第2話 理念②

文字数 8,288文字

 父と見知らぬ男が正眼の構えで対峙していた。
 いや、男は父と同じくらいの背丈ではあるが、顔付きがどこか幼い。
 まだ十二、三の少年に見える。
 父が少年に稽古を付けてやっているのだろうか?
 真剣で?
 嫌な予感がした。
 すぐに止めなければいけない気がした。
 でも、身体が動かない。声も出ない。
(どうして? どうして?)
 背高の少年が動いた。
 太刀を大上段に振りかぶり、父に斬りかかる。
(父上、逃げて!)
 なぜか心の中でそう叫んでいた。
 この樒原(しきみがはら)領で一番の剣客である父が、そこらの少年に負けるはずがないのに。
 少年が太刀を振り下ろす。
 途端、視界が真っ赤に染まった。


(父上!)
 深夜、雲月蒼葉(くもつきあおば)はハッと目を覚ました。
 身体は動く。声も出る。
(また、あの夢……)
 胸に嫌なものが込み上げてくる。暑いわけでもないのに、やけに喉が渇く。
 寝床から起き上がり、台所の土間に溜めてある水を飲みに行く。
 春先とはいえ夜は寒い。喉を潤すだけの、ほんの少量を(かめ)から柄杓(ひしゃく)で掬って口に含むと、すぐに暖かい布団の中へと戻った。
 夜明けまでまだ時がある。もう一眠りしておきたい。
 そう思い、目を閉じていても、頭に浮かんでくるのはあの悪夢のことばかり。
 六年前、蒼葉がまだ七つの時――
 一流の剣客である父が、わずか一太刀で斬り捨てられた。
 強くて、優しくて、大好きだった父が、血しぶきを上げて崩れ去る。
 それなのに、記憶に焼き付いているのは少年の悲しそうな表情。
(あの人は、どうしてあんな顔を……)
 どれだけ考えてもわからない。
 ただ、理由がどうあれ、あの瞬間から蒼葉の人生は変わった。
 あれから一年も経たないうちに病弱だった母も亡くなった。 他に家族がいなかったため、父の弟子で親戚でもある倉井石(くらいせき)に引き取られることになる。
 その人のもとで、蒼葉は剣術に打ち込んだ。
 いつの日か、父が斬られた理由を知るために。
 そして、理由如何によっては、あの少年を自らの手で斬るために。


 泰平の世と言われるようになって久しいこの時代にも、武士の剣術は各地で盛んに行われていた。
 ここ雲月流剣術道場もその一つ。
 都から遠く離れた小領、その中でも城下の外れに位置する小さな道場ではあるものの、稽古の質は決して他流派に劣らない。いや、試合で派手に勝つことばかり考える華法(かほう)剣法より、質実剛健を旨とする雲月流の方がきっと優れている。
 そう信じて疑わない蒼葉は、今日も厳しい稽古に精を出す。
「これより稽古をはじめる。全員正座!」
 声を上げたのは師範の倉井石先生だ。
 歳は二十六と道場主にしては若いが、その精悍な顔立ちと鍛え上げられた肉体は、年齢以上の凄みを感じさせる。性格は謙虚にして厳格、愚直にして柔軟。古きを尊びつつも新しきを受け入れる、懐の深い武人である。
 稽古前の座礼をした後、八人の門下生が等間隔で並ぶ。門下生はいずれも蒼葉と同年代の少年たちだ。
「それでは各自、素振り百本、はじめ!」
 先生の号令で八人が一斉に抜刀し、素振りをはじめた。竹刀ではなく真剣である。
 剣術の基本である正眼の構えから切っ先を天空へと掲げ、振り下ろす。当然、勢い余れば床板を傷つけてしまうので、腰の高さほどでピタリと止めなければならない。
 これが思いのほか難しい。
 真剣の重さはおよそ二斤(約一二○○グラム)であり、竹刀の三倍近くもある。
 それを百本連続で振るのは大人でも容易ではない。
 六年前、剣術をはじめたばかりの蒼葉は、年少用の短い竹刀でも二十本振れば腕が上がらなくなってしまった。しかし、来る日も来る日も稽古を欠かさなかったおかげで、今や真剣でも百本振れるようになった。
 単に成長して力が付いたからではない。正中線を用いて太刀を振る(すべ)が身に付いたからだ。すなわち、腕の力だけでなく身体全体の力を使って重い真剣を振る。
 時が経つに連れ、道場内に熱気が篭ってくる。
 同時に、太刀が空気を斬り裂く音が小さく、鈍くなっていく。
 百本振れるようになったとはいえ、決して楽ではないのだ。
 最後の方になると、だんだん力が入らなくなってくる。
「一本たりとも気を抜くな。敵はお前たちが疲れたところを狙ってくる。今この時が生死の分かれ目と思え」
 先生に檄を飛ばされるたび、蒼葉は思い出す。
(そうだ。こんなことでは父上の仇を討つなど夢のまた夢)
 こうして何度も何度も己を奮い立たせる。つい力を抜いてしまった分は百本を超えても振って補った。
 全員が素振りを終えると、次は型稽古を行う。
 型は抜き打ち(居合い)から始まり、連続して、振り下ろし、斬り上げ、突きなど様々な技を繰り出す稽古だ。連続技の後は、必ず納刀して一つの型が終わる。
 続いて、竹刀を用いての打ち込み稽古と約束稽古。これらの稽古は防具を着けた状態で二人組になって行う。
 仕上げは試合稽古だ。八人が総当たりで試合をする。
 この総当たり戦での蒼葉の勝率は年々上昇し、今では九割を超えるまでになっていた。
 自分より年上で背丈の大きな者が相手でも滅多に負けることはない。
 他の門下生が弱いわけではない。蒼葉の実力が抜きん出ているのだ。
 才能ではなく、あくなき努力によって。
 今日も調子良く七人を相手に全勝することができた。
 ところが稽古の総仕上げ、倉井先生が相手となると、そうはいかなくなる。
「さあ、どこからでも打ってきなさい」
 とは言われたものの、打ち込む隙など針の穴ほどもない。
 倉井先生は、力加減はしてくれるが、決してわざと打たれてはくれないのだ。少年部はもちろん、成年部でも先生から一本を奪った者はいないという。
 何をどうやっても打ち返されてしまう。それがわかってはいるものの、いつまでも見合っていては稽古にならないので、蒼葉は意を決し、攻めに出る。
 ――途端、脳天に衝撃が走る。
 また先生の動きが見えなかった。気が付けば面を打たれていた。
 他の門下生との試合を端から見ている分には目が追い付かないほど速いわけではないのに、いざ向かい合うとこれだ。
 以前その理由を聞いた時、先生は短くこう答えた。
「それは、私がお前の(きょ)をついたからだ」
 言葉の意味はわかる。〝虚をつく〟というのは、要するに相手にとって予想外の攻撃を仕掛けることだ。
 蒼葉とて正攻法で先生から一本奪えるとは思っていないので、様々な方法で虚をつこうとしてきた。ところが、先生は何の小細工もなく、真正面から堂々とこちらの虚をついてくる。
 いったいどうしたらそんなことができるのか、今の蒼葉にはさっぱりわからなかった。
 二本目は先生の方から攻めてくる。さっきとはうって変わって激しい攻めだ。
 蒼葉は防戦一方。反撃する隙を見出せず、ついには体勢を崩され、打ち据えられてしまう。
 いつもどおりの結果だ。
 でも、以前よりはずいぶん粘ることができるようになってきた。少しずつではあるが、着実に父のような強い剣客に近付いている。そして、父を斬ったあの少年にも。


 春が近付き、日中はぽかぽかと暖かいこの季節。
 道場の外にある桜の木が徐々につぼみを膨らませている。あと半月もすれば満開の時期だ。家計に余裕がないため華やかな宴会はできないが、あの幻想的な光景を見られると思うだけで心が躍る。
 そんな桜の木の下を、竹刀袋を担いだ少年たちが通過していく。
 稽古後の門下生たちの行動は様々である。引き続き剣術の稽古をする者もいれば、槍術、弓術、馬術、柔術などを習いに行く者もいる。学問に励む者もいる。
 蒼葉の場合、習い事はここで終わりになる。
 一緒に暮らしている倉井先生が成年部(十五歳以上)の指導をする間、家事をこなさなければならないからだ。
 道場のすぐ隣にある母屋に戻ると、まずは稽古着から普段着の着流しに替える。それから、朝に干した洗濯物の取り込みにかかる。
 洗濯物をしまい終えた後には繕い物、その後には夕餉(ゆうげ)の準備をしなくてはならない。
 母が亡くなってから三年間は倉井先生が雇った住み込みの女中に家事をしてもらっていたが、今は蒼葉の役目だ。親代わりとなって自分を育ててくれた先生の御恩に報いるためにも、この時ばかりは仇のことを忘れ、一心に家事をこなす。
 そんな折りに、二人の侍が家を訪ねてきた。
 一人は深緑色の立派な羽織袴を纏った上級武士。もう一人はお供の若党だ。
 倉井先生より一回り上、三十半ばくらいの上級武士が野太い声で言う。
「拙者は一刃流(いちじんりゅう)剣術道場にて塾頭(じゅくとう)を務める沼田(ぬまた)と申す。倉井先生はおいでか?」
「先生は、ただいま道場にて稽古中にございます」
「では呼んでもらおうか」
「……はい」
 普通なら稽古が終わるまで待ってもらうところだが、名門・一刃流からの遣いとあってはそうもいかない。
 蒼葉は道場に行き、先生に来客を告げる。
「わかった。話は母屋で伺おう」
 先生は稽古を師範代に任せ、道場をあとにした。
 

(これで何度目だろう……)
 客に出すお茶の用意をしつつ、蒼葉は心中つぶやいた。
 沼田という男が来るのは初めてだが、一刃流道場から遣いが来るのは初めてではない。
 もう三度目か、四度目だったか。
 どうせ用件も同じであろう。先生の気持ちが変わるとは思えない。
 だが、相手が道場一の遣い手である塾頭ともなれば無下に追い返すわけにはいかない。
 まして怒りを買ってしまっては後々面倒なことになるので、断るにせよ丁重にもてなさなくてはならない。
 蒼葉は襖越しに耳を澄まし、会話の邪魔にならないわずかな間をついて、襖を開ける。
「失礼いたします。粗茶でございます」
 粗相のないよう丁寧にお茶と菓子を置き、すぐに退室する。
 そして、襖を閉めた後、再び先生たちの会話に耳を澄ました。
 聞き耳を立てるのはよくないとわかっていても、先生がどのように断るかが気になるからだ。
 しばらくして、話が本題に入る。
「では、そろそろ用件を伺いましょうか」
「はい。もう察しはついていると思いますが、話とは一刃流道場への移籍の件です。今日こそ快いお返事をいただけますかな?」
 やはりその話だった。
 少し間を置いて、先生は今までと同じ返答をした。
「誠に申し訳ございませんが、私には師より受け継ぎし雲月流の理念を守る使命がありますので……」
「お言葉ですが、理念で飯は食えませぬぞ。倉井殿の腕前なら、一年以内に一刃流免許をお約束するという話も出ております。さすれば士官の話も選り取りみどり。城下の一等地に屋敷を構え、奉公人を雇うこともできましょう。それでも、お考え願えませぬか?」
 その言葉に蒼葉は呆れた。
(よくもそんな出任せを……)
 いくら名門の免許皆伝を得ても、いきなり大出世などできるはずがない。こちらが何も知らない田舎者と思っているようだ。
 もっとも、参勤の折に都会で最先端の剣術を学んでくる彼らにとって、この領からほとんど出ることのない自分たちは田舎者に違いないが。
 とはいえ、先生はそのような手には乗らない。
「私は今の生活に満足しております。それに沼田殿がおっしゃるほど、私の腕前は優れておりません。まだまだ未熟なのです。失礼ながら、買い被りではないかと」
「自信がないと申されるか?」
「はい」
「では、倉井殿の腕を見込んだ我が主の目は節穴ということになりますな」
「いえ、そのようなことは……」
「でしたら買い被りではございませんな」
 どうやら、どのような難癖をつけてでも承諾を得たいらしい。さすがに塾頭自ら出向いてきただけのことはあり、今度は骨が折れそうだ。
 先生が返答をできずにいると、沼田は唐突に提案してきた。
「でしたら、倉井殿。この件については試合にて決めるというのはいかがでしょう?」
「試合ですか?」
「そうです。倉井殿が勝った時には、拙者はこの件から手を引きましょう。ですが、拙者が勝った時には移籍の話を承諾していただきます。それでいかがかな?」
 なんだか危うい話になってきた。蒼葉の心臓が急激に高鳴る。
 沼田の声色は自信ありげだ。はじめからそのつもりだったのだろう。あるいは、将来自分の立場を脅かすであろう先生を早めに潰しておきたいのかもしれない。
 長い沈黙を経て、先生は答える。
「いいでしょう。その勝負、受けて立ちます」


 蒼葉はかつてないほど緊張していた。
 倉井先生が他流派の剣客と試合うのを見るのは初めてだからだ。
 先生が負けるはずがない。今の先生は、父・雲月蒼助(くもつきそうすけ)の全盛時に匹敵するくらい強い。たとえ相手が名門・一刃流道場の塾頭であっても。
 そう自分に言い聞かせるが、高鳴る鼓動はなかなか収まらなかった。
 試合は三本勝負。先に二本先取した方が勝ちとなる。
「はじめ!」
 審判役の師範代が声を上げると、両者は正眼の構えで相対する。
 流派は違えど、攻守ともに最も安定した正眼が剣術の基本であることに変わりはない。
 しばらくの間、互いに探りを入れた後、先に沼田が動く。
「セヤーッ!」
 速く、力強い面打ち。
 先生は竹刀を掲げ、剣撃を受ける。
 さすがに、蒼葉の時のように一瞬で相手の虚をつくことはできない。
「エヤーッ! セイッ! セヤーッ!」
 沼田は間髪入れず連撃を繰り出す。
 まるで地鳴りのようなすさまじい気合だ。
 先生は防戦一方。ついには道場の隅まで追い詰められ――
「お小手あり!」
 審判の右手が高々と上がる。
 一本取られてしまった。
(そんな! 先生がやられるなんて……)
 二本目。
 勢いに乗った沼田は再び連撃を繰り出し、瞬く間に先生を壁際まで追い詰めた。
 不安で胸が押し潰されそうになる。
 もう一本取られれば、先生が連れていかれてしまう。
「セヤーッ!」
 沼田が渾身の一撃を放つ。
 ほぼ同時に先生も動いた。
 木の実が()ぜるような乾いた音が道場に響く。
「お面あり!」
 高々と掲げられたのは審判の左手だった。
 先生が返し技で一本取り返したのだ。
(よし!)
 蒼葉はグッと拳を握る。
 三本目。
「はじめ!」
 二本目は調子に乗り過ぎたと反省したのか、沼田は慎重になった。
 先生は元より慎重だ。
 長い探り合いが続く。両者とも迂闊には踏み込まない。
 こういう場合、先に動いた方が不利だと教わったことがある。攻撃する瞬間にこそ隙が生じるからだ。
 その瞬間を捉える返し技が先生の得意技。ならば、先生が負ける道理はない。
 ――と思いきや、先に先生が動いた。いや、動かされたか。
 沼田は先生の面打ちを()い潜りながら、抜き胴を合わせようと姿勢を低くする。
 刹那、乾いた音が一つ。
(え?)
 動きを読まれ、空を切るはずだった先生の面打ちが沼田を捉えていた。
 審判の左手が挙がる。
「お面あり! 勝負、それまで!」
 沼田は立ったまま呆然としていた。何が起こったのかわかっていない様子だ。
 端から見ていた蒼葉には辛うじてわかった。
 先生は先に動いて沼田の返し技を誘った後、なおそれに返し技を重ねたのだ。
 言ってみれば二重の返し技。
 そんなことは余程の実力差がなければできないはずだ。
(まさか、先生は一本目をわざと?)
 

「僅差とはいえ、一刃流免許皆伝の拙者を打ち負かすとは……。さすが、我が主に見込まれるだけのことはありますな。約束どおり、今日のところはお引きいたしましょう。次の機会があった時には負けませんぞ」
 試合後、沼田は意外にもあっさりと引き上げていった。
 一昔前、戦国の気風が残る時代であれば、塾頭たる者が勝負を挑んだあげく敗北したとあっては切腹ものだろうが、泰平の世でそこまでする者はいない。
 さりとて、提示した条件を完全に受け入れるのはまずいらしく、「今日のところは――」「次の機会が――」などと約束をうやむやにするようなことを言う。
 先生がそれを追及しなかったため、約束は本当にうやむやになってしまった。
 勝負が僅差だったから強くは言い返せなかったのだろうか。
 否。あれは僅差などではなかった。
 沼田は偶然当てられただけと思い込んでいたようだが、蒼葉には確信があった。
 先生は、相手に気取られぬよう手心を加えていたのだ。
 その気になれば圧倒的な力の差を見せつけて追い返すこともできたろうに、なぜ?
 そんな疑問を抱きながら、少々遅れてしまった夕餉の準備を済ませ、先生を呼ぶ。
 食事の席はいつも静かなものだ。先生は食事中一切しゃべることなく、食べることにのみ集中する。当然、蒼葉もそれに倣う。箸とお椀の触れる小さな音だけが座敷に響く。
 食事が済むと、蒼葉は膳を下げ、先生にお茶を持っていく。
 それから話を切り出した。
「先生、先ほどの試合、なぜ本気を出さなかったのですか?」
「遺恨を生まぬためだ」
 先生は茶を一口含んだ後、静かに続ける。
「もし大差で勝ってしまえば、面目を潰された相手が逆恨みして意趣返しに来るやもしれん。それを未然に防ぐためにも、一本くらい華を持たせてやるのが良いと考えたまでだ。それも最初の一本をくれてやれば、『実戦なら自分が勝っていた』という面目が立つ」
「それでも、先生が打たれるところは見たくありませんでした」
「沼田殿はお前たち道場生とは違う。それ故の配慮だ」
 決して道場生より客人が大事と言っているわけではない。むしろ、どうでも良い相手だからこそ一本くれてやったという意味であることはわかる。
「ですが、勝負に勝ったというのにあれでは、一刃流の者がまた来てしまいます。キリがありません」
「構わぬ。何度でも応対してやるまでだ」
 蒼葉にとって、先生の考えは未だ理解し難いものだった。
「先生は、なぜそうまで謙虚になさるのですか? 沼田様の言いようは大げさにしても、先生ほどの腕前があれば出世も夢ではありませんのに」
「出世に興味はない。それよりも、我が師より受け継いだ雲月流の理念を守る方が私にとっては大事なのだ」
 雲月流は少年部と成年部を合わせて二十人にも満たない小さな流派だ。他流試合をすることが滅多にないため、その名を知る者は少ない。全国各地に数千人と言われる門下生を持つ一刃流とは比べるべくもない。
 腕に自信のある者は皆、立身出世のため一刃流の門を叩く。あるいは、一刃流の剣客を倒して箔をつけようとする。
 先生が父の意志を継いでくれるのは嬉しいが、その無欲さを惜しむ気持ちの方が蒼葉の中では大きかった。
 しばしの沈黙の後、先生はため息をつき、肩を落とした。
「一刃流を含め昨今多くの流派は、試合に勝って名を上げることや出世することばかりを考え、武士道の本質を忘れている」
「武士道、ですか」
「そうだ」
 先生は茶を飲みきり、盆の上に湯呑みを置く。
 それから、鋭い視線を向けてきた。
「蒼葉、我々武士階級は、いったいなんのために農民から米をいただいている?」
「それは、世を治めるためです」
「そのとおりだ。だが、ただ飯を食らうことが世を治めることか?」
「いえ……」
 蒼葉は声を詰まらせた。
「世を治め、人を従える立場にある者には、万民の手本となるべく己を磨く義務がある。剣術とはそのためのものだ。断じて自らの利益のために行うものではない」
 それが雲月流の理念だということは、今まで何度も聞かされてきた。もちろん、蒼葉もそれが正しいと思っている。威張っているだけの人間に世を治める資格はない。
 だからこそ、先生ほどの人が世間に認めてもらえないのが悔しくて仕方なかった。
 先生が申し訳なさそうに言う。
「お前には、こんな暮らしをさせてすまないと思っている」
「そんな! 私はそういうつもりで言ったわけではありません。今の生活には満足しています。ただ、先生は本当に……本当にこのままで良いのですか?」
 もしかしたら、自分の存在が先生を縛っているのではないかという疑念が蒼葉にはあった。父に対する恩義に報いるがために、先生は自らを戒めているのではないかと。本心では、日の当たる場所で存分に腕を振るいたいのではないかと。
 だが先生は、この六年間そうしてきたように、そんな気配はおくびにも出さなかった。
「気にするな。すべて自分の意思でやっていることだ。むしろ、下手に出世して毎日お偉方と顔を合わせるなどごめんだ。私には、指導者としてお前たちの面倒を見る方が性に合っている」
「先生……」
 決して嘘は言っていない。それは間違いなく本心なのだと思う。
 しかし、人の本心が一つとは限らない。蒼葉にも、先生が認められてほしいという気持ちと、先生にはずっとここにいてほしいという気持ちが同居していた。
 だから、先生の言葉を鵜呑みにはできなかった。
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