第15話 矜持③
文字数 7,144文字
豪堂はもちろん、配下一人いない。
玄関の方から偽善が入ってきた。無論、土足のままだ。
「おい、どうなってんだ? 門番しかいねえぞ」
「逃げられたか……」
「けど、この辺はお殿様の配下が見張ってたんだろ? さっきの密偵も、豪堂は屋敷から出てねえって言ってたし」
「どこかに隠し通路のようなものがあるのかもしれん」
「探すか?」
「いや、あったとしても簡単には見つかるまい。今から探して追い付くのは無理だろう。なにより、あの豪堂がただ逃げるだけで終わるとは思えん。退くと見せかけて攻めてくる可能性もある。一旦蒼葉のところへ戻ろう」
「戻れればいいがな」
突如、偽善が不吉なことを言った。
数瞬後、遠くから複数の足音が聞こえてきたことで、その意味を知る。
「早くも読みが当たっちまったな。どっちから逃げるよ?」
「正門だ」
言うが否や、石は駆け出す。
正門と裏門、どちらからどれだけの兵が来るかなどわかりはしない。ならば、門の幅が広く脱出しやすい正門の方が良いと判断した。
石と偽善が縁側から庭へ下りるのと、正門から六人の男が入ってくるのは同時だった。
その中には見覚えのある者がいた。
「あれは一刃流の……!」
「お知り合いかい?」
「あまり良い関係ではないがな」
男たちは太刀を抜いた。
どうやら豪堂の刺客として差し向けられてきたようだが、できる限り戦いは避けたい。
石は大声を上げる。
「待て! 私は孝水様の命で動いている! 太刀を納めよ!」
しかし、男たちは退かなかった。
「そんな出任せが通じるものか! 我々は悪斬り偽善とその一味を成敗するようご家老様より命じられておる。覚悟せよ!」
偽善が腰を引いて太刀を抜く。
「こりゃあ、言葉は通じそうにないな。ま、豪堂に従ってる時点で悪だし、もう斬ってもいいよな?」
そう言った次の瞬間には、先頭の男を斬り伏せていた。
(――速い!)
石が驚いているうちに、もう一人が倒れる。
まるで疾風のような動きだ。
二人がやられ、男たちはようやく反撃に転じる。
残り四人のうち、二人が偽善に、二人がこちらに。
石は覚悟を決め、太刀を抜いた。
「おおおお!」
獣のような咆哮を上げ、敵が襲いくる。
初めての真剣勝負。
試合とは違う、命を懸けた戦い。
にも拘わらず、石には敵の動作がひどく緩慢に見えた。
(遅い……)
余裕を持って上段からの振り下ろしを避けた後、首の高さを横薙ぎに一閃。
(やった……のか?)
手応えがなかった。まるで
だが、首は落ちた。
真剣の恐るべき切れ味だった。
「貴様ぁ!」
怒声を上げながら、もう一人が側面から斬りかかってくる。
(やはり遅い)
石は頭上から襲いくる白刃を避けつつ胴を薙ぎ払った。
敵は腹を抱えながら、うつ伏せに崩れる。
すぐさま背に刃を突き立て、とどめをさした。
「やるじゃねえか」
偽善はすでに二人を仕留めていた。
「そちらもな」
冷静に返すだけの余裕が石にはあった。
不思議だ。由宮師範は「まるで夢のような出来事だった」と言っていたが、石はそれとは正反対、今この時のために稽古を積んできたのだという実感が確かにあった。
理由はわからない。感覚など人それぞれと言ってしまえばそれまでだ。
強いて言うなら、この男が隣にいるからかもしれない。
味方となればこれほど頼りになる者はいないであろう男、悪斬り偽善が。
(これならいける!)
考えてみれば、実戦が初めてなのはこちらだけではない。
名門・一刃流とて、いや、名門だからこそ、人を斬った経験のある者などほとんどいまい。条件は同じなのだ。
敵は焦っている。だから動きが固い。
「また来たぞ」
偽善が言った直後、屋敷の中からドタドタと足音が聞こえてきた。裏門から入ってきた者たちに違いない。
豪堂がいない以上、この屋敷に長居は無用。
石と偽善は急ぎ正門から脱出した。向かう先は蒼葉が待つ神社だ。
だが、行く手にも一刃流の門弟たちが待ち構えていた。
「貴様、悪斬り偽善だな!」
「倉井石も一緒か!」
今度は四人組だ。二人ずつ横並びになって向かってくる。
「もう確かめるまでもねえな。左は任せる!」
偽善は走る勢いそのままに斬り込んでいく。
石も負けじと太刀を振るった。
四人組を倒した後、またしても別の四人組に道を阻まれたので、それとも戦った。
先ほどと同じように、偽善が二人、石が二人を斬り捨てる。
これで石は六人を葬った。
家族も友人もいるであろう人間を六人も……。
だが、悪の権化とも言える豪堂の命で動いている以上は仕方がない。彼らは豪堂の悪行を知った上で加担しているのだ。
さらに言えば、一刃流の門弟は他流派や民衆に対して高圧的な者が多かった。民の貧窮を顧みず裕福な生活を続けていた点でも豪堂と同じだ。
そして何より、太刀を抜いてこちらへ向かってくるからには斬る他ない。やらなければこちらがやられるのだ。
すべては因果応報である。
それでも、石は偽善に
いかに敵とはいえ、地獄の苦しみを与えるのは不憫である。
せめて最期はひと思いに――
幸いにも戦場が広くなかったため、それをできるだけの余裕があった。
大通りならともかく、居住区の小路において横に並んで戦えるのはせいぜい二人だ。三人並べば太刀を斜めに振ることすらできず、手数が限定される。下手をすれば同士討ちになる。
こちらには偽善がいるので、ほぼ一対一で戦うことができた。
敵は竹刀で派手に一本技を取る稽古ばかりしてきた華法剣法の遣い手ばかり。落ち着いて対処すれば、どの門弟も石の敵ではなかった。
だが、数が多い。
「いたぞ!」
「あそこだ!」
少し離れたところから敵の声が聞こえてきた。キリがない。
「いちいち相手にしてらんねえな。逃げるか?」
「無論だ」
石たちは神社に向かって走り出した。
極力戦いを避けるよう、ひと気のない道を行く。
途中、漆黒の衣装を纏った亡骸を発見した。
似たような姿をしているが、先ほど話をした密偵とは別人だった。
おそらく、豪堂の屋敷を見張っていたところを一刃流の者に斬られたのだろう。
「すまぬが、先へ行かせてもらう」
石は亡骸に手を合わせ、再び駆け出した。偽善も続く。
無念ではあるが、亡骸は放置せざるを得なかった。
今こうしている間にも蒼葉が襲われているかもしれないのだ。
(頼む、無事でいてくれ)
敵が一人二人であれば蒼葉でも逃げ切れると踏んだのが甘かった。
一刃流の門弟は年少の者を除いても五十人はいる。この分では屋敷町が包囲されている可能性が高い。到底、脱出はできない。
(まさかこのような事態になろうとは……。いや、後悔している暇はない。今は先を急ぐのみ)
神社まであと少しというところで、またも行く手に人影が現れた。
今度は五人。だが、先頭を走る一人が明らかに小柄である。
「蒼葉か!」
「先生!」
向こうもこちらに気付いたようだ。
直後、蒼葉は追っ手に肩をつかまれ転倒する。
捕まって人質にされればおしまいだ。
「任せな!」
隣を走っていた偽善が急加速する。
そして、倒れた蒼葉を捕らえようとする男を、走りながらの居合い斬りで仕留めた。
「蒼葉、無事か!」
石は蒼葉に駆け寄る。
必死で逃げてきたのであろう。持参した薬箱と焼酎は失われていた。
見たところ、今しがた転倒した時に負った擦り傷以外に怪我はない。
だが、安心はしていられない。
石はすぐに蒼葉を抱き起こし、背後へと
目の前に一刃流の剣客が三人。
三人のうちの一人は知った人物、塾頭の沼田だった。
沼田は息を整えた後、白々しく言う。
「これは倉井殿。夜分に奇遇ですな。我々は今、悪斬り偽善とその一味を追っておりましてな。ご家老様から見つけ次第すぐに斬り捨てるよう命じられておるのですよ。そこな男が悪斬り偽善とお見受けいたすが、まさか倉井殿ともあろうお方が、そのような者と手を組んでは――」
「御託はいい。豪堂はどこへ逃げた?」
石が言葉を遮ると、沼田の表情が能面のように固まった。
「愚かな。我々の誘いを断っていなければ死なずに済んだものを」
「豪堂はどこへ逃げたと聞いている」
「逃げたのではない。ご家老様は攻め入ったのだ」
「なに? どこへだ?」
「これから死ぬ人間が知る必要はあるまい」
沼田は太刀を抜いた。他の二人も抜く。
もはや、話し合いの余地はない。
「じゃあ、俺がそっち二人をやるから、あんたはそのおっさんな」
こちらの返事も聞かず、偽善は二人に向かっていった。
直後、沼田が迫り来る。
「そりゃあ!」
速く、力強い袈裟斬りからの連撃。その勢いは、重い真剣であるにも拘らず竹刀のそれに勝るとも劣らない。やはり油断できぬ相手だ。
だが、石には勝算があった。
人は余裕がない時、過去の成功体験にすがる。沼田とて真剣勝負は初めてか、それに近いはず。ならば、先日の試合の一本目をなぞれば思い通り敵を動かせる。
連撃をいなしつつ塀まで追い込まれてやると、予想どおりの拍子で小手を打ってきた。
石はそれを避けると同時に、沼田の喉を突く。
「ぐ――」
刀身が首を突き通した。
沼田は太刀を落とし、しばらくもがいた後、絶息した。
「おう、そっちも終わったかい」
こちらが一人倒す間に、偽善は二人を倒していた。
やはり、とてつもなく速い。
はっきり見たわけではないが、偽善の戦いは読みも誘いもなく、ほとんどの敵を瞬時に倒している。自分が知っている剣術とは明らかに何かが違う。
だが、分析は後だ。
「蒼葉、実は豪堂が屋敷から消えたのだ。この者たちは何か言っていなかったか?」
石の問いに対し、蒼葉は首を横に振った。
「いいえ、何も……。ただ、悪斬り偽善の一味だから、お前も同罪だと言われただけです」
「そうか」
一味という言葉からして、どうやら上意討ちのことが豪堂に漏れていたようだ。
おそらく向こうにも密偵がいたのだろう。甘く見ていた。
とにかく、この場に留まっていては危険だ。ひとまずは集合地点である神社へと向かう。
そこに行けば、こちらの密偵が何らかの情報を持ってきてくれるかもしれない。
到着すると、闇の中から声がした。
「皆様、ご無事でしたか」
声の主が木陰から姿を現す。あの密偵だ。
「豪堂が屋敷から消えた。何かつかんではいないか?」
石が聞くと、密偵は険しい目付きをした。
「それが大変なのです。豪堂は、おそらくは隠し通路を使って屋敷から脱出した後、孝水様が身を寄せておられるところに、兵を連れて乗り込んでいったのです」
「なに……! 孝水様は今どこにおられるのだ?」
「孝水様のご親戚の、先日倉井殿がお出でになったお屋敷です」
二日前、石が領主より上意討ちの命を承った場所だ。
「豪堂は謀反でも起こす気か?」
「あまりにも突然のことで、私にも詳しくはわかりません。ですが、このままでは……孝水様が……何をされる……か。ですから、早く……」
急に密偵の言葉が途切れ途切れになる。
「おい、どうした?」
偽善が尋ねるのと同時に、密偵は膝を着き、苦痛の声を漏らした。
「うぐ……」
「お前、斬られてんじゃねえか!」
密偵の背中には斜めに走る大きな刀傷があった。
そして、影になっていてよく見えなかった足元には大きな血だまりが。
「私は……もう、助かりませぬ。どうか、孝水様を……お頼み申す……」
密偵の上体がぐらりと揺れる。
石は身体を支えようとしたが、間に合わなかった。
うつ伏せで倒れた密偵は、すでに事切れていた。
「大したもんだ。死ぬ寸前まで涼しい顔してやがった」
偽善が密偵に対して手を合わせた。
「この者の死に報いるためにも、豪堂は必ず討つ」
石は静かに、力強く言った。
主君に危機が迫っている。もはや一刻の猶予もない。
できれば蒼葉だけは逃がしてやりたいところだったが、今となってはそれも無理。
こうなった以上やむを得ないと判断し、石は蒼葉を連れていくことにした。
蒼葉も覚悟を決めてくれた。
三人で領主がいるという屋敷へと急ぐ。
途中、またも一刃流の妨害に遭ったが、すべて凪ぎ払った。
実戦経験を積むことで石は短時間のうちに急成長し、もはや一刃流の三下など子供のようにあしらえるほどになっていた。
五町(約五五○メートル)ほど走ったところで、目的の屋敷が見えてくる。
正門には門番もなく、扉に鍵もかかっていなかった。
「妙だな。こりゃあ罠かもしれねえが、どうする?」
「入るに決まっている」
偽善の軽い調子に、石は一分の迷いもなく応えた。
罠だとしても行くしかない。
屋敷の庭には無数の松明が焚かれており、周囲を赤々と照らしていた。
そこで待ち構えるは、一刃流の中でも腕利きの高弟が八人。
そして、五十過ぎの小柄で肥った男。樒原領の筆頭家老である豪堂重座衛門だ。
「ほう、よくここまで来られたな。だが、貴様らの命運もここまでだ」
豪堂は不敵な笑みを浮かべた。
偽善が一歩前へ出る。
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
「止まれぃ。あれを見よ」
豪堂が縁側の方へ向かって声を上げると、そこに控える高弟二人が座敷の障子戸を両側から開け放った。
座敷の中央に樒原孝水が正座していた――いや、させられていた。
傍らには、抜き身の太刀を手にした高弟が。
さすがに領主相手に刃を突きつけるような真似はしていないが、これでは人質にとったも同然だ。
石は豪堂に対し怒りの声を上げる。
「どういうつもりだ! これは紛うことなき謀反。大罪であるぞ!」
豪堂は鼻で笑った。
「ふん、何を申すか。そこにいる悪斬り偽善こそ、公儀の重役や奉行を幾人も斬った天下の大罪人であろうが。そして、その大罪人を配下に収め、領の秩序を乱そうとしたのが、そこにおられるお方よ」
領主は悔しげな表情をするだけで、何も言い返さなかった。
偽善を利用しようとした魂胆が裏目に出てしまったのだ。確かに、今の状況は外部からすればそのように見えてもおかしくはない。
偽善が皮肉っぽく言う。
「なるほど、そういう筋書きかい。お殿様が俺を雇って、あんたの暗殺を目論んだってことになってんだな」
「筋書きではなく事実じゃ。その証拠に、貴様は殿の配下である倉井と共に戦っておるではないか。倉井が殿から上意討ちの命を受けたことは、密偵を通じて知れておる。ならば悪斬り偽善もまた、殿の配下というのが道理であろう。貴様のような大罪人を召し抱えるなど、いかに領主であっても許されることではない」
豪堂は領主を見る。
「違いますかな、殿?」
領主は、やはり言い返せない。
「違うと言うのであれば、倉井に悪斬り偽善を斬るよう命じてくだされ。さすれば、すぐにでも兵を引き上げましょう。殿が上意討ちを命じたことも不問といたします。さあ、いかがなされるか?」
なにもかもが豪堂の思惑どおりだった。
若き領主には、他になす術がなかった。
「……やむを得まい」
情を押し殺した低い声と共に、鋭い視線がこちらに向く。
「石よ、悪斬り偽善を斬れ」
拒めば主君が罪に問われる。最悪、お家断絶という事態になりかねない。
(やるしかないのか……)
石は歯噛みしながら太刀を抜いた。
連戦を経て、刀身のあちこちが欠けていた。
「余の刀を使え」
領主が言うと、床の間に掛けてあった豪華な拵えの太刀を高弟が持ってきた。
手に取り、抜いてみる。
刀の目利きは得意ではないが、二百両は下らない大業物だ。
「本気でやるのか?」
偽善が横から聞いてきた。
「君命だ。このような形でお主と戦うのは不本意だが、仕方あるまい」
「そうかい……」
偽善が静かに太刀を抜く。
その刀身が、普通の太刀と比べてふた回りほども細いことに気付き戦慄する。
おそらく、過去に何度も何度も研いでは使ってきたのだろうが……。
あのような痩せ刀で敵と打ち合えば簡単に刀身が曲がる。もしくは折れる。
つまり、偽善は豪堂邸からこの屋敷に至るまで――否、もう何年もの間、一度も刀と刀をぶつけることなく敵を仕留めてきたのだ。
恐るべき剣の冴え。
剣術の理想を体現したような存在。
だが、蒼葉が口にした話では、偽善は十三の時に樒原領を脱してからずっと一人で稽古を積んできたのだという。ならば精妙な駆け引きには慣れていないかもしれない。
必殺の初撃を見切りさえすれば勝機はある。
「待ってください!」
蒼葉が間に割って入ってきた。
「ダメです! 二人が戦うなんて……」
「孝水様を救う方法は他にないんだ。それに偽善とは、どのみち決着を付けるつもりだった。順が変わっただけだ」
「でも!」
譲ろうとしない蒼葉を、偽善がそっと押しのけた。
「蒼葉、悲しいがこれが武士ってもんだ。それがわからねえなら、もう男の真似事はやめときな」
「そんな……」
蒼葉は絶句し、庭の隅まで後退した。
(すまない、蒼葉……)
石は最期に大切な家族の顔を見た後、庭の中央で偽善と向かい合った。
道場での試合と違い号令はない。戦いはもう始まっている。
石は正眼の構え。
偽善は太刀を
間合いは背丈が五寸(約十五センチメートル)ほど高い偽善の方が広い。
加えて、先ほど見せた疾風のような身のこなし。
どうしても先手は譲らざるをえない。
(返し技を狙うか。いや……)
石は由宮師範との稽古を思い出す。
頭で考えていては偽善の速さには対抗できない。
自分が今までしてきたことを信じるのだ。
そう、心を無に――
気が付けば、切っ先が偽善の肩を斬り裂いていた。