「マリンの誕生日」C

文字数 8,954文字

「私には2人の仲を引き裂くことはできません。
 ユーリに暇を与えれば話が丸く収まるでしょうか?
  ……違いますよね? 感情が抑えきれないのです。
  愛する人を横から奪われた私の気持ちは
  私にしか分かりませんわ」

「違う。僕が勝手にユーリを誘ったんだ。
 悪いのは全部僕なんだよ」

「この際、どちらが誘ったかは問題にはなりません。
 あなたは口先だけで私に愛を誓ってくれて……。
  いつも心の中では別の女のことを考えていますの……」


CDの演奏はいつの間にか終わっていた。時計の針の音が
聞こえる静かな寝室で、エリカの泣きじゃくる悲しい音だけが響いていた

「あなたは最低の嘘つきですの」

「すまない。エリカ」

エリカが取り乱したので太盛はベッドに押し倒すように
エリカを抱きしめた。男性の肌のぬくもりを
感じて安心したエリカは、少しずつ泣き止んできた。

おとなしければ、これほど可愛い女もいないものだと
太盛は思った。

長いまつ毛。少し日本人離れした大きな黒い瞳。
カフカースの血が入っているエリカの顔は美しかった。

また、太盛の情熱が沸き立つのだった。

呼吸が落ち着いてきたこところで何度もくちびるを重ねる。
最初は太盛からせまった。やがてエリカのほうからも
太盛の首の裏へ手を回し、求めるようになってきた。

「ユーリのことはまだいいのです。マリンのことになると
  自分でもおかしいほど逆上してしまって。あんなに
  きつい言い方をするつもりはありませんでした」

「いいんだよ。やきもちを焼くところもエリカらしくて
かわいいじゃないか」

「うふふ。もしかしてからかってます?」

「そんなことは、ないんだよ?」

「あっ」

今度はエリカの胸やお尻にも手を出し、愛撫した。

ただ体を求めあうだけの、むなしい愛の形だったかもしれないが、
エリカはこの瞬間だけは太盛を独占することができた。
それに少しだけ満足した。

寝室だけが彼を独り占めできる唯一の空間だった。
それが彼らという夫婦の形であった。

もはや夫婦とも呼べないこの関係がいつまでもつのだろうと、
太盛は毎日悩むようになった。そして悩んでもどうすることも
できない自分が許せないようになった。






いよいよ28日になった。マリンの誕生日である。
マリンは10歳になる。レナとカリンは1月14日の生まれなので
マリンより少しだけ先輩だった。

昼下がりからさっそく夕飯の準備を始める使用人たち。

ユーリが厨房に入りっきりで後藤の仕事を手伝っている。

ミウはいつものようにニコニコしながら食堂の飾りつけを
行っていた。華美にならないよう気を付けながら、
テーブルに花を飾り、テーブルクロスを特別仕様のものへ変更している。

レナは飾りつけされていく部屋をのぞきに来ては、
期待に胸を膨らませていた。ミウは子供らしく
はしゃぐレナを微笑ましく見ていた。

「今夜は盛大なパーティーをしますよ?」

「わーい。肉が食べたーい。にくー」

「うふふ。お肉ならたくさんご用意してありますからね」


今日は特別な日なので勉強しなくていいことになっている。
妹のカリンはリビングでアニメの録画を見ていた。

クッションを枕代わりにソファに横になっている。
たまに顔を上げてクッキーを食べたりと、だらしがない恰好である。

最近は子供にあまり関心のないエリカ。

カリンのワイドショーを観ている主婦のような姿勢を注意しない。
カリンとは別の三人掛けソファに太盛と座り、彼の腕を抱いている。
夫婦というよりカップルのようだった。

「太盛様に言われた通り、豪華なケーキを用意させましたわ」

「ありがとう。エリカ」

「後藤が作る品ですから、それはすごいケーキになりますわ」

「今から楽しみだね。ケーキが並べられたら写真にとっておこうね」

「あなたの誕生日が22日ですので、それほど日が経っていません。
  ケーキの食べ過ぎで太ってしまわないか心配ですわ」

「エリカはスリムじゃないか」

「油断してるとすぐ太ってしまいますのよ?
 またテニスでもやろうかしら」

マリン用のケーキは、太盛の誕生日よりも上等なものを
後藤に頼んである。長かったマリンの風邪が無事治ったこともあり、
盛大に誕生日を祝うつもりだった。

厨房では高級食材を遠慮なく使い、洋食中心の品が用意されていく。

これからイベントが始まる。そのわくわく感で夫婦レナやエリカは
浮足立っていた。山籠もりが趣味のJ・Cも今日の夕方には
館に帰ってくる予定だ。

「はぁ……なんか最近なにやってもむなしいのよね。
 やる気でないなぁ」

カリンはソファで一日中ふてくされていた。

早めの反抗期を迎えてしまったので、父にもあまりなつかなく
なってきた。前回のユーリとの浮気を知ってから、父と距離を
置くようになった。能天気なレナと父にべったりなマリンのことも
心の中で馬鹿にしていた。

(どうしてママはパパとイチャイチャしてるの?
  全然理解できない。パパって優しいけど、ドラマに出てくる
  浮気性の男そのものじゃん。ちょっと軽蔑しちゃうな)


エリカは太盛と片時も離れようとしない。
廊下を歩く時でさえ手を組んでいたほどだった。
朝起きてから寝るまでに何度もキスするのが日常だった。

キスしているところを子供たちに見られたこともある。
エリカは全然気にせず、どんどん太盛といちゃつくものだから、
ユーリが近づく暇を与えなかった。

そのためユーリが仕事以外のことで太盛に近づけることは
ほとんどなくなっていた。エリカの作戦勝ちともいえる状態だ。


「秩父って素敵なところですのね。東京の奥多摩もこんなに
 自然がきれい。カヤック体験とか、星空展望とか素晴らしいですわ」

行けもしない観光地を夢見て、夫婦でるるぶを広げている。
女性向けの華やかな観光案内がされていて、エリカは興味津々である。

太盛はおばあさんの実家が秩父に近い場所なので、
親近感を感じていた。

「バーベキューとか憧れるね。鳥もたくさんいそうだ」

「太盛さんは鳥のことばっかりなんだから。
 本当にお好きなのですね」

「鳥も好きだけど、食べ物にも興味があるぞ
  天然水で作ったかき氷とかいいね。
  レナがテレビで特集してたって言ってたよ」

「大自然の中で食べるかき氷って素敵ですわ。
  あとこれ、高尾山のロープウェイで楽に頂上まで……」

吐息がかかるほど至近距離で話していた。
もちろんこの部屋にはごろ寝しているカリンもいるのだが、
完全に気にしていなかった。

(夫婦のイチャラブ、うっぜ。
 子供の見てる前でやるんじゃねえよ)

カリンは早熟なのでそろそろ彼氏がほしくなる時期だった。
恋愛ドラマやアニメを見ては、たくましい妄想をする日々だった。


「あー、おじいちゃん? どうしたの急にぃ!?」

廊下からレナのよく通る声が聞こえて来た。

(おじいちゃん? 鈴原のことじゃないわよね?)

耳の良いカリンがソファから立ち上がり、食堂前の廊下へ行ってみると
驚くべき光景が広がっていた。なんと、太盛の父である金次郎から
電話がかかってきたのだ。時はパーティ開始一時間前である。


党首からの電話を知った大人組は騒然となり、太盛はパニックを
起こしそうになった。

党首はマリンの誕生日に向けてメッセージを送りに来たのだ。
すぐにテレビ電話の用意を始める。

リビングから運んできたノートPCを
巨大な液晶パネルにHDMIで接続して、準備完了した。

エリカは外出中のジョウンに連絡して15分で家に戻ってもらった。
使用人も含めて全員が着席したことを確認すると、いよいよ
党首の話が始まる。


党首はマリンの誕生日を無事迎えたことを祝福し、使用人たちには
日頃の勤労への感謝の言葉を述べた。

「君たちを雇った私の眼に狂いはなかった。
  ふがいない息子とその家族をここまで支えてくれたことを
   心から感謝する」

着席した大人組はテレビ画面の向こうの党首に
恐縮しきっており、一歩も動かないほどだった。

レナとカリンはリラックスしていて、マリンだけは
大人たちと同じように行儀をよくしていた。


金次郎は白髪を撫でるようにオールバックにしており、
一見するとやくざの親分にも見える。高級スーツに身を包んでおり、
背は同年代の平均よりもやや小さい。目つきの鋭さは
ナポレオン将軍のようだと取引先の外国人からよく言われていた。

意思に迷いがなく、また自らの決断に絶対の自信を持っている。

金次郎は、自分の命令通りに動けない人間は、たとえ
その計画に無理があったとしてもその人間に問題があると考えていた。
そして、それを認めさせるだけの業績を今までに築き上げてきた。


社長の地位を次世代に引き継ぎ、現在は会長をしている。
初老ではあるが、凡人を超越した軍人的な威圧感は健在である。

金次郎は笑顔を作ることはないにしても穏やかな表情であった。

しばらくは祝辞の言葉を壇上で述べていて、
ほがらかな雰囲気だったのだが、やがて青空に雨雲が
接近するかの如く変化していく。



「さて、諸君。今後のことについて大事な話がある。
 この食堂には太盛とエリカ君とジョウン君のみ
 残りなさい。申し訳ないが、他の者は席を外してくれたまえ」

この言葉の強制力は半端ではなかった。

全員が同時に返事をして、使用人一同は急ぎ足で去っていった。
レナとカリンも同様である。マリンだけは残り、不思議そうに
見つめる金次郎におじけづかずにこう言った。

「私も、話に加わりたいのです。いいえ。聞いているだけで
  かまわいませんわ」

エリカは射るような眼でマリンをにらんだ。
党首は理由があってエリカたち三人を残したというのに、
子供が出てくる幕ではないからだ。ジョウンも母として
娘の勇気を称賛しつつもあきれていた。

「……大人たちの話し合いになるから、内容は少し難しくなるが、
  それでもかまわないのかね?」

真剣な顔で問われ、マリンは首を縦に振る。

金次郎が家族たちと会話するのはエリカと
ジョウンの出産祝い以来の10年ぶりとなる。

成長したマリンを一目見て、凡俗とは違うと見抜いたからこそ、
金次郎はマリンに話し合いの席にいることを許した。







「さて。諸君」

金次郎が飲んでいたコーヒーカップを置く。

「君たちはこの島での暮らしがいかに危険かを
 身をもって味わったはずである。
  前回に起きた、ルイージ君の襲撃事件についてだが」

長テーブルの上座側に液晶がある。金次郎に対し、
右手側に太盛、マリン。左手側にエリカ、JCが座っている。

「私は君たちを叱っておこう。君たちが警戒をおこたったために
  ルイージ君という国際スパイの侵入を許してしまった。
   私が用意しておいたソ連製の迎撃システムを効果的に
   運用できなかったためだね。違うか?」

エリカは迎撃システムに関して言い訳をしたいと思ったが、
口にはできない。ルイージは規格外のスパイで、
とても民間人が侵入を防げるレベルの相手ではなかった。

「恐れ入りますが、お父さん」

と太盛がエリカに変わってルイージの異常性を説明した。
実の親子だからこそ言いたいことを遠慮なく言えるのだ。

「つまりおまえは、今回の件はルイージが優秀すぎた。
  迎撃システムの性能とか、そういう次元の話ではないと。
   そう言いたいのか?」

「はい……」

うつむいている太盛に対し、金次郎は一言

「この、馬鹿者が」

と言った。声を荒げたわけではない。

それなのに太盛は心臓をぎゅっと締め付けられるほどの衝撃を受けた。

「話が変わるが、例えば中国の海兵隊が尖閣諸島を瞬時に武力占領したら
  それも相手が悪かった、で済ませる問題なのか?」

「それは……」

「ここは日本海であり、長崎県の沖合だ。佐世保には日清戦争時代に
 作られた要塞が今でも残っている。極東とは日中韓、北朝鮮、
  ロシアと軍事強国がせめぎあう火薬庫だ。この島は極東の
  軍事バランスを左右する立地にあるのだ」

たじろぐ太盛に対し、父はさらに責める。

「この島の迎撃システムはお前たち家族の身を案じて
  私が出資したものだ。軍事設備は、使用されない限り意味がない。
   見返りのない投資と同じ。減価償却のできぬ設備投資と同様。
    おまえは父の投資を無駄にしたのだ。違うか?」

「お父さんのおっしゃる通りだと思います……」

「どんなモノにも用途がある。使えなければただのガラクタだ。
  人の頭脳や手足も同じことよ。太盛。貴様の手足はなんのために
   ついている? よく考えてみるがいい」

「はい……」

「国防論の名著は大学3年の時に渡しただろう?
  読んでないわけではあるまいな?」

「もちろん読みました」

太盛はいつまでも続くと思われる説教に耐える覚悟はできていた。
実際に父の話は長く、下手をしたら日付が変わるまで
続いてもおかしくないと思われるほどであった。

太盛はただ頭を垂れて父の言葉を聞くふりをしている。

「次にナツミ君だが」

「はっ、ふぁい」

まさか自分に振られると思っていなかったジョン・クッパ(本名はナツミ)が
間抜けな声を上げてしまった。

「君には私から感謝の言葉を述べておく。
  ルイージを直接戦闘不能にしたのは君だ」

「あ……ありがとうございます」

「君の武術は実に見事だと何度も聞いているよ。
  どこかで武道を習った経験があるのかね?」

「いいえっ。ほとんど独学でございます」

「なおさら素晴らしい。ならば、今度マリンたちにも
  指導をしてやってくれないか?
   孫たちも自分の身は自分で守るしたたかさが必要だ」

「かしこまりました。御父様」

クッパは緊張のしすぎで口が渇いていた。
あの傍若無人を絵に描いたような野生児のクッパでさえ、
一流の起業家の圧力には到底かなわなかったのだ。

「次にエリカ君」

「はい」

「君のルイージ君への尋問も見事だったようだね。
  彼をソ連系と見抜いた洞察力、とっさにロシア語で
   尋問する機転。どれも素晴らしいよ」

「ありがとうございます。
  わたくしにはもったいないお言葉ですわ」

「ルイージ君は日本の外務省を通して外交ルートで
  北朝鮮政府へ返還した。ちなみに政府はマスメディアへ
  報道規制をかけたので国民の大半はまず知らないだろうが」

「そうだったのですか……。どおりで。長崎警察へ
  引き渡したあとに情報が何も入ってこなかったわけですわ」

「ルイージ君は元KGBのスパイだから、生半可な拷問では
 口を割らないのだがね。最悪自殺する場合もある。
  ユーリ君を救ったのはエリカ君の働きによるところが大きい」

「そんな……。いくらなんでも褒めすぎですわ。御父様。
  みんなで戦って守った孤島での生活ですから」

「謙遜することはない。誉め言葉は素直に受け取っておきたまえ。
  わしは嘘を言わない主義だからな。さて……」

次に金次郎は太盛をにらむ。エリカの時とは全く違う表情だ。

「それにくらべて。おまえは何をしていた?」

矢のように突き刺さる言葉だった。

「おまえの妻2人は、形は違うが家族と使用人を守るために
  懸命に戦った。おまえはどうなのだ?」

太盛には、返す言葉はなかった。

父の言うことはいつも正しい。
そして本人の一番弱いところを突いてくる。

「父の与えた学業への投資、おまえに付けさせた教養はすべて無駄だったのか?
 いざという時に役に立たない人間は故障した機械と同じ。まさに
 ガラクタだ。息子の不出来で私をこれ以上悲しませないでほしいものだな。
 母さんが聞いたらどれだけ悲しむことであろうか」

「すみません……」

太盛は唇をかみしめ、さらに言った。

「早く一人前の人間になれるよう、もっと精進します」

この光景に一番衝撃を受けていたのはマリンだった。
マリンは父がここまで辛そうにしている顔を
見たことがなかった。

優しくて穏やかだったあの父が、
親に怒られて縮こまっている姿を見せられているのだ。
やるせなかった。できるなら父の素晴らしいところを
いくつも説明してあげたかった。

だが、権力者の前で何も言い返すことはできなかった。

その気持ちはエリカとジョウンも同じだった。


「太盛、顔をあげなさい。私は、おまえに長男としての
  自覚を持ってもらいたくて話をしているのだ」

太盛は言われた通り顔を上げたが、
恐怖で眼の焦点が合わない。

「この孤島生活を支援するために金に糸目はつかないつもりだ。
  定期船も休まず行かせ、不自由ない生活を送らせているだろう?
   太盛よ。お前たち家族と使用人たちは生活の糧を得られるのだよ。
   この私が生きている限りはな。だが、防衛となると話は別だ。
    九州から一番近い位置に北朝鮮という最大の敵国が
    いることを忘れるでないぞ」

「あ、あの。お父様、発言してもよろしいでしょうか?」

とクッパが聞いたので党首は許可した。
いつもの雑な口調でなく、エリカの見様見真似の
お嬢様口調であった。

「お父様は北朝鮮や防衛問題を頻繁に口に出されておりますが、
  それはこの島が北朝鮮からの攻撃や拉致被害などに
   あいやすいからなのですか?」

「君はまるで記者のような質問をする……。ふむ。
 マリンに知性が宿っているのは君のためかな。
 さて、質問に対する答えだが、ずばりそのとおりだ。
  もっとも、攻撃にあう可能性が高いのは日本本土だよ」

『なっ!?』

さすがに全員が驚愕した。確かに北朝鮮の最高権力者が
入れ替わってからこの数年間、ミサイル発射実験を繰り返してはいる。
しかし、現実のものとして戦争の可能性など考えられなかった。

最大の理由は核の抑止力である。在日米軍と日米安保がある限り、
日本を攻撃する国には、米国からの核ミサイルの反撃の可能性がある。

「北朝鮮の保有する生物化学兵器の保有数は実に世界第三位。
  ミサイル保有数は大小合わせておよそ1000発ともいわれている。
   そのうち何割が核で、実際の射程距離がどの程度か、
    現段階で明らかなことは分かっていない」

さすがにそれは過大評価ではないかとエリカは疑った。
太盛も同じだった。朝鮮が軍事一辺倒な国とはいえ、
GDPや国民の生活水準が低く、対中貿易が9割を占めるという、
経済的には破たんしている国家だ。
強制収容所では20万人が酷使されている。

エリカが言う。

「危険でしたら、なおさらこの島で暮らす意味は
 ないのではないですか? 恐れ多くもお父様が用意してくれた
 迎撃システムをどんなに磨いても完璧な防衛はとても不可能です」

「いや。意味はある」

「それは、どのような?」

「これは私の推測であるが、おそらく10年以内に北朝鮮、韓国、日本は
 交戦状態になる。韓国と日本の主要都市は半分以上が攻撃される。
  つまり本土は核、毒ガスなどの科学兵器で汚染され、地獄になる」

エリカと太盛は父の正気を疑った。
おとぎ話の世界を語っているようにしか見えなかったのだ。

顔に出さないよう、2人ともうつむいて考え事をしてしまう。
歴史に詳しい夫婦の脳裏に出て来たのは、東西冷戦が
核戦力の均衡によって数十年間維持されたこと。
地獄のキューバ危機でさえ、対話で分かりあうことができた。

父の考えは歴史を否定しているようにしか見えなかった。


しかし、金次郎は確かな権力者である。
金次郎の傘下にある企業は世界中の拠点を持っている。
年齢は今年で68。太盛を生んだのが35歳と遅かったのは、
今の妻と結婚したのが31の時と晩婚だったためだ。

その彼が戦争の危機を大真面目に語っているのである。
面と向かって意見を否定する勇気は誰にもなかった。

ここでマリンが初めて声を出した。

「もし攻撃されるとしたら日本のどのあたりなのですか?」

「大阪、神戸、名古屋、福岡、長崎、広島、沖縄がそうであろう。
  日本海近郊は敵軍がもっとも攻撃しやすい地点であり、
   戦前からもっとも警戒されてきた地域だ。
   開戦したら西日本は東日本大震災よりも悲惨な状態になる」

「それは、日本は敵に滅ぼされるということですか?」

「逆だ。最終的に米韓連合軍主力が国境を越え、さらに海岸からも
  上陸し、ピョンヤンを陥落させてこちらの勝利となる。
  最終的にはな。なにせ陸海空軍の戦力は圧倒的にこちらが上だ。
   ただ、勝ったところで国土が荒廃しては意味がないのだよ」

「おじいさまが言いたいことは、そうなった場合に
  この島のほうが安全だというのですね」

「その通りだ。この島には軍事的な攻撃目標が何もない。
  ただの孤島だからな」

次にエリカが聞いた。

「恐れ入りますが、お父様は本気で戦争の可能性を考えてらっしゃる?
  お父様ほどのお方ならば米国の内務省にお知り合いが
   いてもおかしくはありませんわ。ずばりお聞きしますが、
   その戦争とは、米国海軍の先制攻撃から開始されるものですか?」

「軍事とは、可能性の学問である。政治も同じようなものだ。
  具体的な返答をすることをこの場では拒否させてもらおうか。
   私が述べたのはあくまで可能性である。可能性だ。
    君ほど聡明な女性ならば、これで言いたいことは伝わったと思う」

「はい……」

「会長とはいえ、多忙な身でね。これ以上のお説教は息子にも
  悪影響かもしれないな。そろそろ失礼させていただこう」



テレビ電話が終わった後、太盛はストレスと心労で部屋のベッドで横になった。
電話の時間は一時間ほどであったから、食堂では予定通り誕生日パーティが
始まっている。太盛は楽しみにしていた誕生日会に出席できず、ベッドで悔し涙を流した。

ルイージ事件の残した傷跡で一番心を痛めたのが太盛であった。
もともとメンタルの弱い彼は、幼少のころから父に叱られるたびに
部屋にこもって何日も音楽を聴き続けて自分を慰めていた。

マリンと妻たちの前で長々と説教されたのもショックだった。

(お父様は大丈夫なのかしら……)

マリンは父のことが気になり、贅沢なお肉やケーキをたんたんと食べていた。
エリカとジョウンも表情が沈み、主人たちの心情を察したメイド2人も
明るく振舞うことはできなかった。

会場の雰囲気は恐ろしく暗い。レナとカリンは母の機嫌を損ねないようにと、
可能な限りお上品に食べる。それでも子供なので
心の中では豪華な食材が並ぶバイキングを楽しんでいたのだった。

こうしてマリンの誕生日が終わった。
ルイージ事件の傷跡は、太盛の心をさらに変えてしまうのだった。


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