「マリンの誕生日」A

文字数 6,227文字

マリンは2月28日に生まれた。父は同じ月の22日である。

太盛は生まれつき喉(のど)が悪く、真冬の乾燥した空気で
喉(のど)をやられてしまい、喉風邪をこじらせることがよくあった。

長い時で丸二週間も風邪が続いたこともある。

父から喉の弱さが残念なことに娘のマリンへと遺伝してしまい、
誕生日を2週間後にひかえた今日、風邪で寝込んでいた。


「ユーリ。マリンの熱は下がったのか?」

「今は平熱より少し高いほどです。
昨日から高熱は出ておりませんので、発熱は問題なさそうです。
それよりも声の調子が悪いですわ。
  のどのはれが治らないので話すのもつらいようです」

太盛とユーリが声をひそめて話している。
ベッドで寝ているマリンを起こさないようにと、身を寄せ合っていた。

マリンの部屋はカーテンがしかれ、日の光は入らないようにしている。
時刻は夕方。マリンは食べるとき以外はほとんど寝て過ごしているのだ。

「そっか。ひどいな……。あんまりひどいようだと
 本土から医者でも呼ぶか?」

太盛の顔が怖いくらいに真剣だったので、
ユーリがやんわりとした口調で諭すように言った。

「今は薬が効いて落ちついていますから。それに風邪はいつか治りますよ」

「しかし……細菌性の風邪だったらどうする?
 やっぱり心配になっちゃうよ。館の常備薬だけで良くなるんだろうか?」

「大丈夫です。マリン様が風邪をひいて一週間たちますが、
  少しずつですが、様子は良くなっていますよ?
  高熱が出たのも最初の三日間だけでしたし、
   ご飯だってきちんと食べておられますよ」

ユーリの母のようにやさしく、また理性的な目で言われたので
太盛は納得した。太盛がユーリに恋していることもあるが、
彼女の聡明さを心から尊敬していた。自分より4つ年下とは
思えないほど大人びているのだ。

「お父様達……そこにいますの?」

枕から顔を上げるマリン。眠気のため、まぶたは半開きだ。

斜光カーテンで外界と区切られた室内は夜のように暗い。
マリンは寝てばかりの生活なので昼と夜の区別もつかないのだ。
ベッドサイドの目覚まし時計を取る。

「夕方の5時ですのね。夕飯の時間まで、まだ少しありますの」

「起こしちゃってごめんねマリン」

「いいえ」

「パパたちがいると迷惑じゃないか?」

「そんなことはありませんわ。一日中ベッドの上で過ごしていると
 気が滅入りますもの。今日は十分寝ましたわ。
 夕飯の時間までお父様とお話しをしたいです」

「無理して話さなくていいんだよ? 喉が痛くてつらいだろう?」

「お水をたくさん飲めば、それほどでもありませんわ」

部屋にはペットボトルが用意されていたのだが、すでに空になっていた。
太盛が目配せして、ユーリに新しいペットボトルの水と
コップを持ってきてもらった。

「それでは私は食事の準備がありますので、これで失礼いたします」

「いつもありがとうユーリ。マリンの夕食は少し早めに
  持ってきてもらえると助かるよ」

「承知いたしました」

ユーリが丁寧に扉を閉めると、親子は2人きりになった。

太盛はベッドのわきに腰かけて娘のおでこへ手を伸ばした。

「うん。熱はなさそうだね」

「たぶん温度計で測っても平熱だと思います」

実際に計ってみたら、なんと35.9℃だった。
マリンは平熱が低いほうなのである。
熱だけなら風邪をひいているとは言えないだろう。

だが、全身の倦怠(けんたい)感、頭痛、やのどの炎症などは続いている。
熱がないのでお風呂にはいれるのが幸いだった。
マリンは綺麗好きなので毎日お風呂に入らないと気が済まないのだ。


「毎日天井ばかり眺めていてウツになりますわ。
  たまには本が読みたいですの」

「風邪をひいている時に頭を使っちゃダメなんだよ?
  本を読むのは集中力が必要なんだ。
   読むなら治してからにしなさい」

「むー。ユーリにも同じことを言われましたわ」

ユーリはマリン専属メイドで教育係も兼任しているので
看病は基本的に彼女がやる。太盛は真冬で外の仕事がほとんどないため、
ユーリにくっついてマリンの看病を手伝っていた。

「お父様。冬は虫がぜんぜんいませんわ。あのうっとおしい蚊も、
  12月を過ぎれば消えてしまいますの」

「虫や昆虫の類はある程度の暖かさがないと地上で暮らせないのさ。
  中には地中に潜って冬をやり過ごすのもいる」

「冬眠のことですか? ならマリンのお母様も同じですわね。
 雪山で地中に穴を掘ってカマクラ?を作って生息していますの」

「あれは……いろいろ規格外だから話題に出すのはよそう……。
  それより冬は家で読書するのが楽しい季節だね」

「私はお父様とリビングの薪ストーブで暖まりたいですわ。
  そして本を読んでもらいたいんですの。絵本でいいです」

「絵本か。昔は寝る前によく読んであげたね」

「夢でお父様が読んでくれたシーンがよみがえりましたの。
  あのグリム童話の絵本。小説版も読みましたけど、
  本当は幼児向けではなく、すごく残酷なお話」


グリム兄弟が、ドイツに古くから存在した数々の昔話を
一つの本にまとめたことから、グリム童話という名がついている。
日本では赤ずきんや白雪姫などが有名である、

原作ではどの作品も劇中の人物がむごい死に方をするのが特徴だ。
拷問や虐待、虐殺など。悪役に設定された人物には
最後に容赦のない仕打ちがなされてハッピーエンドとなる。

「マリンは原作版の小説も読んでしまったのか。
  ああいう話は大人でも苦手な人が多いんだけど、
  怖くはなかったかい?」

「いいえ。グリム童話はすごく現実感のある小説だと思いました。
  ファンタジー風にぼかした、子供だましの作品を見せるのは
   日本の悪いくせだと思います。本場のドイツではあの手の
   お話をおばあさんが孫に言い伝えていたのでしょう?」

「まあ。そうだね。向こうは文化が全然違うから。
  獅子はあえて子を谷底に突き落とすを地で行く国だよ。
   ドイツの母親はね、子供が風邪をひくことを怖がらないんだ」

「どうしてですか?」

「小さいうちにどんどん風邪をひいて、体に免疫をつけさせるためさ。
  涼しい時期でも森へ子供を連れてどんどん遊びに行く。
  日本のママなら子供が風邪ひいちゃうからって
 遠慮するだろうけど、ドイツ人はむしろ積極的に遊ばせる」

「そうなのですか。ドイツは森と親しむ民族と聞きますからね」

「ユーリが言ってたな。カナダのユーコン川でカヌーを楽しんでいるのは
  八割がドイツ人だって。なんでカナダにドイツ人があんなに
   たくさんいるか不思議だって言ってたよ」

「カヌーも楽しそうですね。いつか乗ってみたいですわ」

「クッパが樫の木で作ったカヌーがあるはずだよ。
 マリンと二人で乗れる大きさだから、
 春になったら乗ってみようか?」

「はい。今から待ち遠しいですわ」

川からの自然の眺めは、地上からの景色とは全然違うのだと
太盛が言う。マリンは目を輝かせた。

マリンは布団を肩までかけた状態で、枕の上で顔を横にしている。

もっと父と話がしたいと思って
上体を起こそうとすると、めまいがする。
息を大きく吐いてから枕に頭を沈めた。

「マリン。無理しちゃだめだよ。横になってなさい」

「うぅ。早く健康な体になりたいですわ」

トントンと控えめなノックの音。

ユーリが来たのかと思って太盛が扉を開けると、
自分の妻の顔がそこにあった。


「太盛様ぁ。今日もマリンちゃんのお世話に夢中になって
  お夕飯の時間を忘れてしまいましたか?
  私は食堂で太盛さんが来るのをずっと待っていましたのに」

皮肉っぽいエリカのセリフに太盛はむっとしたが、

「ああ、確かにもう6時を過ぎているな。
 僕はあとで行くから、先に食べててくれ」

「それはいけませんわ。家族そろって夕飯を食べるのが
  館のルールです。これは家族のきずなを深めるためだからと、
  父上殿が奨励された決まりではないですか」

父の名前を出されると辛かった。太盛は仕方なくエリカに
着いていくことにした。実際に食堂にはレナカリ姉妹もいる。

「太盛様をお借りしちゃって、ごめんなさいねぇ。マリンちゃん。
  もうすぐユーリがお食事を運びに来ますからね」

「私は一人でも構いませんわ。
どうせ食べたらすぐ寝てしまいますから」

この会話のやり取り中、互いの視線に火花が散っていた。

マリンはこの部屋で父と一緒に食事がしたいと思っていた。
一食くらいユーリに頼めば簡易テーブルごと運んでくれる。
それに太盛は子煩悩だから喜んで一緒に食べてくれるのだ。

それを分かっていたから、エリカはわざわざ太盛を呼びに来た。
たとえマリンが病気中でも仲の良い親子が二人きりなのが
気に入らないので邪魔をしに来たのだ。

(あの小姑め……)

とマリンが心の中で毒づくのも無理はなかった。


マリンは食事のあと薬を飲んで眠りについた。
一度眠るとなかなか起きない体質なので朝まではそのままだ。
太盛は心配で居ても立っても居られない。

マリンの様子を見に行こうと2階へ足を運ぶ。
すると廊下の反対側からユーリが歩いてきたので話しかける。

「マリンの風邪、ずいぶん長引くね。熱はなくても
  めまいやのどの痛みは、ほとんど治っていないじゃないか。
  しつこいようですまないが、薬を変えてみたらどうかな?」

「太盛様。焦る気持ちは分かりますが、病気は薬の力
  だけで治すものではありませんわ。薬は対症療法にすぎません。
   病原菌を治すのは本人の治癒力です。
    これを高めるためには十分な栄養と睡眠が必要なのです」

「そ、そうか。マリンは食欲も出て来たし、良くなっているんだよな?」

「うふふ。その通りでございます。
  今日の夕方も太盛様と楽しそうにおしゃべりをされました。
   病は気からと言いますから、お子様思いなお父様が
    そばにいてくれれば、すぐ良くなりますよ」

「ありがとう。ユーリ。
君に優しく諭されるとすごく安心する」

「あっ。太盛様、こんな場所では……」

衝動で抱きしめてしまう。困り顔のユーリが太盛の腕の中で
小さく抵抗をする。ここは子供部屋の前の廊下だ。
すぐ近くにレナカリ姉妹の大部屋があるのに、軽率な行動である。

舞い上がると空気が読めなくなるのが太盛の悪い癖だった。


「太盛……。また誰かに見られたら悪いうわさが立つじゃない」

「ご、ごめん。つい夢中になっちゃって」

太盛が軽くキスをした時に耳元でユーリにささやかれて
ようやく我を取り戻した。もっとも、一番知られてはいけない
エリカやジョウンにはすでにバレてしまっているのだが。

「ん?」

太盛が後ろを振り返る。
階段のほうから物が落下したような、にぶい音がしたのだ。
夕食後の落ち着いた夜の雰囲気には似合わない音だった。

「なんだ? 誰か階段で転んだのかな?」

「さあ……? 私にはわかりませんわ」

ユーリはあえて口には出さなかったが、最近屋敷を歩くときに
エリカに尾行されることが多いことを知っていた。エリカは
浮気の現場を生で見るために尾行しているのだが、見るだけで
何も言ってこないのが逆に怖かった。

今の音は、逆上したエリカがその辺の物に八つ当たり
をしているのだろうと思った。


「太盛様。まもなく8時半になりますので
 お風呂にお入りください」

「え? 少し早くないか。いつもは9時過ぎに入るのに」

「いいから、今日はお早めにお入りください。
  お湯は沸いておりますわ」

「レナ達はあがっているのか?」

「はい。もう自室で休まれていますわ」

「んー。そこまで言うなら分かったよ」

多少強引だが、太盛を自分から引きはがしたユーリ。
お風呂に入ってほしいというのは方便であり、遠くからコソコソ
こちらの様子をうかがっているエリカの視線が怖かったのだ。

太盛が去った後、エリカが廊下の隅から姿を現した。

笑顔である。おかっぱに近いショートカットヘア。
クセのないストレートの黒髪だ。普段着の和服を着こなし、
まるで背の高い日本人形がそのまま歩いているかのようだった。

細い2つの眼がユーリを射抜くように見ている

「ごきげんようユーリ。今日もお勤めご苦労様」

優雅な口調だが、声に重みある。

ユーリは一瞬たじろぎ、ついにこの時が来たのかと身構えた。

「今日太盛さんと一緒にお風呂に入ろうと思っているのよ。
  たまには、夫婦らしいことをしても罰は当たらないわよね?」

「それは……そうでございます」

「うふふ。くれぐれも邪魔はしないでいただきたいわ。
  わたくしたち、夫婦が二人でいるときは……ね?」

「かしこまりました。奥様」

「それと、主人が気になって仕方がないみたいだから、
 マリンちゃんの風邪も早く治すよう全力を尽くしなさい。
  適切な治療は施しているのでしょう?」

「はい。医療の知識のある鈴原にも協力してもらって
 おりますので、ぬかりはありません」

「あらそう。ならばいいのよ。
  うふふ……。私もあなたくらい髪を伸ばせば主人に
   優しくしてもらえるのかしら。ねえ、あなたはどう思う?」

嫌味を言われ、何も返せないユーリ。
どう返事をしてもエリカを不愉快にさせると思ったからだ。

怖さのあまりエリカの顔を直視できなかった。
浮気のことを口に出されれば、明日にでも解雇される恐れがある。

主人の妻であるエリカは、使用人の管理をする立場にある。
本来なら太盛の仕事なのだが、太盛はユーリ達を使用人扱い
したくないので、彼らの仕事ぶりのチェックなどしたくなかった。

それに外仕事をするのが大好きなので、屋敷内の管理は
エリカに任せている。

2週間に一度島を訪れる定期船とのやり取りも
基本的にエリカが行って生活必需人を館に届けている。
必要なものがあれば島の外と電話やネットでやり取りしている。

ホームスクールで子供たちに受けさせるテストの採点をするのは
エリカである。授業はメイド達に任せるから、採点係がエリカなのだ。
娘の成績は党首である太盛父に報告する義務がある。

島暮らしでは海上監視も仕事の一つだ。
ルイージ時事件以降、エリカは鈴原、ミウと共同で監視を行っている。
地下の迎撃システムにはレーダーと隠しカメラの映像で確認できる。

監視塔ではもっぱら望遠鏡と双眼鏡を使う。
島周辺の海洋生物や鳥などの調査にも使える。
風や波の状態を知るのにも便利である。

話が脱線した。ユーリが黙り込んだシーンへ戻る。

「あらあら。そんな引きつった顔をしたら
  美人さんが台無しよ?」

「い、いえ。私は奥様ほど美しくありませんので」

エリカは小声で、よく言うわ、とつぶやいた。

「そんなに謙遜(けんそん)しないで頂戴。
  私は別にあなたを取って食おうと考えているわけではないの。
   太盛さんが望むなら、あなたはずっとこの屋敷で働いて
   くれてかまわないのよ?」

ユーリは何も答えない。言葉を慎重に選ぶあまり、
つい無口になってしまう。エリカは言葉通り本当にユーリを解雇する
つもりはないのだが、言われた本人のユーリは彼女の本心を
分かりかねていた。

ユーリは、エリカとクッパの話し合いの結果を知らない。
浮気をしばらく放置すると決めたことである。

「私と太盛様の分の着替えを用意しておきなさい。
   少し長いお風呂になるかもしれないけど、かまわいわね?」

「はい。それは奥様の自由でございますので。
  着替えはすぐにご用意いたします」

エリカは、お願いね、と言って立ち去った。

怒りのエリカが去った後、ユーリは気が抜けて
大きなため息をついたのだった。
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