三十四

文字数 1,009文字

 リュウがコバヤシと共にバスを降りた。コバヤシの話では、海辺のアトリエに孫小陽が一人で滞在しているという。ハダケンゴに先を越されてはならない。何としても白月を持ち帰らねば、王志明の命が危ない。それにハダケンゴが孫小陽を殺してしまえば、同時に両親の事件の真相を知るものがまた一人この世から消えてしまう。ゆっくりとしか歩くことができないコバヤシを置いて、リュウが走った。胸の高鳴りは、何を意味しているのだろうか? 青い空と白い砂浜が延々と続いている。やがて、コバヤシの言った通り、小さな小屋が見えてきた。リュウが銃を手にした。呼吸を整え小屋の扉に手をやった。鍵が開いていた。
「誰かいるのか?」
 波の音がする。そして次に瞬間、リュウの目に、椅子に座ったまま額を撃ち抜かれた孫小陽の姿が飛び込んで来た。
「クソッ、遅かったか」
 慌てて外に飛び出し、辺りを見渡すがハダケンゴの姿は無い。再び部屋に戻り、孫小陽の周囲を見る。空のイーゼルが一つ転がっていた。小屋の外に出ると、ようやくコバヤシの姿が見えた。コバヤシに状況を話すと、少しだけ目を大きくしたが、それ以外の感情は表に出すこともなく、孫小陽の遺体を丁寧に横に寝かせ、独り言を呟いた。リュウはすぐにハダケンゴを追わねばならなかったが、孫小陽の死を目の当たりにして、心が動かなくなっていた。虚しさの波が押し寄せ、急に目の前が暗くなった。両親の事件の真相を知る者がまた一人消えた。ふと小屋の庇で陰になったところに目をやった。砂に幾つもの円錐を逆さにしたような窪みができている。それはウスバカゲロウの幼虫で、通称「アリジゴク」と呼ばれるものだった。大学の生物学の研究で昆虫を詳しく調べたことがある。蟻などの虫がアリジゴクに落ちると、周囲の砂が崩れて抜け出せなくなる。やがて蟻は円錐の中心に吸い込まれ、ウスバカゲロウの幼虫に体液を吸い尽くされて死ぬ。残酷なようだが自然の摂理でしかない。例えハダケンゴを見つけ出したところで、奴は白月を手放すことはないだろう。奴と殺し合いになることは避けたかった。そうであれば趙建宏から力ずくで王志明を奪い返すしかない。リュウはその場で趙建宏の携帯電話に掛けた。
「白月を手に入れた。約束通り、王志明と交換だ。今からお前が指定した場所に向かう、いいな」
「孫小陽ハドウシタ?」
「奴は死んだ」
「ワカッタ。デハ、明日ノ十七時、台南ノ大南門ニ来イ」
 通話が切れた。
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