第9話  捜索③

文字数 2,406文字

 倉井石には人を斬った経験がなかった。
 無論、斬りたいわけではない。これまでの人生で人を斬らずに済んできたことは幸運だと思っている。
 だが、実戦においてその経験の有無が大きな差となるのは明白だ。
 竹刀で叩く技と真剣で斬る技とでは、あまりにも術理がかけ離れている。
 真剣で据え物を斬る稽古なら積んできた。だが、動かぬ藁人形と動く人体を斬るのとでは、これまた勝手が違う。
 さりとて、人を斬る稽古などできるはずもない。
 その昔、稽古と称して無関係の人間で試し斬りをする〝辻斬り〟なるものが横行した時期があったらしいが、そのような非道な行いは想像するだけで反吐が出る。
 山賊は偽善らしき人物が斬ってしまった。処刑場で罪人を斬らせてもらえないだろうかとも考えたが、密命であるが故に裏から手を回してもらうこともできない。
(いや……)
 そもそも、そのような考え自体が不謹慎だと気付いた。
(馬鹿げているな。人を斬るために人を斬ろうなどと)
 目的と手段を履き違えてはならない。自分は無法者や暗殺者とは違う。主君より選ばれし名誉の討手なのだ。
 上意討ちの決行にふさわしい場所と日時は密偵が探ってくれるので、報せがあるまでは稽古に専念できる。
 石は悩んだ末、かつての師・雲月蒼助と交流のあった由宮流(よしみやりゅう)道場を訪れることにした。
 由宮流は居合術を得意とする流派であり、真剣の扱いに関しては昨今の竹刀流派よりも断然優れている。
 また、当主である由宮師範は、過去に一度だけ物盗りを斬ったことがあると聞いた。
 当時の話を聞くだけでも行ってみる価値はある。
(今日は帰りが遅くなるな)
 蒼葉には心配をかけることになるが致し方ない。
 稜線に沈みかかった夕日に向かって、石は歩き出した。


「ずいぶんとたくましくなられたな。前に会ったのは蒼助殿の葬儀の折り……。もう六年は経つか」
「覚えていてくださり光栄です。突然の訪問のご無礼、お許しください」
「構わぬ。深い事情があるのだろう。むしろ、このわしを頼ってくれたこと、嬉しく思うぞ。民が貧窮に苦しんでいる折りに、何もできずにいた自分が情けなかったのでな」
 口惜しそうに言う由宮師範は、白髪混じりの四十代後半。
 身体はさほど大きくなく、穏和な顔つきをしているが、内に秘めたものは熱い武人だ。
 すでに日は落ち、周囲は薄暗い。
 だが、決行の日時が明日の夜になるかもしれない以上、どうしても急ぐ必要があった。
「話は道場で聞こう」
 由宮師範は、こちらの事情を半ば察している様子だった
 いつかこんな日が来ると予想していたのかもしれない。
 それでいて深くは追及せず、自分を道場へと導いてくれる。
「ありがとうございます」
 石は礼を言い、厚意に従った。
 由宮流は雲月流より一回り大きな流派だ。道場生は五十名ほどで、下級武士が多くを占める。雲月流と同じく他流試合は滅多に行わないため、他流派との交流は薄い。ただし、師・雲月蒼助が由宮師範と友人関係であったため、一時期交流があった。石も蒼助に連れられて何度か出稽古に来たことがあった。
 道場の四隅にある燭台を少し中央に寄せ、火を灯すと、周囲がほんのり明るくなった。
 由宮師範が用意してくれた座布団の上に座り、石は話を切り出す。
「今日お伺いしたのは他でもございません。昔、由宮師範が物盗りを斬った時の話を聞かせていただきたいのです」
「よかろう。と言っても、あの時は無我夢中だったので、はっきりとは覚えておらぬがな」
「それでも構いません。ぜひ」
「ふむ……」
 由宮師範は少し思い出すように目を閉じた後、淡々と話を始める。
「あれはもう二十年近くも前のことか。食いつめた浪人が両替商から金を奪う事件があってな。ただの物盗りなら斬り捨てるほどの罪ではないのだが、そやつは逃げる途中でお役人を斬ってしまったのだ。わしがその場に居合わせたのは偶然だったが、放っておくわけにもいかぬ。逃げる浪人を追いかけ、ついに袋小路へと追い込んだ。逃げ場を失った浪人は遮二無二斬りかかってきた。それに対し、わしがどう動いたか。なぜか、そこのところを全く覚えておらぬのだ。気が付けば、浪人は血だまりの上に伏せておった。その場にはわししかおらなんだから、わしが斬ったのは間違いない。しかし、どう斬ったのかがさっぱり思い出せぬ。まるで夢のような出来事であった」
「……その浪人は、一太刀で?」
「そうだ。後の検分でわかったことだが、腰から肩にかけての斬り上げ、わずか一太刀であった。刀身に歯こぼれがなかったから、一度も刃をぶつけ合うことなく斬ったのだ。自慢するつもりはないが、我ながら見事という他なかった。いや、もしかしたらあの時、わしの身体に別の何かが乗り移っていたのかもしれぬ」
 奇妙な話に聞こえるが、そのような状況に石は心当たりがあった。
「おそらく、由宮師範はその瞬間、無念無想の境地に達せられたのだと思います。日頃の稽古の成果です」
 それは、そうであってほしいという願望でもあった。
 単なる偶然で片付けられてしまっては、ここに来た意味が――いや、剣術の稽古をしてきた意味がなくなる。
「……そうかもしれんな」
 由宮師範は小さく答えた。彼も同じことを考えていたようだ。
 だが、覚えていない以上どこにも確証はない。
「すまぬな、こんな話しかしてやれなくて」
「とんでもございません。大事なことが一つ、わかりました」
 無念無想の境地など、都合のよい解釈をしているのは自覚している。それでも、結局のところ自分が今までやってきたことを信じる他ないのだ。
 あまり余計なことを考えるべきではない。そもそも、戦いの最中にあれこれ考えていては、その間に斬られる。
 由宮師範はフッと表情を緩め、穏やかに微笑んだ。
「そうか。では、その大事なことを忘れぬうちに稽古をしておこうか。わしでよければ心行くまで付き合うぞ?」
「よろしくお願いいたします」
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