二十

文字数 3,196文字

 万世橋署での勤務を終え、ショウが車のキーをポケットから出そうとしていた時、携帯電話が鳴った。ホンダサヤカからだった。彼女は上海での任務の後、本庁に戻り、外国人犯罪の捜査にあたっていた。噂では厚生労働省地方厚生局麻薬取締部、通称「マトリ」がブラッドの捜査に動いていると聞く。麻薬捜査情報は、所轄署には勿論のこと、本庁ですら極限られた者にしか知ることを許されていない。捜査の性質上、ほんの僅かな情報の漏洩が、捜査官の死に直結するからである。以前、サヤカと話した時も、自分は知らないと言っていた。
「ショウ先輩、お元気ですか?」
「警視こそ、お変わりありませんか?」
「警視だなんて、やめて下さい」
 ホンダサヤカは、あれから僅か三年で警視になり、キャリアの道を順調に歩んでいた。
「どうしたんです?」
「ここではちょっと、先輩、これから会えないかしら?」
 腕時計を見た。十九時を回っていた。
「いいですよ、警視は今どちらに?」
「本庁よ、もう少しで上がれそうなんだけど。先輩の車で迎えに来てもらえないかしら?」
 ショウが苦笑した。
「それは構いませんが警視、いいんですか? 私がそちらに伺っても。誰かに見られるとまた噂が独り歩きしますよ」
 実際、上海から帰国後は各方面であらぬ噂が立った。三年経った今でも、どこかに根強く二人がデキているという噂が残っている。
「いいんですよ、言わせておけば。それより私、久々にショウ先輩の車に乗りたいな。まだアウディに乗ってるんですか?」
「ええ。では三十分後に迎えに行きます」
「了解です」
 相変わらずだなと思う反面、サヤカには弟の存在も知られているし、以前、所轄でペアを組んだ時のようにはいかないと感じている。あれから三年も経ったのだ。すでに階級ではショウの手の届かないところまで行ってしまった。様々な経験を経て、人間としても女性としても成長しているに違いない。そういう意味で再会は嬉しかった。
 本庁の駐車場に車を入れ少しすると、助手席の窓をサヤカがノックした。以前は短かった髪が、後ろで束ねられるほど長くなっていた。
「雰囲気、変わりましたね」
 サヤカがはにかんだ。
「さすがショウ先輩、わかります?」
「そりゃ、わかりますよ。随分と大人っぽくなりましたから」
 それには何も答えず、微笑んでいる。以前のように派手に喜ぶこともなく、静かに目を細めている。ふわりと大人の香水の香りがした。
「さあ乗って下さい。どこに行きましょうか?」
「そうね、横浜と言いたいところだけど、今日はそういう話じゃないので、銀座にでも行きましょうか」
「それなら近くて助かります。寿司でも食べますか?」
「ええ」
 そのあたりはさすがにお嬢様である。行き慣れているのがわかる。
 しばらく沈黙が続いた。何度目かの赤信号で停車した時、サヤカが口を開いた。
「こんなこと、ショウ先輩にお願いするべきじゃないとわかっているんですが、実は私、今、外国人の麻薬取引を担当していて、近々香港の組織と北陽会が大きな取引をするという情報が入ったんです」
「Σ(シグマ)ですか?」
 サヤカが頷いた。
「ネタ元はどこですか?」
「それは・・・・・・言えません」
「それで、私にお願いって何です?」
「所轄も、この件では動いていると思うんですけど、ショウ先輩の知っている全ての情報がほしいの。それで、できれば先輩にはこのヤマから手を引いてほしい」
 ショウがサヤカを見つめた。
「こんなの身勝手だってことわかってるわ。でも、警察内部には万世橋署が北陽会に接触することをよく思わない人たちもいる。先輩が先日、セリザワに会ったということもわかっています」
「監視されていた、ということですか?」
「ええ、公安が目を光らせているわ。先輩がタザキコウゾウ氏の孫だということもあるでしょうけど、六本木ヒルズでのことや、上海でのこと、経歴を知れば知るほどショウ先輩のことがわからなくなる」
「そうですか、疑われても仕方ないですね。でも、情報だけ受け取って、後は手を引けというのは少し強引すぎますね」
「ごめんなさい。こんなこと本当は先輩には言いたくなかったんです。でも、私、先輩のことが心配で」
「我々の捜査が邪魔ですか?」
「そうは言ってないわ。だけど、今や日本国内に出回るブラッドの殆どが香港製」
「だから?」
 サヤカが首を横に振った。
「実はこの件にはマトリが関わっているの。北陽会のムラナカリョウジと香港のΣ(シグマ)との大きな取引が近々あるという情報を得ているわ。だけど、もしこの件を警察が捜査しているとムラナカが気付いたら、シグマとの取引が中止されるかもしれない。それにマルSの命だって危険に晒されることになる。正直、このヤマに関しては私たちがずっと追いかけてきた。今になって部外者である所轄に出しゃばってほしくないの」
 ショウが目を細めた。
「サヤカさん、随分と大人になりましたね。あれから何年でしたっけ? あの時はヤクザの事務所に行くのも初めてで、どこかまだキャリアとして所轄のお客様みたいな感じでしたけど、今は違う。立派に任務を全うしようとしている」
「そんな、私はただ・・・・・・」
「わかりました。でも、私に何かできることがあれば遠慮なく言って下さい。捜査の件は私からそれとなく課長に伝えておきますから」
 銀座まであと少しというところで渋滞に捕まった。赤や黄のネオンが瞳に映る。遠くでクラクションが鳴る。東京の日常と言ってしまえばそれまでだが、上海での時間が急に蘇った。
「ところで先輩、あの時の約束、覚えてますか?」
 ショウが小さく頷いた。
「時々、思うんです。あの後、先輩は香港で生き別れた弟さんに会えたのかなって」
「会えたよ」
 サヤカが息を飲んだ。
「それで、今、弟さんは?」
 ショウは答えなかった。
「私、先輩に弟さんがいると聞いて驚きました。それで亡くなったと聞かされていた弟さんが、本当は生きていて、今から会いに行くと聞いた時、先輩のことがわからなくなりました」
「そうでしたね。あの時は申し訳ない。あの後、香港に渡って、弟に会うことができたのは、サヤカさんのお陰です。弟はまだ海外にいます。サヤカさんが心配しているようなことはないはずです。いつか必ずこの日本で再会しようと約束しましたが、弟には弟の人生がありますし、彼の人生や価値観を尊重してやりたかったんです。彼が今、どこで何をやっているのか、それはわかりません。兄として、知りたくもありますが、知ったところで、彼の考えは変わらないと思います」
 サヤカが頬を緩めた。
「何だか先輩らしいです。弟さんは、ハダケンゴについて何か話してませんでしたか? 同じホテルに泊まって、一緒に行動していたようですから。これはあくまで私個人の興味です。報告書に先輩の弟さんのことは一切書いてません。あの頃の私は、先輩のことしか見えていませんでしたから」
 サヤカが目を閉じた。
「ハダケンゴとは台湾で知り合ったようです。日本から逃げてきたハダを組織が匿ったのだとか。私も驚いて、ハダの行方を聞いたのですが、すでに香港に逃亡した後でした」
「そうだったんですね。でも、私だけには、本当のこと言ってほしかったです。私たち、ハダケンゴを追っていましたが、先輩の弟さんを追っていたわけではないし、元々、その存在すら知らなかったわけで、先輩は一人で抱え過ぎです」
「抱え過ぎ・・・・・・か、確かにね」
「そうですよ、もっと私のことを信用して下さい」
「わかりましたよ、警視。北陽会の新たな取引のことはわかり次第連絡します」
「よろしい、タザキ警部補」
 サヤカが声を上げた。ショウも自然に頬が緩んだ。秘密を共有しているからというわけではない。一人の女性として見ている自分がいた。
「今日の寿司は、先輩のおごりですよ」
「はいはい、警視殿」
 街の明かりが眩しかった。
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