三十二

文字数 2,261文字

 エンジン付きのボートで島に降り立った。台南の船宿で最近、日本字を乗せたという情報を聞き、すぐにハダケンゴだと確信した。同じ島に渡してもらったが、急がなければハダケンゴに先を越されてしまう。ハダケンゴは孫小陽を探しているが、父の敵だという確証はないはずだ。ただ孫小陽が『白月』を所有していることは知っている。恐らく、ハダケンゴも白月を手に入れるつもりだろう。ハダケンゴのことだから、その場で孫小陽を殺してしまうかもしれない。それだけは避けたかった。リュウにとっては、両親が殺害された事件の真相を知る唯一の手掛かりだった。ハダよりも先に探し出して、事件の真相を聞き出したかった。ちなみに孫小陽自身がタザキノボル、タザキヨウコをパリで殺害した可能性は低い。その当時、孫小陽は日本にいた。それは、兄タザキショウから聞いている。それが救いだった。今は一刻も早く、孫小陽を見つけ出さなければ大変なことになる。
 島の北の街で、ハダケンゴの情報に行き着くのは簡単だった。どのホテルにもハダケンゴは昨日訪れていた。幾つかのホテルで、島の南側に向かったという情報を得た。島の南側に行く方法を調べると、北と南を往復するバスがあることがわかった。バス会社に行くと、昨日から運転手の一人と連絡が取れなくなっているという。そして、もうすぐ出発する便があると知り、飛び乗った。リュウの他に客はいなかった。
 定刻を大幅に過ぎてバスが発車した。舗装はされているが、田舎の一本道のような風景が続く。途中でバスが停車し、一人の男が乗ってきた。よく見ると日本人だった。日焼けした現地人に比べ肌が白く、ガリガリに痩せて服がダブついている。無精髭が伸びて汚らしいが、堀が深い顔も現地の台湾人らしくない。男は腕に四角い板のようなものを抱えていた。リュウにはそれがキャンバスだとわかった。後部座席でその男を観察していたが、どうも挙動がおかしい。何度も席を移り、こちらの様子も気になるようだ。島の南側に入り、海岸線が見えてきた辺りでリュウが話しかけた。
「あんた、日本人か?」
 男は振り向いただけで答えなかった。視線が定まっていない。
「俺の言葉がわかるんだろ? あんたが持ってるそれ、キャンバスだろ?」
 振り向いたが目を合わせようとしない。抱えているキャンバスを座席の下に隠そうとする。何かに怯えているようだった。
「あんた、南に住んでいるのか? だったら孫小陽という台湾人を知らないか? コバヤシという日本人絵師でもいい」
 男と初めて目が合った。
「今、何と言った?」
「コバヤシという日本人を探していると言ったんだ」
 すると、男は声を殺すようにして笑い出した。
「何故、そいつを探している?」
「俺の目的は孫小陽という男だ。コバヤシという日本人が孫小陽の居場所を知っていると聞いた」
「では何故、孫小陽という男を追っている?」
「お前には関係のないことだ」
 男の眉間に皺が寄り、チッと口を鳴らした。
「なら、お前の探している男など、俺には関係ない」
「話題を変えよう。お前が抱えているその絵は何だ?」
 男が苦笑する。
「お前にこの絵の価値がわかるのか?」
 そう言って、男がキャンバスを包んでいた画布を取った。
 リュウは目を大きくした。
「ユトリロじゃないか!」
「ほう、わかるのか?」
「わかるさ、よく見せてくれ。これは凄い。まぎれもない真作。まさかこんなところでユトリロの真作に出会うとは」
「何故、真作だとわかった?」
「前に、上海の絵画オークションで、ユトリロの真作を見たことがある。ユトリロの白。その時の白と一緒だ」
「少しは知っているようだな。これまでに出会った白の中でも、こいつは素晴らしい。俺たち絵描きの中でも、白だけで言うなら、ユトリロとタザキは別格だからな」
「タザキノボルを?」
「ああ、知っている。白い月の絵は最高だった」
「お前、白月を見たことがあるのか?」
「勿論だ。タザキの贋作は俺が描いた」
 リュウが苦笑する。
「なるほど、お前がコバヤシというわけか」
「ああ、そうだとも。俺がコバヤシだ。ところで、そういうお前は誰だ?」
 コバヤシの目を見た。
「俺の名はタザキリュウ。タザキノボルは俺の父だ。俺は奪われた亡き父の絵画を探している。そして、その絵を孫小陽が所有していると知って、奴を探している」
 コバヤシの視線が突き刺さる。
「お前が、タザキノボルの息子だと?」
「コバヤシ、今、孫小陽はどこにいる? 俺をそいつの所まで連れて行ってくれ、頼む」
「確かに孫小陽は今、俺のアトリエにいる。そかし、このままお前を連れて行くわけには行かない。お前が彼に暴力を振るわないという保証はないからな」
「俺が孫小陽に会うのは、暴力で奴から絵を奪い返すためじゃない。実は今、この島に
もう一人日本人が来ている。そいつも孫小陽を探しているが、そいつの目的は敵討ちだ。奴に先を越されたら孫小陽の命が危ない。奴の名はハダケンゴ。以前、目黒の画商で、自宅ギャラリーで自殺したハダケンゾウの息子だ」
 コバヤシが黙って考え込んでいる。
「目黒の画商と言ったのか?」
 リュウが頷いた。
「思い出した。あの時のこと・・・・・・しかし、あれは違うんだ。あれは彼がやったんじゃない。確かに彼は目黒の画商に白月の贋作を売り逃げしようとした。けれども、事件の後にギャラリーに残されていたのは紅い月の絵だった。あれは別の絵画の贋作だ。私は紅い月の贋作など描いたことがない。孫小陽も紅月のオリジナルは持っていない」
「急ぐぞ。奴を助けたければ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み