気に入らないわ」

ノイズが混じるものの、太盛とマリンの会話はしっかりと聞こえる。
エリカはモノラルイヤホンを外して受信機に巻き付けた。

頭痛薬を服用しても目の奥の痛みが消えなかった。
エリカは、深いため息をついてからベッドに横になった。

午後になると雨は止み、待望のクッパが帰ってきたと
鈴原から報告される。エリカは急ぎ足でリビングへ向かった。

「ここ数日ずっと天候が悪いものでな。遅くなってすまなかったなエリカ」

「いえ。天候はクッパさんのせいではありませんから。
  それよりお飲み物はコーヒーでよろしいですか?
   たまには私が淹れてきましょう」

「いいのかい? エリカにやらせちゃ悪いなぁ」

「うふふ。お気になさらず。いちおうこれでも主婦ですからね」

淹れたてのコーヒーの香りがエリカの気分を落ち着かせた。
ずっと野生生活を続けていたクッパにとっても
コーヒー豆の香りは文明社会の象徴であった。

クッパはさらに体格が良くなり、顔つきも男らしく
たくましくなっていた。エリカにとって彼女の顔など
床に落ちているほこりよりどうでもいいことだった。

「で、話ってなんだ?」

「単刀直入に言います……」

太盛の浮気の件を包み隠さず説明すると、
クッパは大きな口をあけて笑った。

「なんだぁ。相談ってのはそんなことだったのか。
  私はもっと深刻なことかと思ったよ。党首様のこととかさ」

「思っていたよりも冷静ですのね。
  太盛さんはあなたにとっても伴侶であるのに、
   驚かないのですか?」

「太盛は少し気が弱いけど、良い男だよ。
  良い男には自然と女ができちまうものさ。
  エリカだって昔は本土に住んでいたことがあるんだから
   よく分かっているだろう?」

「それはそうですが……。太盛さんは所帯を持っている男なのですよ?」

「結婚してたって同じだよ。モテる男は会社でも出張先でも
  どこにいたって女と付き合えちまうんだ。太盛は
   オーラっていうか、なんか他の男とは違う魅力があるからなぁ」

ろくに恋愛経験のないはずのクッパに偉そうに語られて
エリカは少し腹が立ったが、文句は言わなかった。

「では、ユーリのことはどう思いますの?」

「ユーリか。私は別にあいつが愛人だったとしてもかわまないけどな」

「なっ?」

エリカはクッパの正気を疑いたくなったが、クッパは
さっぱりした性格で、良くも悪くも本心しか話さないのを知っていた。

クッパは後藤特製のクッキーを食べながら続ける。

「昔から太盛が女にだらしない奴だってのは知っているよ。
  浮気は男の解消だって言葉もあるしな。
  ユーリは良い子だし、少しくらい太盛を貸してあげても
  別にそこまで怒るほどのことじゃあ……」

「怒るほどのことですわ!!」

エリカの怒声が廊下にまで響いたが、クッパは気にしていなかった。

「そう怒るなって。別にエリカをバカにしてるわけじゃないんだよ。
  今言ったのは私の考えだから。あくまで私の意見だよ。
   エリカが許せないっていうなら、お仕置きでもなんでも
   好きにすればいい。私は止めないから」

「……私はもう二児の母なのです。独身時代のように
  好き勝手するわけにもいきません」

「だから、その怒りのほこさきをどこへ向ければいいか分からないってか?」

エリカは黙ってうなずいた。

短い沈黙のあと、クッパは紅茶を飲みほした。

クッキーの盛られた皿は空になっている。
食欲のあるクッパが次々に食べていくので
エリカは一つも食べられなかった。

日が沈みかけ、雨上がりの庭を優雅な色に染めていく。
クッパはまぶしそうに窓から見える庭を眺めてから言う。

「なあ、エリカよ。私は思うんだけどな」

それからクッパの長い語りが始まった。

「人の一生には流れがある。人はちっぽけなものだ。
  流れには逆らえないんだ。その流れってのはさ……
   私らにとってはこの島で暮らして子供を作ったことだ。
   エリカが学生の頃、こんな島で子供と一緒に
   暮らす生活を想像できたかい?」

エリカは首を横に振った。

「私は宗教を信じる柄じゃあないが、もし神様ってのが
 存在するとしたら、私らの運命は間違いなく操作されているんだろうな。
  ありていに言えば運命ってことだな。その運命ってのは、
   まさに流れのことだ。全ては逆らえないことなんだよ。
   下流から上流へ川の水が流れないのと同じでな」

「……太盛さんとユーリが愛し合っているのも
運命だからあきらめろと?」

「それに近いニュアンスだが、厳密には違うな。
  エリカは頭の回転が速すぎて、少しせっかちに
   考えすぎるきらいがあるな。この世に永遠の関係なんてないんだよ。
    それこそ血縁関係でもない限りな」

まだ続ける。

「私ら夫婦3人は結婚していても血のつながりはない。
  ユーリだって同じだ。ユーリの過去はエリカに教えられるまで
  私も知らなかったが、あいつらは傷をなめあってるだけなんだよ。
  そんなあいまいな関係がいつまでも続くか?
  長年連れ添った夫婦だって子育てが終わったら
   とっとと離婚しちまうような、こんな世界でさ」

エリカは、自分より広い視点で世の中を見ているクッパに
感心した。彼女について野生で暮らす獣程度の認識しかなかったが、
きちんと彼女なりの哲学を持って生きていたのだ。

彼女はエリカより2歳年上である。言っていることに説得力があった。

エリカは、マリンの優秀さは父からの遺伝だけでは
ないことをこの時知るのだった。

「太盛はむしろ良いところのほうが多い男だぞ?
  子供たちの面倒見もいいし、野良作業や木こりまで
   やって生活を支えてくれる。使用人からも信頼されているぞ。
   私はあいつなしの島暮らしは考えられないと思ってるけどな」

「そうですね。私もクッパさんの意見に同意します」

「おっ、分かってくれたのかな?」

「はい。目からうろこの話でしたわ。
 あなたと話せてずいぶん気が楽になりました」

「それりゃあ良かったな。これでも太盛の奥さん仲間だからね。
  また相談に乗ってほしければいつでも呼んでくれ」


これでエリカの悩みの種であった相談は終わった。
エリカとクッパは長い目で夫の浮気を見守るという点で一致した。


ルイージ事件のあと、島内の人間関係に若干の変化が現れた。

エリカは結婚して10年たっても太盛に恋をしていた。
太盛と仲良くする女はたとえマリンでも嫉妬した。

クッパはそもそも恋愛感情を一時の気の迷いとしか思っていなかった。
ユーリも同じだった。恋人とか夫婦とか、
そういう肩書きも薄っぺらいものに感じて好きではなかった。
肩書きを好むエリカとは対照的だ。

それなのに魔が差したのか、ユーリはうっかり太盛の前で
弱さを見せてしまい、恋人の関係に発展してしまった。

ミウと後藤は太盛を信頼しているから今回の件は容認した。
同じ主人でもエリカより太盛のほうに着いてきたいと思っていた

鈴原は立場上、中立を維持した。

レナは能天気だから浮気のことすら知らなかった。
カリンは父とユーリの汚らわしい関係を嫌った。

マリンは、エリカに負けないくらい父のことを愛していた。
父がひそかにエリカを憎んでいることを知っていた。
そしてマリンとエリカは太盛を奪い合う関係で憎みあっていた。

太盛は、ユーリとの関係を続けながら、
マリンのことを溺愛するようになった。
それは古い言葉で過剰愛と呼ばれるほどに。


ルイージが来ようが、浮気が始まろうが、食糧危機が訪れようが、
島での生活はこれからも続いていく。

島には次の日も太陽が昇るのだった。
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