第17話  決断②

文字数 8,443文字

 蒼葉には速過ぎて何が起きたのかわからなかった。
 ただ、先生と偽善が同時に倒れるという最悪の結果だけが目に映った。
「ハハハッ! フハハハハッ!」
 豪堂が高らかに笑った。
「これはよい! まさか相討ちで双方が倒れてくれるとは」
 二人は倒れたまま微動だにしない。
 まだ死んだと決まったわけではないので早く駆け寄って確かめるべきだが、あまりにも受け入れ難い現実の前に、身体が動いてくれなかった。
「念のためとどめを指しておけ」
「はっ!」
 豪堂の指示で、高弟二人が動く。
「ま、待て!」
 ハッと我に返った蒼葉は小太刀を抜き、二人の前に立ちはだかった。
 高弟の一人が威圧的に言う。
「小僧、邪魔立てするなら容赦はせぬぞ」
 蒼葉は小太刀を正眼に構え、手足を震わせながらも譲らなかった。
 高弟が豪堂の顔を伺う。
「ご家老様、こやつも斬ってよろしいでしょうか?」
 豪堂は返事をせず、じっとこちらを見つめてきた。
「ん……お主、もしや雲月蒼助の娘ではないか?」
「え……!」
 蒼葉は驚くだけで肯定しなかったが、豪堂は勝手に納得した。
「ふむ。男の格好をしておるが間違いない。雲月の一人娘じゃな。いやはや、不憫よの。父娘そろって悪斬り偽善と関わったばかりに、かような目に遭うとは。どれ、冥土の土産におもしろい話を聞かせてしんぜよう」
 ニタリ、と邪悪に歪んだ口から衝撃的な事実が発せられる。
「六年前、お主の父と悪斬り偽善が戦うよう仕向けたのは、このわしよ」
「な……!」
 蒼葉は驚愕の声を上げた。
 沸々と、今まで行き場のなかった憎悪が表情に滲み出る。
「お前が……父上を!」
「ハハハハハッ!」
 豪堂は「その顔が見たかった」と言わんばかりに大声で笑った。
「許さない!」
 蒼葉は猛然と豪堂に斬りかかろうとするが、二人の高弟が立ちはだかった。
 父の本当の仇が目の前にいるというのに手が出せない。
 それが悔しくて、悲しくて、視界がぼやけてしまうほど涙が溢れてきた。
「もうよいぞ。斬れ」
 豪堂は途端に興味を失ったような声で命じる。
 すると、それまで黙って正座をしていた領主が膝を立てた。
「待て! その者はまだ子供ではないか。武士が子供を斬るのか!」
 だが、豪堂は取り合わなかった。
「その娘が男に扮してまで剣を握るのは、父の仇討ちをたくらんでおるからに他なりませぬ。そのような者を生かしておくわけにはいきますまい。後顧の憂いは、ここで絶っておかねば」
「その憂いを作ったのは、お主であろう」
「いやいや、そもそもの原因は雲月の方にございます。雲月が我が一刃流の門弟を斬ったことが、すべての始まりなのです。――娘、そうであろう?」
 そんな話は聞いたことがなかった。
 父が人を斬ったなんて。
「黙っておるということは認めるのだな?」
「ち、違う!」
「ならば、今すぐ証明してみせよ」
 仮に豪堂の言うことが事実だとしても、人を斬るだけの正当な理由が父にはあったはずだ。だが、今の今まで何も知らなかった蒼葉に、それを証明できるはずがない。
「ふん、話にならんな。斬れ」
「はっ!」
 高弟二人が上段に構えた。
 敵は大勢いる。どうやっても勝ち目はない。
 せめて一人でも道連れにしてやろうと、蒼葉は小太刀を強く握り締めた。
「それではダメだ」
 不意に背後から小さな声。
「……え?」
「刀を握る時は柔らかくと教えただろう」
 次の瞬間、蒼葉の背後から飛び出した切っ先が、高弟の喉を捉えた。
「ぐ――」
 切っ先はすぐに引き抜かれ、もう一人の喉に飛ぶ。
 目の前にいた高弟二人が、瞬く間に崩れ落ちた。
「き、貴様!」
 豪堂が叫ぶ。
 起き上がったのは、紛れもなく倉井先生だった。
 さらに――
 突如、うつ伏せになっていた偽善が身を起こすと同時に走り出す。
 猫のような速さで、あっという間に領主の背後にいた高弟に迫り、斬り捨てた。
 領主は人質から解放される。
 その場にいる全員が倉井先生に注目する一瞬の隙を付いた、見事な急襲であった。
 予想外の事態に豪堂は慌てふためく。
「き、貴様ら、なぜじゃ!? なぜ無傷なのじゃ!?
「そいつは俺の方が聞きたい。先生、なんで俺を斬らなかったんだ?」
 偽善は先生に顔を向けた。
「無意識だったからわからぬ。お主の方こそ、なぜ私を斬らなかった?」
「さあな。俺も無意識だったからわからねえ。ひょっとしたら、あんたみたいな立派な武士を斬るのは惜しいって、この手が思ってくれたのかもしれねえな」
 小さく笑う偽善。
「ならば私も同じだ」
 先生も微かに笑った。
 きっと無意識だったからこそ、互いを斬りたくないという本音が刀に通じたのだ。
 蒼葉の涙が歓喜の涙に変わった。
 当然、納得できないのは豪堂だ。
「ならばなぜ倒れた? なぜすぐに起き上がらなかった?」
「んなもん芝居に決まってんだろ。倒れた振りして、お殿様を助け出す隙を伺ってたんだよ。幸い、先生の腕が俺の身体に乗っかかってたもんだから、先生にも意識があるのはすぐにわかった。あとはまあ互いの呼吸だな」
 偽善の言葉に先生が頷く。
 達人同士、剣を交えた者同士、言葉にしなくとも通じるところがあったのだろう。
「蒼葉、怖い思いをさせてすまなかったな」
 先生の手が、そっと肩に触れた。
 それから、先生は豪堂に対し切っ先を向け、高らかに宣言する。
「豪堂重左衛門。君命により、貴様を成敗する!」
 人質を失った今、豪堂を守るのは一刃流の高弟だけだ。
 残りは五人。その程度なら先生と偽善の敵ではない。
 だが、豪堂は強気な態度を崩さなかった。
「ふん、わしの駒が一刃流だけと思うなよ。者共、出会え出会えぃ!」
 呼び声に反応して、武装した男たちが正門裏門の二方向からぞろぞろと現れた。
 上級武士である一刃流の門弟たちと違い、どれもこれも見るからに博徒・侠客といった風体をしている。
 どうやら、ならず者とつながっているという噂は本当だったらしい。
「ハハハッ、こんなこともあろうかと集めておいたのだ。いくら貴様らでも、この数には勝てまい」
 偽善は蒼葉を、先生は領主を庇いながら壁際まで下がる。
「一刃流の残りも合わせて二十……三十近くいるか。さすがにキツいな。先生、どうするよ?」
「やるしかない。偽善、半分は任せるぞ」
 さしもの二人も声に余裕がなかった。
 あるいは、先ほどの路地のような場所であれば、あの人数相手でも勝ち目があるかもしれない。逃げながら敵を分散させて戦うことができるからだ。しかし、塀に囲まれたこの庭ではそれができない。
 しかも、敵の多くは槍や半弓など射程の長い武器を携えている。剣客を相手にするのとは勝手が違う。いくらなんでも無茶だ。
 先生がこちらを見る。
「蒼葉、我々が何としても突破口を開く。その間に孝水様を連れて脱出してくれ」
「は、はい」
 無茶ではあるが、すでに退路を塞がれてしまっている以上そうするしかない。
 ここで領主を失えば、豪堂はいよいよ樒原領の独裁に乗り出すだろう。それだけは何としても防がなければならない。だが、今となってはそれすら難しい。
 敵がじりじりと迫ってくる。
 射手が矢を(つが)え、こちらを狙ってくる。
(このままじゃ、みんなやられる。本当に、どうにもならないの?)
 あまりにも理不尽で絶望的な状況に、蒼葉の思考が鈍くなる。
 ただ祈ることしかできなくなる。
(お願い、誰か助けて!)
 だが、無情にも豪堂の声は飛ぶ。
「やれ!」
「伏せろ!」
 先生が叫んだ瞬間、五本の矢が襲いくる。
 蒼葉は、とっさに領主を庇いながら地に伏した。
 空気を裂く音が頭上を通過していく。
(二人は!?
 飛び上がるように顔を上げると、
「灯篭に隠れろ!」
 再び、先生の叫び。
 同時に、偽善が正門を塞ぐ敵に向かって走り出す。
 一射目はすべて回避できたようだ。
「こ、こっちです!」
 次の矢が来る前に、蒼葉は領主を連れて灯篭の陰に身を隠す。
 四尺(約一二〇センチ)ほどの高さがあるので、屈めば矢を防げる。
 だが、そんなものは一時凌ぎに過ぎない。
 三本の槍が偽善に襲いかかる。
 偽善は走る勢いを殺さず、突如あさっての方向へ飛翔した。
 三本が、ことごとく(くう)を突く。
 直後、空中で塀を蹴った偽善が敵陣へ舞い込んだ。
「ぐぁ!」
 着地を待たず、鈍色の刃が敵の首筋を斬り裂いた。
 続けざま、槍の間合いを潰され慌てふためく二人を斬り捨てる。
 とてつもない奇襲技だ。――が、感心している間はない。
 今度は、倉井先生に槍が向かってくる。
「イヤー!」
 いくら先生でも射程が倍近くある槍相手では先手が取れない。
 刹那の拍子で胴突きを避けると同時に剣の間合いに入り、一閃。
 得意の返し技は、槍相手でも健在だ。
 しかし、一人を仕留めた直後、横から穂先が飛んでくる。
「ぐっ!」
 とっさに身を捻るも避けきれず、先生は二の腕を斬り裂かれた。
「先生!」
「おおお!」
 蒼葉の悲痛な叫びに対し「大丈夫だ」と応えるように、先生は雄叫びを上げて二人目を薙ぎ払った。
 どうやら傷は浅かったようだ。
「まずは悪斬り偽善を狙えぃ!」
 二射目を番えた射手に、豪堂が命じる。
 その時、偽善は四本目の槍を仕留めたところだった。その瞬間に動きが止まるのを狙って、五本の矢が一斉に飛ぶ。
「ちぃ!」
 五本のうち三本は外れた。一本は太刀で振り払った。だが、もう一本が肩口に刺さってしまった。
「悪斬り偽善、討ち取ったりー!」
 ここが勝機とばかりに、一刃流の高弟が太刀を振り上げ襲いかかる。
「遅え!」
 偽善は矢をものともせず、片手突きで高弟の胸板を穿(うが)つ。
 五人目が地に転がった。
「ふん!」
 倉井先生が、槍の先端部を斬り落とした。
 武器を無力化された敵は、なす(すべ)もなく斬り捨てられる。
(す、すごい……!)
 敵の数が次々と減っていく。
 しかし、敵も馬鹿ではない。
「うぐっ!」
 先生の額から鮮血が散る。
 遠間から石礫(いしつぶて)を投げつけてきたのだ。
「試合じゃねえんだ。まともにやり合うこたあねえ!」
「これでもくらえ!」
 石礫の雨が降り注ぐ。
 先生は頭部を守るだけで手一杯となり、その場に居着いてしまった。
「今じゃ! 倉井を射れぃ!」
 豪堂の指示で、三射目の矢が先生を狙う。
 先生は、そばにあった敵の亡骸を盾にすることで、なんとか矢を防いだ。
 そこへ槍が。
「串刺しじゃー!」
 槍は亡骸を貫通し、先生の脇腹を(えぐ)った。
 次の瞬間、先生の太刀が敵の喉に突き刺さった。
「あぐ――」
 また一つ、亡骸が増える。
 肉の盾を捨て、すぐに立ち上がる倉井先生。だが今度の傷は浅くない。
 偽善も同様だ。敵を一人斬り捨てるたび、着実に疲弊していく。
 敵はまだ半数以上も残っている。
 依然として突破口を開くことができない。
 このままでは、いずれ……。
(もう見てられない!)
 ついに我慢しきれなくなった蒼葉は、加勢しようと立ち上がる。
 が、背後で屈む領主が袖を引っ張ってくる。
「よせ! そなたが出ても足手まといだ!」
「でも!」
 そうこうしている間に、四射目の準備ができてしまう。
 せめて一回でも矢を引きつけようと、蒼葉は領主の手を振り払い、灯篭の陰から飛び出した。
「馬鹿め、のこのこ出てきおって! お前たち、あの娘を狙えぃ!」
 豪堂が、五人の射手のうち三人に指示を飛ばした。
 では、残りの二人は?
 気付くのが遅かった。
 豪堂も領主もわかっていたのだ。蒼葉が狙われれば、必ずどちらかが庇いに来ると。
「蒼葉ぁ!」
 とっさに動いたのは偽善だった。
 直後、三本の矢が放たれる。
 体当たりをするような勢いで突っ込んできた偽善に、蒼葉は押し倒された。
 痛くない。三本は避けられたようだ。
 しかし――
「そこじゃ! 射れぃ!」
 時間差で放たれた二本が、偽善に突き刺さった。
「ぐ……!」
 青葉の上で、偽善が苦悶の表情を浮かべる。刺さったのは背中と足。
 そこへすかさず、一刃流の高弟が迫り来る。
「取ったぁー!」
「取ってねえよ!」
 偽善は素早く身を翻し、高弟の心臓を突いた。
「そりゃあ!」
 続けざまに襲いかかってきた槍を、すんでのところで避け、首を()ねる。
 三本の矢を身体に立ててなお、早技は衰えない。
 さらに襲いかかろうとした敵を、キッと睨みつけた
 その鬼神のような双眸に、敵はたじろぎ前進を止める。
「こ、こいつ、化物か!?
 倉井先生も、また一人斬り捨てる。同時に、左の肩に傷を負う。
「蒼葉、立て! 早く隠れるんだ!」
 もはや満身創痍だというのに、人の心配をしている。
(こんな……こんなことって……)
 蒼葉は上体を起こすも、すぐには立ち上がれなかった。
 隠れてどうなる? わずかばかり死ぬのが遅くなるだけだ。
「何をしておる、そやつらはもう虫の息だ! 一気に潰せぃ!」
 豪堂に檄を飛ばされ、敵が再び前進を始める。射手が五射目の矢を番える。
 ……もはやこれまで。
 せめて辱めだけは受けぬよう、ここで戦って散ろう。
 蒼葉は決意し、立ち上がった
 ――その時だった。
 その場にいる全員の動きがピタリと止まった。
 屋敷の外から、雄叫びのような声が聞こえてきたからだ。
 続いて、足音が聞こえてくる。
 一人二人ではない。大勢が、こちらに向かって走ってくる音。
「倉井先生!」「先生!」「助太刀に参りましたぞ!」
 正門の方角から飛んできた声は、いずれも聞き覚えのあるものだった。
「なんだこいつら!?
「ぐあっ!」
 敵が二人、三人と倒れる。
 その向こうから姿を現したのは、蒼葉がよく知る雲月流の門下生たちだった。
「お前たち! どうしてここに?」
 倉井先生が驚く。
「これだけの騒ぎで気付かぬとお思いですか!」
「水くさいではありませんか! なぜ我々を呼ばなかったのです!」
 さらに、
「蒼葉、無事か!」「助けにきたぞ!」
 少年部の者まで駆けつけてくれた。その数、合わせて十五。
「下がれ、下がれ!」
 正門近くにいた敵が慌てて後退する。
「狼狽えるな、半分は子供だぞ! 給金は倍出す! そやつらもまとめてやってしまえ!」
 豪堂の声は配下たちに届いていなかった。
 再び、大勢の足音が響いてきたからだ。
 今度は裏門の方角。
「うああ、こっちも来たー!」
「退け! 奥に退け!」
 裏門側にいた男たちも慌てて後退する。
 そこに現れたのは、またも見覚えのある剣客集団。特に先頭にいる白髪混じりの小柄な侍のことはよく覚えていた。確か、父の友人だった剣術家だ。
「我ら由宮流、義によって雲月流に加勢させていただく!」
 由宮師範はじめ、由宮流の門下生たちが一斉に太刀を抜いた。
 蒼葉の位置から見えるだけでも十人以上はいる。
「お、おい、聞いてねえぞ」
「どうすんだよ!」
 庭の中程へと追い詰められた敵は怯えきっていた。
 だが、逃げ道はない。先ほどまでとは完全に立場が逆だ。
 そこへすかさず、偽善が助け舟を出す。
「逃げたい奴は武器を捨てて逃げな! 雲月流と由宮流のみんな! 武器を捨てた奴には道を開けてやってくれ!」
 皆が偽善に同意する姿勢を示すと、敵は次々と武器を放り出した。
「おい、逃げるな! 待たぬか!」
 豪堂が呼び止めには誰一人として応じず、一目散に逃げていく。
 残っていた一刃流の高弟までもが、恥も外聞もなく逃げ出した。
 所詮、金や地位のために集まった連中であって、信念や忠誠心などというものは持ち合わせていなかったようだ。
 やがて喚き声と足音が遠ざかり、屋敷の中が静まり返る。
 偽善はゆっくりと庭の中央に出て、豪堂を睨みつけた。
「……さて、これで残るはお前一人だな」
 傷のせいで声が低くなっているが、かえって気迫は増していた。
「なぜじゃ!? あやつらめ、あれだけ目をかけてやっというのに、なぜ戦わぬのだ?」
 豪堂は顔面蒼白となり、逃げ道を探すように首を振る。
 だが、時すでに遅し。配下がいた時は最も安全だった縁側の隅が、今や逃げ場のない危険な立ち位置となっていた。
「金と権力で作った人間関係なんざそんなもんよ。誰もお前のために命まで懸けちゃくれねえ。お前は所詮、その程度の男なんだよ」
「ぐっ……」
 豪堂は何も言い返せない。
「こんな野郎はすぐにでも斬り捨ててやりてえところだが……。ここは上意討ちの命を受けてる先生に譲るべきかね。それとも蒼葉」
 偽善がこちらに顔を向ける。
「お前が斬るか?」
「え……!」
 突然のことに蒼葉は驚いた。
「私が?」
 もちろん、この手で父の仇が討てるなら討ちたい。そのために、ずっと剣術の稽古をしてきたのだから。
 蒼葉は先生の顔を伺う。
「お前が決めろ」
 先生は静かに答えた。
 領主も止めなかった。
 あとは蒼葉が決断するだけだ。
(父上……)
 あの時、父は『強くなりなさい』と言った。
 このまま何もかも人任せにしてしまっては、父の遺言を守ることはできない。
「私がやります!」
 蒼葉は力強く宣言し、前へ出た。
 そして、小太刀を前に構える。
 豪堂は激昂した。
「貴様が相手をするというのか? なめるな! わしは一刃流免許皆伝の腕前だぞ!」
「ハッ、なにが免許だ。どうせ金で買ったんだろ? やってやれ、蒼葉。そんな奴お前の敵じゃねえ」
 偽善の声援に、雲月流の少年たちも続く。
「そうだ!」
「お前なら軽く倒せるぞ!」
「日頃の成果を見せてやれ!」
 声に押され、蒼葉の内に気力が漲ってくる。
「ぐぬぬ!」
 豪堂は屈辱で顔を歪ませながら太刀を抜いた。
 庭の中央にて、互いに正眼の構えで相対する。
 これから命懸けの勝負をするというのに、蒼葉には不思議なくらい落ち着きがあった。
 豪堂がいくら免許を買ったといっても、武士であるからには全く稽古をしていないわけではない。身体はあちらの方が大きく、太刀もあちらが長い。
 それでも、恐怖はなかった。
 自分にならできると、先生と偽善が認めてくれたから。
 道場のみんなが見守っていてくれるから。
「おおお!」
 豪堂が太刀を振り上げ、斬りかかってくる。
(遅い……)
 そう思ってからでも避けられるくらい、その動きは緩慢だった。
 半歩下がって豪堂の振り下ろしを避けた後、すかさず小手を打つ。
「うっ!」
 豪堂の手から太刀が落ちる。
 同時に指も何本か落ちた。
「ああああああ!」
 絶叫。
 豪堂は地面に膝を着き、赤黒い血が溢れ出す己が手を凝視した。
 その頭上に、蒼葉は小太刀を振りかざす。
「勝負ありだな」と倉井先生。
 豪堂はガクガクと震えながら指の出血を抑えている。すでに戦意を失っているようだ。
 あとは小太刀を振り下ろせば、すべて終わる。
「や、やるなら早くやれ……」
 すぐにでも斬ってしまいたい衝動を抑え、蒼葉は小太刀をゆっくりと下ろした。
「その前に聞かせて。父上が一刃流の人を斬ったというのは本当なの?」
「本当じゃ。雲月を無礼討ちしてくれようと刺客を送ったところ、返り討ちにしてきおった」
「では、父上はどんな無礼を働いたの?」
「あやつは、わしからの申し出を断りおったのだ。せっかく、一刃流の師範に取り立ててやろうとしたのに、雲月流などという弱小流派に拘りおるから……」
「それだけ?」
「そうじゃ。筆頭家老であるわしに逆らうなど、万死に値する!」
 拍子抜けだった。
 やはり父に正当性があったことは喜ばしい。だが、その程度の理由であの立派だった父が殺されなければならないとは、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「そんなことで……」
 蒼葉は拳を握りしめ、肩を震わせる。
「そんなことで!」
 そして、眼前にある醜悪な顔を思い切り蹴った。
「ぶっ……!」
 豪堂は勢いよく仰向けに倒れ、盛大に鼻血を吹き出した。
「許さない!」
 続けざま、脛を斬りつける。
「うぐっ!」
 切っ先は下腿を半分ほど切断した。もはや、まともに歩行できまい。
 それでも怒りは収まらない。
 膝を抱え地面を転げ回る豪堂を、さらに斬りつけようと小太刀を振り上げる。
「もうよせ」
 背後から先生が言った。
「やるなら一思いにやれ。いかに悪党といえど、なぶり殺しは武士道に(もと)る」
 我に返った蒼葉は、興奮で息を切らしながら小太刀を下ろした。
(一思いに――)
 それでは、この悪党の罰としてはあまりに軽い。
 さりとて、先生の言葉を無視することはできない。
 そこで蒼葉は逆の決断をした。
「殺さない……。私は、殺さない!」
 悲痛な叫びが夜空の下に響く。
「私以外にも、あなたを憎む人は大勢いる。あなたは大勢の人を苦しめた償いをしなければならない。だから私は殺さない。生きて、私以外の人たちからも裁きを受けなさい」
 豪堂は膝を抱えたまま一言も発しなかった。
 先生も偽善も領主も、何も言わなかった。
 雲月流と由宮流の者たちも、ただ遠くから見守るだけだ。
 不意に、遠くからピーという笛の音が聞こえてきた。
「あっ、まずいな、お役人が来やがったか」
 偽善が慌てる。彼はお尋ね者なのだ。
「悪い、先に退散させてもらうわ。近いうちに道場に顔を出す。またな!」
 偽善は矢が刺さったままの姿で、颯爽と走り去っていった。
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